22話 女子とのおでかけには波乱が多すぎる(4)

 京都の街から帰宅した夕方。

 俺はひとりリビングのソファーに身を預け、ウォールライトに引っ掛った馬のつらが夕日色に染まっていくのをぼんやりと眺めていた。


 書店での一件のあと、見失った河原と北浜さんを探し回っていると、スマホの通知に『河原万智:先に帰ってて』と一通の個人チャットが届いていた。

 だから俺は『了解』とだけ返信して、一足先にシェアハウスに帰ってきたのだ。


 正直なところ、自分だけ先に帰るのは除け者にされた感じがあって気が引けた。

 けれど傷ついている北浜さんのことを考えれば、今は彼女がもっとも信頼している河原とふたりきりにしてあげることが最善だ。

 そう思っての判断だった。

 それは正しかったはず。


 そう自分を説き伏せている。

 だけど、本当は心の奥底に後悔や迷いが巣くっていることにも気づいている。


 ふたりを追いかけて慰み事を言えばよかっただろうか。

 何か気を楽にするような冗談を飛ばせばよかったかもしれない。

 それとも黙っていたことを謝るべきだったか。

 そういうのを全部ひっくるめて、俺はどんな顔をしてふたりに会えばいいのか分からなかった。

 介入するのも、介入を拒まれるのも怖かった。

 だから俺はふたりから逃げたのだ。たぶんそれが真相だ。


 夕日が落ちていくにしたがって、不気味に発色していた馬の顔がしょんぼり暗くなっていく。

 なにか作業をするわけでもないからこのまま夕闇に身を委ねてしまうのも悪くない。

 ただ一方で、明りのないリビングにひとりで居るところを見られたら、要らぬ心配をされてしまう気もする。

 それはそれで困る。


 すっかりソファに沈み込んだ腰をもたげられないでいると、不意にリビングの蛍光灯がパチパチっと音を立て光を放った。


「ぅわ、いたんだ」


 チカチカする目を細めて見ると、リビングの入口にルームウェア姿の河原が立っていた。


 シャワーを浴びた直後なのか、黒髪はしっとり湿っていて、肌はうっすら上気しているように見える。

 河原はシェアハウスの中でも制服かカジュアルな私服を着ていることが常だが、今着ているのは上下セットのルームウェアらしく、爽やかな空を思わせるブルーが10代相応の可愛らしさを感じさせる。

 たぶん今の恰好は、本当に部屋の中でだけ着ている寝巻なんだろう。


「おう。……おかえり?」

「いや、帰ってきたの結構前だから」


 あんまりレアな姿だったのでマジマジと見てしまったが、河原は特に気にしていないのかスリッパをすりすり引きずりながらキッチンの方へ歩いていく。

 こっちだけが妙にドキドキさせられて、なんか癪だ。


 河原は共用の冷蔵庫からペットボトルの天然水を取り出して、コップに注いで一杯、二杯とくいっと飲み干す。

 どうやらリビングに降りてきたのは水分補給のためだけだったらしい。

 河原はそれだけ済ませると「じゃあ、おやすみ」と挨拶して廊下に向かって歩き始めた。


 それがあまりにもあっさりしていたから、半分無意識に河原を呼び止めてしまった。


「あ、ちょっといいか」

「なに?」


 廊下に踏み出しかけた足を一歩戻した河原がこちらを向く。

 呼び止めてしまったから話すしかない。

 聞きたいと思っていたことはある。


「北浜さんの様子、どう?」

「大丈夫。いまは落ち着いてる。むしろ、けろっとしてる」

「けろっと?」


 てっきり千林にやり込められて落ち込んでいるものだと心配していたから、予想外の答えに拍子抜けしてしまう。

 それが顔に現れていたのか、河原が補足するように口を開いた。


「あの直後はそれなりに落ち込んでたんだけどね。気分転換に映画見に行ったらもう機嫌なおってた」

「北浜さんが見たがってた映画のこと?」

「そうそれ。アニメとかあんまり見たことなかったけど、最近のって凄いのね。写真かと思うくらい綺麗だった」

「そうだろうな。だって古都アニメーションの作品だろ?」


 古都アニメーションと言えば、『涼宮ハレノヒ』のアニメ制作も手掛けた会社。

 アニメ業界の中でも選りすぐりの人材が集まっているらしく、古都アニメーションの制作となれば、原作がどんなにマイナーな作品でも注目の的になるらしい。


 聞きかじった内容を何気なく答えただけだったが、なぜか河原はぽかんと口を開けて突っ立っている。


「え、なに、どうした」

「いや、やっぱりあんたオタクよねーって思っただけ」

「俺はオタクじゃないぞ」

「どの口が言う……」


 納得のいかなさそうに河原が肩を竦める。

 この際だからきちんと説明しておこう。


「いいか、オタクっていうのは、言わばその道を究めたエキスパートだ」

「はあ」

「例えば、アニメオタクならタイトルだけでどの会社の作品か分かるのは当然。もっとすごい人だと1シーンを見ただけで演出や作監が分かる人とか、立ち絵を見ただけでキャラデザが分かる人もいるんだ」

「えんしゅつ、サッカン⁇」


 河原が眉間にしわを寄せて、とんちんかんなイントネーションで復唱している。

 ともあれ、細々とした単語の意味は今は重要じゃない。


「とにかくだ。俺なんかの知識量じゃまだまだオタクの足元にも及ばんということだ」

「うん、分かった。よく分からないけどあんたの中の『オタク』像がかなり高尚だってことだけは分かったわ……」


 ひとしきり説明を終えて河原は納得した――というより、なぜか諦めたような顔をしているが、まあいいだろう。

 知らず熱くなっていた頭をクールダウンさせて話題を元に戻す。


「それはともかく、北浜さんが元気そうならよかった。選書会の準備もしてるのか?」

「うーん、そっちは微妙かも」


 河原は逡巡するように少し間を開けてから続ける。


「浜さんは何も言ってなかったけど、私からも何も聞いてない。正直、今は選書会のこと忘れて気晴らしする方がいいとも思ってる」

「まあたしかにそうかもな」


 河原の言うとおり、今はいったん選書会から距離をとって気分転換に徹する方がいいだろう。

 選書会まではまだ数日あるし、何より心を痛めてまで選書会にこだわる必要もない。



 ――ただ、それを全力で肯定する言葉は口から出なかった。

 きっと無責任にも「ここで諦めてほしくない」と勝手に思っている自分もいるからだ。

 だからそんな本音はおくびにも出さず、俺は当たり障りの無いことを口にした。


「じゃあ選書会をどうしたいか北浜さんが言ってたら、一応俺にも教えてくれ」

「りょーかい」


 河原が端的に返事したのを最後に会話を切り上げる。


 ……つもりだったんだが、河原が黙って俺を見つめている。

 まるで俺の続きの言葉を待っているように。


「……えっと何か?」

「は?」


 は? と言った河原が「は?」という顔を浮かべる。

 こんなに神経の逆撫でに特化した表情筋の動かし方は初めて見た。

 これがにらめっこだったら、相手に激情させて反則勝ちで無双できちゃうレベル。


「いや、鳥羽がなにか言いたそうな顔してるから待ってたんだけど。気のせい?」

「俺そんな顔してたか」

「今もしてる」


 即答で断言されてしまうとなんだかその気になってきた。


 ……というより、本当はそうだったんだろう。

 気になっていた北浜さんの具合は聞いたが、たしかに言おうとして言えなかったことはある。


 口にする言葉は頭の中で組みあがっている。

 けれど、それを思うように音に変換できず、俺は頭をガシガシとやって邪魔なノイズをかき混ぜながら口を開いた。


「さっきはごめん」

「えっと、何のごめん?」

「本屋のときのこと。何のフォローもできなくてごめん」

「あーそれ気にしてたんだ。理解した」


 河原はうんうんと頷き口元を少し緩めて微笑みを浮かべる。

 そして、近くの壁に背を預けてリラックスした体勢をとった。


「べつに気にしなくていいんじゃない? 浜さんは気にしてないだろうし」

「そういうお前は?」

「肉壁として連れて来たのにこの役立たずって」

「ほんとすみません……」

「うそうそ冗談」


 河原はからからと笑って続ける。


「実際、あんたはとばっちりみたいなもんだし。神橋が私に突っかかってきたのがそもそもの原因だからさ」


 思い返してみれば、書店で最初に話しかけてきたのは神橋さんだった。

 ……赤本がどうたらとか言って河原にマウントとろうとしてたな。

 因縁があるというか、神橋さんが河原を一方的にライバル視している感じがビンビン伝わってていた。


「神橋さん、やけにお前への当たりキツかったな」

「アイツ学校でもいつもあんな感じなのよ。ていうか中学の時からずっとそう」

「中学の時からの仲なのか?」

「そう、同じ中学出身。まあ悪いやつじゃないんだけどね」

「あいつ、実はいいやつなのか……」

「そういうわけでもない」


 河原は鼻で笑って即答した。よかった解釈一致だ。

 もしも神橋さんが世にいう「いいやつ」だと言うのなら、俺のこれまでの人間関係ぜんぶ精査しないといけないところだった。


「でも強いて言えば、憎めないやつって感じかな。まあ接していればそのうち分かるんじゃない?」


 河原がよっと壁から背を離して、くーっと伸びをする。

 その拍子にラベンダーの華やかな香りがふぁと漂った。

 伸ばした腕に薄い生地のルームウェアが引っ張られ、普段は慎ましやかに見える双丘の整った形が露わになる。


 それ思春期の男子の前でやっちゃいけないポーズ第1位だということを世の女子たちにはもっと知っていただきたい。

 もちろんするなとは言ってない。いいぞもっとやれ。


「さて、と。そろそろ部屋に戻るわ」

「なんか引き留めて悪かったな」

「ぜんぜん。じゃあちょっと早いけど、おやすみ」

「おう、おやすみ」


 「おやすみ」がさらりと自分の口から出たことが少し驚きだった。

 同級生の女子に面と向かって「おやすみ」を言うなんて、たぶん世の中の極々少数の人間しか経験しないおかしな状況だ。


 おやすみを言ったあの子は、壁や床を隔てただけの同じ屋根の下で寝て、明日の朝も一番に顔を合わせることになる。

 そんな関係を意識するのが気恥ずかしくて、特に河原に対してはいつも挨拶が口に引っかかってしまっていた。

 だから自分の口からするりとそんな言葉を出せたのは不思議な感覚だった。


 河原がとんとんと階段を登っていくのを見届けて、いつの間にか少し軽くなった腰をソファから持ち上げる。


 今日の夜ご飯は、まあカップ麺でいいだろう。

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