第一章 いつもの道でわたしたちは(3)



 朱理は応援のパトカーが到着してから現場を離れた。

 本庁奇特捜の一之瀬朱理ですと名乗れば、誰もが表情を険しくした。なにも知らない箱番の若い巡査だけが職務を全うしようと朱理から情報を聞き出そうとしてきたものの、あとからやってきた先輩に慌てて肩を摑まれ、引きずられていった。


「やめとけ、関わるな」「なんでですか」「後で教えるから──」


 自分につきまとう黒いうわさはこうして伝染していく。

 誰も不気味な奇特捜に関わりたくないし、相手が一之瀬朱理ならなおのことだ。

 関わらないでいてくれるのなら、それが一番いい──と朱理は思う。

 スーツの上着のポケットでスマートフォンが震えた。朱理が所有するスマートフォンは支給された仕事用のみだ。プライベート用は妻と娘が殺されて以降解約し、仕事相手以外とは連絡を取らなくなった。

 慌ただしく動きまわる警察関係者の姿を横目に、朱理はスマートフォンを取り出した。神楽坂課長から送られてきたメールには事件番号とパスワードが記されている。警察の共有ネットワークに接続し、そのふたつを入力して捜査資料データを開いた。


「……あの事件か」


 素早く目を通す。

 世間ではトップニュースにこそなっていないが、連続性を疑われている未解決事件だ。──強姦殺人──……朱理は僅かに表情を険しくし、スマートフォンの画面を消す。

 引き継ぎもそこそこに現場から立ち去る朱理を誰も止めなかった。



 朱理はJRいついち線から乗り継いで、けいおう線のしん宿じゆく行き各駅停車の車両に乗り込んだ。

 大きめのはえが一匹、朱理のあとを追うようについてきた。ドアが閉まり、その蠅はゴーと強く吹き付けてくる空調の風をものともせずに車内を飛び回り始めた。

 四月も半ばの夕方、都心へ向かう車両は乗客もまばらでほとんどが座っている。

 買い物帰りらしい家族連れの笑い声が聞こえた。朱理は彼らから距離を取って車両の端の三人掛け席を選んだ。向かいの座席には誰もいない。朱理は背中を丸め、流れる景色とともに薄暗いガラスに映る、自分の不気味な顔を見つめた。

 肌は青白く、不健康に瘦せこけた頰。色の悪い唇。

 ざんばらに切られた長い前髪には白髪が目立つ。

 笑顔をつくる機会を失った顔は全体的に垂れている。

 くぼんだ目元は炭を塗ったように黒い──。

 最後に食事をとったのはいつだろうかと朱理は思った。そういえば最後にベッドで眠った記憶も曖昧だ。電車の揺れに身を委ねてすこし休むかと瞼を閉じても、ただ目の奥が重くなるだけで「眠い」という感覚を忘れている。疲労が蓄積し脳が一種の覚醒状態に陥っているらしい。不快に思うほど周りの音が大きく聞こえ、神経がとがっていた。

 世の中は春の陽気に包まれているが、体温が極端に落ちた朱理の身体はむしろ凍えている。第一ボタンまでしっかりと留めて上着を羽織りようやく人間として機能している状態だった。薄く黒と金のストライプが入った濃紺のネクタイもきっちり締めたままだ。


 ──まるで生けるしかばねだな……。


 終点・新宿までの約一時間を、そんなどうでもいい自分の顔と、すこしずつ都会へと変わっていく景色をにらむように眺めて過ごしていた。


「パパーっ!」


 突如湧いた幼い娘の驚きの声に、朱理はぴくりと反応する。

 自然と、視線が家族連れに向いた。


「あの蠅さん、きらきらしてるよ!」


 父親の膝の上で娘は天を指さし、目を輝かせていた。いかにも生真面目そうなポロシャツ姿の父親は、娘が前方に転がり落ちないようしっかりと抱きかかえている。


「こらこら触ろうとしないの。汚いからやめなさい」

「汚いの?」

「蠅さんは汚いんだよ」

「でもきんぴかできれいだよ」

「そうだねぇ、でもねぇ、蠅さんは汚いんだよ」


 父親は好奇心旺盛な娘の扱いに困っている様子だった。そのコミュニケーションはぎこちない。父娘おやこは普段あまり一緒にいないのだろう。久しぶりの休日で家族水入らずといったところか。


「あらほんと、金色の蠅なんて初めて見たかもしれないわ。珍しいわねぇ、普通は銀色なのに。貴重な蠅さんかもしれないから見るだけにしておきましょうね」

「うん!」

「今日買ってきた絵本なんだっけ?」

「えっとねぇ、くまさんの。パパ、取って」


 隣に座っている母親のほうが娘の興味をらすのがうまかった。

 娘の興味は飛び回る蠅から、すっかり絵本にうつる。


「あたし本読むの。パパ暑い、じゃま。どいて」

「おまえなぁ……さっきまで抱っこって言ってたくせに」


 早速娘からウザがられている父親だったが、顔はうれしそうに緩んでいた。

 彼らからは、これからも続く──家族──という無償の愛の結びつきを感じる。

 そんな家族の朗らかな様子を眺めていた朱理だったが、ふと母親と目が合い、席を立った。静かに隣の車両に移動する。

 決して見られていることに対して嫌悪感を示されたわけではない。目が合った母親は特になんとも思わなかったはずだが、朱理は違った。幸せなあの家族の背景に、異質である「自分」が存在していることを意識してしまったのだ。急に吐き気がこみ上げた。

 この感情は、羨ましいとは違う。妬みですらない。

 自分がただ生きているだけの、がらんどうだということを思い知らされた情景だった。

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