エピローグ

34話 やっぱり先輩にはオタクな秘密が多すぎる

 賑やかだった打ち上げを終えたその日の夜。

 町もすっかり寝静まった真夜中に、俺は独りシェアハウスを抜け出した。


 なかなか寝付けないのは、興奮冷め上がらないからか、楽しかった打ち上げをまだ思い出にしたくないからだろうか。


 とにかくベッドの上でじっとしていられなくなった俺は、シェアハウス近くの自販機を目当にぷらぷらと暗がりの路地を歩いてきたのだ。


 目的の自販機は静寂に浸った住宅街の暗がりで、赤いボディにぼんやりと光を放って立っていた。

 俺はディスプレイの前に立ち、大小色とりどりのサンプルを漫然と眺める。

 特になにを飲もうと決めてきたわけじゃなく、極論のどが潤えばそれでいい。

 持ち合わせの小銭で何を選ぼうかと思案していると、ふと視界の端に人型の影が差し込むのが見えた。


「先輩がおごってあげる」


 振り返ると、そこには桃色の寝間着の上にクリーム色のカーディガンを羽織った北浜さんが立っていた。

 その手に携えた二つ折りの財布を得意気に振って見せてくる。


「ほらほら遠慮しないで」

「じゃあ、お言葉に甘えて」


 北浜さんが小銭を入れてくれたので、俺は自分の財布をポケットにしまい、もういちどディスプレイに目を向けた。

 自分で買うならともかく、先輩に驕ってもらうときは慎重に選ばないといけない。

 一番安いからといって水を選ぼうものなら遠慮していると思われるだろうし、逆に実質タダなんだからと一番高いものを選ぶのは不躾だ。

 ただでさえ何を買おうか迷っていたせいで、ますます飲み物を決められず、俺の指先はボタンの上をふらふらと彷徨う。


 散々悩んだ挙げ句、俺は下段のお茶にしようと決めた。


 そしてボタンに狙いを定めて少し背を屈めたとき、


 ――ふわり。


 温かくマシュマロみたいに柔らかな感触が背中を覆った。

 シャンプーの残り香が混じった甘い匂いが、まるで全身を抱擁するようにほわほわと立ちのぼる。


 彼女は体重を俺の背に預けたまま、肩越しに白く滑らかな手を伸ばし、缶コーヒーのボタンをピッと押した。

 遅れて自販機がガコンと音を立てる。


「あの……先輩」

「いろいろ手伝ってくれたお礼だから」


 背中には心地よい重みと温もりが預けられたまま。

 薄い布越しに、それとは思えないほど大きく豊かな2つの膨らみが押し当てられ、ちょっと身動きを取ろうとしただけで、肉付きのよい柔らかな感触がべったりと肌に吸いついてくる。


「お礼、ですか」

「うん」


 また沈黙がつづく。

 今にも理性がはち切れそうなのに、かといってこの状況を打開することもできず、俺はただ石のようにじっと身を固める。

 すると、北浜さんの顔が俺の背中にストンと乗せられた。


「ありがとう。助けてくれて」


 透き通るようなささやき声と湿り気を帯びた吐息が耳をくすぐる。

 意識すればするほど背中越しの体温を生々しく感じてしまい、もう肌越しに聞こえているんじゃないかと思うくらい俺の心臓はバクバク鳴っている。


 このままじっとしていても、イケないことがどんどん脳裏に浮かんでくる。俺はとにかく煩悩を誤魔化すために口を動かした。


「俺は自分のためにやっただけで」

「でもありがとう」

「そんなっ、べつに」


 この期に及んで平静を装うことなんて到底できるわけがなく、上ずった声がでてしまう。

 もう羞恥やら、いやらしさやらで頭がぐちゃぐちゃになっている俺は、言うつもりのなかった軽口を叩いてしまった。


「でも、結果的に先輩が本当に好きなものはバレなかったですし、それは褒めてくれてもいいかもですね」


 途端、背中に預けられていた重みがスッとなくなり、代わって「へ?」という素っ頓狂な声がした。


 ちょっと名残惜しさはあるけど、初めて知った女の子の柔らかさはきっと身体が覚えているだろう。


「私の本当に好きなものって……」


 北浜さんが戸惑いと焦りを混じらせたような声色でつぶやく。

 口走ってしまった以上、黙秘で誤魔化せるとは思っていないが、今の自分は顔が真っ赤になっている自覚がある。

 まだ北浜さんと目を合わせるわけにいかず、俺は自販機の取り出し口から缶コーヒーを拾い上げながら口をひらいた。


「先輩が本当に好きなのって、ライトノベルじゃなくてですよね」

「……ッ⁉」


 北浜さんの口から言葉にならない吐息が漏れる。

 表情こそ伺いしれないが、いまどんな顔をしているのか脳裏にありありと浮かぶ。やっぱり図星みたいだ。


 初めてそう感じたのは、彼女からシェアハウスで涼宮ハノレヒについて話を聞いていた時。後日に書店でライトノベルを語っていたときもそうだ。

 ライトノベルが好きなら少なからずイラストにも興味は持つものだろうし、最初はそうやって一般的な興味の範囲内かと思っていた。


「なんでわかったと……?」

「だって北浜さん、シェアハウスで語っている時はイラストのことに触れるのに、選書会では一切イラストのことに触れてなかったですよね? そのあからさまに隠している感じでピンと来たんです」

「うぅ」

「もしかして北浜さんって――」


 イラスト萌えオタですか?

 と問うより先に、北浜さんが言葉を継いだ。


「うん、お父さんがイラストレーターなの」


「へ?」

「え、えぇ?」


 冷水をぶっかけられたような衝撃のカミングアウトを受けて、脊髄反射で北浜さんのほうへ振り返る。

 お父さんがイラストレーター?

 つまり、北浜さんのお父さんはライトノベルの挿絵とかを描いている絵師さんってこと……だよな!?

 ビビりすぎて顔の火照りも一気に引いたわ。

 

「なんですかその新情報!?」

「えええッ、家族がラノベの関係者だって知ってたわけじゃなかったと!?」

「そんなこと知らなかったですよ!」


 北浜さんはまたまた顔を真赤に染めて、恥じらいを抑え込むようにギュッと眉間にシワを寄せる。


 それからしばらくすると、観念したようにたはぁと息をついた。


「私のお父さん……ラノベの表紙とか描いてるんよ」

「じゃあ、それが好きになっきっかけなんですね」

「きっかけではあるけど……。本当に好きになった理由はちょっと違うかな。ラノベの女の子たちに私は憧れてたの」

「あこがれ?」

 

 北浜さんはうんと頷いて、ぽしょぽしょと口を開く。


「佐賀の田舎育ちの私にとって、ラノベはキラキラした友達に会える場所だったの。可愛いな服を着て、お洒落なカフェで友達と話して、男の子たちと街中でデートして……。田舎にはキラキラした場所は少なくて、私も地味で人見知りで魅力もない。だけど、ラノベを読めば私もそんなキラキラした女の子の一員になれてる気がして」

「なるほど……でも、北浜さんもお洒落じゃないですか。化粧だって詳しいみたいだし」

「っ! そういうお世辞は今はいいから!」


 頬を朱に染めた北浜さんのパンチが胸にぽすんと当てられる。

 なんだそのヘロヘロパンチ。可愛いすぎんだろ。

 北浜さんは手を引っ込めてまたぽしょりと口を開く。


「だって、京都に来てからいろいろ勉強したんだもん」

「それは圧倒的成長力ですね」

「でも、やっぱりラノベの女の子は今も私の憧れ。ドラマのモデルさんとか雑誌の女優さんと違って、のキラキラした女の子。それが私の理想像なの」


 そうだとしても、北浜さんは既に十分魅力的な女の子ですよ。

 ――なんてくさい台詞を投げかけるわけにはいかず、俺はゆっくり頷いた。

 自分のゴールは他人に決めてもらうことじゃない。

 北浜さん自身がもっと魅力的になりたいと思うのなら、俺がすべきことはそれを応援することだけだ。


 北浜さんのライトノベル好きの理由が分かったところで、俺の脳裏にひとつの疑問が浮かんだ。


「ところでなんですけど、なんで選書会でイラストのことには一切触れなかったんですか?」


 北浜さんが本当に好きなのは、イラストの女の子たち。

 なのに彼女は、選書会でイラストを宣伝する様子はなぜか一度もなかったのだ。


「だって、イラストで語るのは小説への侮辱だもん」

「侮辱、ですか?」


 北浜さんはうんと頷いて、また口を開く。


「お父さんの口癖やったんよ。『絵だけでライトノベルを語ったらいかん、魅力的なキャラクターがいるから魅力的なイラストが描けるんや』って。だからまずはイラストじゃなくて中身の魅力を伝えなきゃって思ってたから」

「それはご立派な考えですね」

「ありがと。でもね、実際はイラストのせいでラノベ自体が馬鹿にされることだって普通にあって。それが本当に辛かった」


 北浜さんは恥ずかしそうに指をいじりながら続ける。


「だから、今回の選書会があって本当によかった。イラストがあっても無くても小説の価値は変わらないし、イラストが可愛いって思ってくれてる人たちもちゃんといるって知れたから」

「それならよかったです」

「うん、鳥羽くんのおかげ。ありがと」


 北浜さんがくしゃりと笑う。

 そんな笑顔を向けられるのが小っ恥ずかしくて、俺はまた適当な軽口を叩いてしまった。


「にしても、北浜さんがイラストレーターの娘だったとは。しかも女の子イラスト専門のオタクですよね? もしかして百合――」

「それは違うからッ!!」

「ちょっと静かに、ってイタいッ⁉」


 ドスドスと背中をどつかれて、そこで話の中断を余儀なくされる。

 あらためて見ると、北浜さんは顔こそしかめているが、口角はわずかに上がり耳は朱に染まっている。

 そんな様子を微笑ましく見つめていると、ちらりと北浜さんの目が泳いだ。


「それ、絶対に秘密やけんね」

「本当は女の子が好きってことですか?」

「ちがうからっ! 私がイラストオタクってことだから‼」

「冗談です、わかってますよー」

「うそ! それぜったい信じてないっ!」


 もう顔を隠していても無駄と開き直ったのか、北浜さんはグーを伸ばして俺の胸元にぐりぐり押し付けてくる。

 その仕草があまりにも可愛らしくてつい笑みをこぼすと、北浜さんはいっそう不機嫌そうに口を尖らせた。

 

「あーもう! 鳥羽くんは先に戻っとって!」


 北浜さんは両手で俺の身体をガシッと掴んで、強引に身体の向きを回れ右をさせる。

 うーん、これ以上からかって顰蹙ひんしゅくを買いたくはない。大人しく従うか。


「じゃあ、おやすみなさい」


 最後くらいはスマートに。

 そう思って紳士的な挨拶を済ませた俺は、シェアハウスへの帰路に一歩を踏み出した。


 ――その背中に、一本の指がトンと触れる。


「あと、ちゃんと男の子が好きやけん。勘違いせんとって」


「……了解っす」

「ならよか、おやすみ」


 柔らかな両手が俺の背中を優しく押し出す。

 勢いのついた脚は、行きよりも軽快に前へ前へと進んでいく。


 いまさら振り向く度胸なんてなかった。

 澄んだ空気に満ちた、一か月で一番明るい夜空を見上げて歩く。


 あの綺麗な満月も、地球から見えるのは表のかおだけ。

 その裏側にはとんでもない秘密が隠されているのかもしれない。


 誰にも言えない同居人の秘密を胸にしまって、ぼんやりと月夜に想いをせる。


 ――本当に、このシェアハウスには秘密が多すぎる。



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第一章 選書会編 完

ここまでお読みいただきありがとうございます!

次話より、別のヒロインに焦点を当てた第二章となります。

よろしければ、♡・星評価・レビューにて応援頂けますと幸いです!

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