第一章 いつもの道でわたしたちは(2)




 警視庁捜査一課強行犯係のデスクがずらりと並ぶ奥に、その別室はある。

 猟奇殺人事件特別捜査課──略して奇特捜、と呼ばれている。変死および猟奇・奇怪殺人捜査専門の部署だ。壁には三名の所属捜査官のネームプレートが掛かっている。

 上座に丸い腹を沈めるのは、四年前、捜査一課から奇特捜が分けられたときからの課長の神楽かぐらざかしゆうぞうである。いつも着ているサーモンピンクのベストと、朗らかな性格がにじみ出ているえびす顔が特徴だ。椅子の背もたれに掛けられたグレーの上着には、奇特捜の捜査官を証明する、丸い黒に金縁のバッジがついている。このバッジは奇特捜の扱う事件の特殊さ故に、警察職員の間では『不吉の黒』とも呼ばれている。


「長時間のパソコン作業はしんどいねぇ……」


 民間企業がそうであるように、警察も迅速かつ効率を目的としてペーパーレス化が進んでいる。捜査資料の多くはデータで共有されることが多くなった。

 神楽坂課長は昭和の時代とはまた違うストレスを感じて肩をんだ。なにもかもボールペンと紙で済ませたアナログ世代の初老に、長時間のパソコン労働はきつい。

 ブルーライトカット効果を備えた老眼鏡をはずし、脂でぬめる鼻筋を揉んだ。

「適度な休息は大事だ」──神楽坂課長は自分に言い聞かせた。

 引き出しを開けて、私物のフォトアルバムを開く。幸せそうにほほむ自分と、寄り添う妻と娘、そして愛犬がお茶目に舌を出して写っている。こうして家族写真を眺めていると、凄惨な日々にすさんだ心が潤される気がする。

 常日頃から規律正しい言動を求められる警察官が、仕事以外──すなわち家庭に生きがいを求めることは当然の欲求であった。


「課長ォ」


 気だるい声が、神楽坂課長の緩んだ頰を引き締めさせた。


「前科データとの照合が終わったんで送るっす」


 今年の二月にいわきでやってきた新人・とうけんいちは、三台の大型PCモニターに囲まれたデスクで脚を組み、ほおづえをついてだらしなく座っている。時折、太いエナジードリンクの缶に口をつけ、右手で操るマウスのカチカチという音だけがせわしない。


「は……早いな、佐藤くん」

「別に早くないっすよ。自動認証されて選別したのを貼り付けただけなんで。こんなん誰でもできるっす」──いやみではなく本当にそう思っている口調だった。


 神楽坂課長はフォトアルバムを引き出しにしまう。老眼鏡を掛けなおすと、共有ネットワークをつないで開いた。圧縮されたデータをクリックして解凍すれば画面いっぱいにファイルが表示された。すると一気に目の疲れが増した。はぁと鼓舞のため息をつく。


「キミの経歴を考えたら本来こんな地味な作業をさせるべきではないな」

「……」──彼はかたくなに着けない丸い黒バッジを、デスク上でピンとはじいた。

「佐藤くん、何度も言ってすまないがね──」


 健一は黙ってエナジードリンクを飲み干し、カンッと軽い音を立ててデスクに置く。


「現場に行きたいのであれば一之瀬くんについていってみたまえ。彼はいつもひとりで抱えすぎだからな、そもそも仕事は分担ではなくみんなで協力してするものだ」


 これが何度目かわからないチームワークを提案された新人は、迷惑そうに眉をひそめた。嫌だとは言わないが、決まって彼はいつも独り言のようにこうつぶやく。


「……勘弁してくださいよ……」


 健一はカシミアのブランドスーツに包まれた腕をさする。

 とはいえ無理強いはできないと神楽坂課長は思った。時代の流れが速くなったいま、効率性・迅速性をより強く求められた結果、捜査一課は、証拠が多く所轄も嫌がる複雑な殺人事件に対し「今後は猟奇殺人事件捜査専門の部署が捜査を行う」という言い訳をつくることにしたのだ。そうすることで事件捜査が長期化しても捜査一課そのもののめんは保たれる。しかしそれによって犠牲になる捜査官がいることも事実だった。奇特捜は猟奇殺人事件を取り扱う特性上、嫌になって逃げ出す者も少なくない。いつしか自ら退官するよう促すための左遷部署として扱われるようになり、増員しても彼らはすぐに退官。設立初期からのメンバーである一之瀬朱理と神楽坂課長だけの日々が続いた。

 健一はまだこれでも続いているほうだ。異動してきて数日で辞めた者を、神楽坂課長は何人も見送ってきた。凄惨な現場には出ないで事務仕事だけをこなすことに徹する、この新人の姿勢は、ある意味正しいのかもしれない。

 ……電話が鳴った。奇特捜の直通電話機は健一のデスクにある。液晶面にガタがきており、かけてきた相手の番号が読み取れないほど薄い。警察全体でみるとデジタル化が進んでいるとはいえ、捜査一課の隅っこ部署としては、いまだ使えるものは使えという、上からのお達しだった。


「はい、猟奇殺人事件特別捜査課!」


 元気に電話に出たあと、健一は急にトーンを沈めて「あ、一之瀬さんっすか……」と露骨に嫌そうに応答した。用件も聞かず、すぐに保留ボタンを押して神楽坂課長のデスクの電話に内線を飛ばす。


「おぉ一之瀬くん。ご苦労さん、今日はどこだ?」

ちゆうの強盗強姦殺人の件で、いまあきるの果てなのですが』

「あの件か。随分と遠くまで行ったな。状況は?」

『報告でお電話しました』


 報告──。

 進捗の連絡でもなければ、相談でもない。

 またか、と察した神楽坂課長は苦々しい嘆息で応えた。


『重要参考人が死亡しました』

「そうか……。で、いつものようにキミは殺してないんだな?」

『はい、俺は殺してません』

「念のために状況を聞こうか」


 電話の向こうから、彼が応援で呼んだらしいパトカーのサイレン音が近づいてくるのが聞こえた。重要参考人が目の前で死んだというのに、動じることなく、落ち着いて状況を説明してくる彼の冷静な口調には寒気すら覚える。


『装備の拳銃一丁、手錠ともに未使用です。任意同行を求めた際に逃走されたため、廃工場に追い込み、適宜適切な使用もやむなく警告のため拳銃を構えましたが、身体接触はありません。急に胸を押さえて自ら倒れました。死因は心臓発作などによる偶発的なものかとみられます』


 彼は事務的にただ目の前で起こった事実だけを淡々と述べた。

 ノンキャリで入庁した一之瀬朱理は、元々捜査一課の刑事であった。研修を担当した者の評価は「拳銃の腕前は群を抜いており、おおむね優秀、やや主張が足りない」であり、くせ者ぞろいの強行犯係では先輩に振り回されている印象が強かった。そんな彼が四年前、奇特捜に異動を志願したのは意外だった。──誰も行かないなら俺が行きます──と、手をあげたのだ。物静かだが、誰よりも正義感の強い青年だと神楽坂課長は思った。

 ふたりだけの奇特捜はしばらく穏やかだった。当時の朱理は確かに自己主張は乏しく、神楽坂課長が強引に根掘り葉掘り尋ねて、ようやく照れくさそうに妻子の話をするくらいだった。デスクに飾った家族写真に時々目をやりながら、休み時間にウトウトしつつも昇進試験の勉強をしている彼を、神楽坂課長は微笑ましく感じていた。

 しかし彼はその数ヶ月後、惨劇に遭う。復帰後の彼は様子がおかしかった。家族写真を伏せ、まるでなにかに取りかれたかのように猟奇事件の捜査に着手し始めたのだ。

 どんな遺体を前にしても取り乱さない優秀な捜査官にはなった。けれど彼は、上司である神楽坂課長に「報告」しかしてこなくなった。そして、その報告は常に──……。


『──以上です。……課長、聞いてますか』

「あ、あぁ。また心臓か。確か府中の被疑者は持病らしい持病はなかったな?」

『そうですね』


 あの事件以降、彼の発する言葉からは人間らしい感情が聞き取れなくなった。

 神楽坂課長はデスクトップにある『報告書』のフォルダをクリックした。一ヶ月前に同様の結末を迎えた事件の報告書である。作成者の名前欄には一之瀬朱理とある。神楽坂課長が裁判所に逮捕状を請求したものの、逮捕には至らなかった。令状を持って向かった朱理の前で、今回のように、被疑者が突然心臓発作を起こして怪死したのだ。

 神楽坂課長は、もはやため息がクセのように出てしまっていた。


「一之瀬くん、大きな声では言えないが……。こうも偶然が重なるとわたしも説明を求められる。キミを疑うわけじゃないが、本当に接触はなかったんだな?」

『はい』──間髪いれずに朱理は応えた。

「それならいい。すぐに解剖に回されるだろう。まぁ周りから厭みを言われてもキミはあまり気にするな、報告書をあげたらつぎの捜査にあたってくれ。ついさっき奇特捜扱いになった事件がある。目を通し終えたらデータを回す」

『わかりました。失礼します』


 受話器を置いた神楽坂課長は、糸のように細い目をゆがめた。


「……また死んだんすか。逮捕状は?」

「一応、覚醒剤とりしまり法違反で請求中だった」──残念ながら、という苦い思いが残る。

「オレがここ来てもう五人目っすよ。一之瀬さん、パクってゲロらせるのが面倒で実は殺しちまってんじゃないっすか?」

「おなじ部署の仲間をそんなふうに言うんじゃない」

「仲間? どうっすかねぇ……。あっちはそう思ってないでしょ」

「一之瀬くんは真面目な捜査官だ」

「じゃあうそも方便だと思ってる真面目クンすね。一番タチの悪いやつっす」


 健一はそう言って警察官のデータベースを盗み見た。朱理のデータである。特に始末書扱いはくらっていない、一見してごく普通の経歴を重ねる警察官だが、更新されている顔写真の死んだ魚のような目は、犯罪者が撮られるマグショットのようだった。


「課長も思ってますでしょ」──健一は語尾を伸ばす。

「なにをだ?」

「一之瀬さんの目つきヤバいっすよ。ありゃあ人殺しの目っす。絶対に接触してんすよ。押し倒したり圧迫でもしなきゃ心臓発作なんて起きるはずないっす」

「佐藤くん……」


 止まらない新人の悪口に、神楽坂課長は曖昧な苦笑いを浮かべるしかなかった。

 太鼓腹をさすり、朱理のデスクを見やる。

 彼のデスクの隅にはずっと写真立てが伏せられたまま置かれている。その表面にはうっすら埃が積もっていた。健一はその伏せられた写真立てに興味はないらしいが、見れば彼の素顔を知ることができる。三年とすこし前までの、控えめながら、妻子を幸せそうに支える一之瀬一家の「父親」の姿だ──。


「たまたま重なっているだけだろう」

「ふーん……」

「解剖結果がすべてを物語っている。一之瀬くんは本当に接触していないんだ」

「そんじゃあ──」


 健一は反り返るように椅子の背もたれに寄りかかった。ここは元々捜査一課の資料置き場だった一室だ。彼は昭和時代のヤニの跡を残すシミだらけの天井を見上げた。


「──余計に気持ち悪いっすわ」



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