第一章 いつもの道でわたしたちは(4)




 東京二十三区とはいえ県境に近くなればなるほど自然は豊かになる。

 ゆうはほぼ沈みかけている。

 朱理は電車から降りてしばらく歩いた。

 薄暗いあらかわせんじきに行き着くと、朱理はようやくそこで耐えきれなくなって、くずおれて吐いた。腹を抱え込むように押しても胃液だけしか出なかった。

 川に両手を突っ込んで口元を洗う。暖かな四月とはいえまだ川の水は冷たい。

 再び川に手を突っ込むとじわじわと冷える痛みがしみてきた。しばらくそうしていると体温だけでなく痛覚も奪われていく。黒い川に身体が溶けていくようだった。


「溺死でも試すつもりか?」


 不意に背後から声をかけられて、朱理は水から腕を引き上げる。


「……ベル、か……」

「幸せそうな家族を見て生きているのがつらくなったのだろう」


 いっそすがすがしいほどの高慢な声が降ってきた。


「生きるのは苦しいなぁ、そう顔に書いてあるぞ」


 朱理の肩にふわりと金色の髪がかかる。目だけ動かせば、至近距離で面白そうにのぞき込んでくる青い瞳とかち合った。彼は淡いサーモンピンクの唇を耳元に寄せてきた。


「なぁシュリよ、人間が確実に溺れ死ぬ方法を教えてやろうか?」

「……顔を洗っていただけだ」


 朱理は手を振り払って水気を飛ばす。


「相変わらずわいげのないやつだ」

「なに勝手に来てんだ……呼んだら来いと言っただろ」

「たまには前夜祭から楽しもうかと思ってな」


 ふらりと立ち上がった朱理は、彼を無視して歩き出す。ベルと呼ばれた美青年はやや背丈が低く、ほぼ骨と皮だけの朱理とは違って血色も肉付きもほどよい。朱理からそっけない態度を取られても別段気にせず、たのしそうにまとわりいてきた。


「つぎはどこに行くのだ?」


 彼は若々しく甘い見た目とは裏腹にきようごうであった。


「この近くにいちご農園がある」

「苺! 良いな、採れたてを我に食わせろ!」


 飛び跳ねるようによろこんで隣に並んだ青年をいちべつし、朱理は小さくため息をついた。


「そこの苺農園は三年前から閉鎖されている」

「なんだ枯れておるのか。つまらんな」


 金髪へきがんの青年は唇を尖らせる。


「そんなに食べたいならスーパーで買ってこい。金なら好きにさせているだろ」

「ふん、なにがスーパーだ。貴様はジャパニーズでありながら情緒を楽しむということを知らんのか。産地で採れたてを食すことがなのではないか。……しかし随分と暗いな、ジャパンにしては電気の明かりが少ないぞ」


 河川敷から伸びる細長い道路を小さな田畑が挟む。そのほとんどは人の手が入っていないのかひどく荒れていた。雑草がぼうぼうと生い茂っている。

 家の陰に夕陽が隠れてしまうと、一瞬にしてあたりが暗闇に包まれた。

 さきほどから車にも人にもまったくすれ違わない。


「この近くには古くから農業系の大学のキャンパスがある。だが人口減少とともに、小さな農家が潰れていき、定期バスもなくなり交通の便が悪くなっていった」


 朱理は持っていた小さな懐中電灯を上着のポケットから出して、行き先を照らした。割れた苺農園の看板がカタカタと音を立てている。腐った木の支柱には、裂けたネットやビニールに、野草と化して実が望めない農作物や、生命力の強い雑草が絡みついているのが見えた。


「この人通りの少なくなった道を徒歩で行き来する生徒はまずいない。保護者が車で迎えに行くか、自転車を利用しているそうだ。だが──」


 青年は匂い立つなにかに誘われるむしのように鼻をひくひくさせ、中へと踏み入った。


「ここで女がなぶられて殺されたようだな。つまりその大学に通っていた下校途中の女が襲われたのだろう?」

「おまえには説明しなくてもわかるか……」

「濃い恐怖の匂いが残っているぞ。我が好むものとは違うがな」


 ここだな、と青年は土のくぼみにスニーカーの靴底を押し入れた。


「ふむ、この辺りにはロープ状の凶器もじゅうぶんに備わっておる。死因は絞殺か」

「まるで犯行を見たかのような言い方だな」

「ふははっ、まさか我を疑うのか?」

「いや……違うのはわかっているが」


 昨年の十月──最初に殺された女子大生は、この苺農園が棄てた残骸によって両手を縛られ、首を絞められた。凶器となったそれらからは、海外で大量に生産された軍手の繊維が検出されただけだった。軍手は百円程度で買える安価なものであり、市場は広く、未だ販売店の特定には至っていない。現場に残された足跡の大きさから中肉中背、血液型はA型の男性、前科はなしと照合結果が出ている。

 もうひとつ重要な証拠として被害者の遺体から数十メートル離れた場所にはあるものが転がっていた。タイヤがへしゃげて壊れた、被害者の自転車だ。犯人が乗っていた車とおぼしき銀色の塗料が付着しており、接触した形跡がある。


「このような暗い道ならばうっかりいてしまうこともあろうな。以前もあったな、自動車の運転を生業とする者が、人間を轢いてしまい、免許剝奪をおそれて殺害し、死体を遺棄したという事件が。小さな傷を隠そうとして余計に傷を広げる典型例だ」

「今回は違う」

「そうか?」──ベルは腕を組んでこてりと首をかしげる。

「偶然の事故から強姦はしない」

「思いつきでするかもしれんぞ」


 朱理は強く否定するようにせきばらいをした。


「被害者には交通事故によるは見受けられなかった。接触事故はもしかしたら偶然ではなく、犯人にとって接触そのものが『手段』だった可能性がある」

「では接触事故は強姦するための『手段』といったところか?」

「この事件以降、都内では似たような犯行が続いている。いずれも現場には壊れた自転車があり、その自転車から数十メートル離れた場所で殺害されていること、被疑者は被害者の自転車を処分していないことから接触事故を隠す気はないこと、A型の男性のDNA型が検出されていることから同一犯による連続殺人事件だ」

「一人目でうまくいったから二人目も、三人目も、か……まぁよくある快楽殺人だな。繰り返しているということは味を占めたのであろうなぁ。三人殺せばあとは作業よ」

「早くつぎの犠牲者が出る前に──」

「なにを言っておる。むしろもっと殺せばよいのだ。そのほうが我にとっても、貴様にとってもであろうが」


 青年は退屈そうに頭上でぐんと両腕を伸ばした。


 ──……もっと殺せ……か。


 無邪気に放たれたいつもの言葉が朱理の頭を冷静にさせる。


「でかい声で言うな、誰が聞いているかわからない」


 彼は相棒でもなければ協力者でもない。善なる犠牲者には一切の興味がなく、非道な殺人者のみが興味の対象となりうる。朱理と彼の関係性を表現するならば、殺人者を追い求めるという意味で利害が一致しているだけのである。


「ところでシュリ、今日はたいしてくなかった。食った気がしないぞ。もう腹の虫が鳴っておる。今度は期待してよいのだろうな?」

「物足りないならそのへんの野生苺でも食えばいいだろ」

「それはそれ、これはこれだ。人間にとっても水と食料は別物だろう。水で喉を潤すことはできても、我の空腹はすなわち貴様の死に直結する……まさか、忘れたか?」


 白いTシャツに薄青の穴あきジーパン。日本が大好きな彼は、スニーカーまで日本のブランドでそろえている。自分とおなじように水を飲み、パンをかじる。シャワーも浴びるし退屈になれば寝る。だから時々、本当に人間なのではないかと錯覚してしまう。

 違う。こいつは、人間じゃない。


「忘れたのであればあの日の約束を何度でも耳元でささやいてやろう」


 ──あれからもう三年……か。


 歳月はいやおうにも順応を覚えさせる。


「いい……忘れてはいない」


 朱理は自分に言い聞かせるように呟いた。

 いつの間にか眼前に立っていた青年が、懐中電灯を持つ朱理の手を、がっと摑んだ。まるで血の通っていない冷たい指先が手首に絡まる。明かりをふっと顔に向けられた。


「ならばなぜそんな顔をする?」


 三日月に嗤う青い目が覗き込んでくる。


「選んだのは貴様だろうに」


 直後、懐中電灯が雑草の上を転がった。朱理の喉仏を這いずった長い指が首を絞めるように巻き付いたのだ。十本のそれらが朱理のうなじの、ある箇所に触れた瞬間、どくんと全身の血液が波打った。


「ぐ、っ……」

「魂の匂いもわからぬ人間ごときにすべてを理解しろとは言わんが、約束だけはたがえるなよ。すこしでも躊躇ためらえば後悔するのは貴様だ」


 冷え切っていた身体が一瞬にして沸騰するような衝撃には未だ慣れない。


「……はっ、ぁ……」


 闇の中であえぎ、朱理はすぐにその手を振り払った。


「ま、あの程度の小物ではひと月ぶんくらいか」


 言われて朱理は反射的に自分のうなじに触れた。

 熱い──。どくどくと手のひらに生命の鼓動を感じる。


「つぎは……もうすこし稼げる」


 すこし暖かな春の空気が、朱理の肌に汗を浮かせた。じわじわと体温が高くなる奇妙な感覚に酔いそうになりながら、懐中電灯を拾った。


「ではシュリ、ゆるりと行こう。我の好物を求めてな」


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