66話 母は強すぎる(1)
祭りが明け、数日が経った夏休みの日の午後。
朝から書店に出かけていた俺がシェアハウスの玄関を開けると、
「帰ってきなさい」
――知らない声がリビングの方から聞こえてきた。
不審者⁉ と反射的に思ったものの、すぐにそうではないと思い至る。
たった一言だったが、いやに落ち着いた大人の女性の声が耳に残っている。
冷静になってみると、玄関には明らかに高校生の物ではない靴――黒のパンプス――が綺麗に揃えて置いてあり、玄関にも廊下にもちゃんと照明が灯っている。
いつもなら、今日のような晴れた日の昼間は日光を取り入れて照明はつけていない。
こんなことはこれまでになかったが、明らかに来客がいるときの装いだ。
俺が帰ってきたからなのか、それきり声は聞こえなくなった。
ずっと玄関で立ち尽くしているわけにもいかない。
できるだけ物音を立てないように靴を脱ぎ、足音を立てないようにリビングを迂回しようと廊下へ進みかけ、そこで踏みとどまった。
来客と一緒にシェアハウスの誰かがいるのは明らかだが、向こうだってこちらの存在に気付いているはず。
俺もシェアハウスの住人である以上、
露骨に避けるような振舞いはかえって失礼かもしれない。
そんな葛藤も早々に、リビングから声を掛けられてしまった。
「すみません、お邪魔しています」
さすがに声を掛けられてしまうと無視するわけにはいかない。
腹をくくって廊下から一歩リビングに出る。
「どうも」
会釈しながら社交辞令にもならない言葉を発し、それから相手の顔を見た。
高そうな着物に身を包み、艶やかな黒髪を結わえた大人の河原万智。
否。疑いの余地なく、その女性は河原の母親なのだとすぐに確信した。
だって、本物の河原万智はその対面の席に座っていて、身を縮こまらせて俯いている。
「はじめまして、万智の母です。うちの娘がいつもお世話になってます」
「河原さんと同じ2年の鳥羽といいます。どうぞごゆっくり」
へこと頭を下げてしずしずと廊下に引き下がる。
何の要件で来たのかとか、何の話をしていたのかなんて尋ねられるわけがない。
それ以前に。
そんなことを聞くまでもなく、俺はすべてを察してしまった。
*
自室のドアを固く閉ざし、夏休みの宿題に没頭した。
なのにちっともページは進まないまま、気づくと窓の外は暗闇に染まっている。
さすがに部屋に籠っているのも息苦しい。
机に向かって現実逃避するのも限界だろう。
諦めて数時間ぶりに扉を開けると、階下から香ばしい匂いが漂ってきた。
いつもと変わらないにんにくの香りにほっとする。
ダイニングには他の全員が集合していた。
食卓には河原と、北浜さんが静かに傍に寄り添うようにして座っている。
そのふたりの元を避けてキッチンに向かう。
南が振るっているフライパンには、パスタとにんにくがいつもより多めに入っていた。
「もう話は終わったのか」
状況は理解しているはずと前提を置いて端的に尋ねる。
南はフライパンに視線を向けたまま口を開いた。
「まだ聞いてない。多分これから話してくれると思う」
「そうか」
キッチンから遠目に河原の様子を伺う。
いつも通り席に座ってスマホを弄っている。
ひどく落ち込んでいるようには見えないが、そもそも河原はあまり感情を顔に出すタイプではない。
むしろ、隣にいる北浜さんの方がよっぽど悲哀な顔だ。
「そのパスタ、俺ももらっていいか?」
「もちろん。そう言うと思って全員分つくってるんだから」
「さすがだな」
取り皿を差し出して、俺は南のパスタを受け取った。
*
「私、実家に帰ることになった」
パスタをくるくる巻きながら、河原がそう告白した。
真っ先に北浜さんが反応する。ひどくうろたえた様子だ。
「今度の土日に帰省するって話じゃ……」
「そうじゃなくて。今月いっぱいでシェアハウスを出ていくってことです」
ストンと身体から大事な何かが抜け落ちるような感覚に襲われる。
誰も、何も声を発しない。
その空気に耐えかねたように、河原がもう一度口を開く。
「あー、なんかごめん。なにせ急に決まった話だから」
河原は一口以上残っていたパスタをぐるぐる巻いて乱暴に口につめ、オレンジジュースで流し込んで苦しそうに飲み込んだ。
皿が空くやいなや、手早く食器を重ねて立ち上がろうとする。
その腕を、テーブル越しに身を乗り出して掴んだ。
「待ってくれ」
「なに」
河原の瞳が鋭く俺を睨む。だけど怖くない。
ここで引き留めずにあとで後悔する方がずっと怖い。
「言える範囲でいいから、理由を教えてほしい」
河原は何も答えない。
沈黙を待っていられなくて続けざまに問う。
「ゲームのことと関係してるよな」
「痛い、離して」
「わるい」
逃がしてはいけないと思うばかりに手に力が入っていた。
手を緩めると、河原は掴まれていた腕をさすりながら席に座る。
幸いなことに話に応じる気にはなったようだ。
迷うように目を伏せていた河原がゆっくり口を開く。
「さっき、私の母親が来てたのは知ってると思うけど」
黙ってうなずく。
北浜さんも南も同様だ。
「
「なんで……。いや、もしかしてあのネット記事か」
「じゃなくて、大会の賞状が実家に届いたんだって。私もうっかりしてた。そういえば実家の住所で登録したアカウントで大会エントリーしたこと今になって気づいたんだもん」
自嘲めいた吐息が河原の口から漏れる。
大会エントリー用のアカウント。
たしか締め切りがあるからと言って、とりあえず既に持ってるアカウントで登録してくれと勧めた覚えがある。
つまりこの事態を引き起こしたのは、俺だ。
「ほんっとーに散々な言われようだったわ。ゲームにうつつを抜かててはしたないとかなんとか」
「ゲームの大会に出ただけで何でそんな……」
北浜さんが眉根を寄せている。理解に苦しむと言いたそうな顔だ。
俺だって、河原の家の事情を知っていなければ同じ反応をしていただろう。
「うちはそういう家なんです。ゲームは禁止、勉強お作法習い事が最優先。高校で一人暮らしを許してもらえてたのも、成績上位キープと委員会活動に専念するって条件付きだったし」
「だったら! 万智ちゃん賢いし、委員会も全然サボってないのに!」
「でもゲームの部活に入るのは約束と違うでしょ? って」
「でもちゃんと話せば……」
「もう仕方ないです。ああなったら
河原は今度こそ皿を持ち上げて席をたつ。
「来週、学校で三者面談。そこでシェアハウス退去と部活抜ける話してくる」
ひとりキッチンに向かい、カチャリと皿が置かれる音がする。
そもまま河原はリビングへは戻らず、迂回するように廊下を通っていった。
そして階段を上る直前にふらりとリビング側から顔を出す。
「月末まではここにいるし、それまではよろしくね!」
似合わないけろっとした笑顔でそう言い残すと、河原は廊下の闇に消えていった。
ダイニングに残された沈黙の中、南が遠慮がちに俺を見る。
「鳥羽氏……」
「俺の責任だ。俺がどうにかする」
残していたパスタを強引に口に詰め込んで、俺も席をたつ。
なぜか「ごめん」というふたりの声を背中に受けながら、俺は自室に戻った。
猶予はおそらく1週間。やるべきことは2つだ。
もう今は踏み込むことを躊躇ってる場合じゃない。
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