9話 先輩にはツッコミどころが多すぎる(2)
……どうやら電気をつけたまま眠ってしまったらしい。
ぼんやり霞んでいる目で窓を見やると、真っ黒に染まった背景に制服を着た男子高校生のだらしない姿が映っていた。
卓上時計の画面には19:48のデジタル文字が表示されている。
そういえば20時にリビングに集合せよってお達しを受けていた。
まだ気だるさを纏っている身体をぐいーっと伸ばし、のっそりベッドから這い出して自室の扉を開ける。
途端、階下から漂ってきた美味しそうな匂いで鼻、次いで脳が覚醒していき、つられるようにしてリビングダイニングに降りていく。
食卓には風呂上がりのルームウェアを着た河原万智の姿があった。
ダボっと大きめなシルエットでふわふわ手触りの良さそうなチョコレート色のパーカーに、薄手のニット生地のロングパンツ。
ラフではあるが他人の目にも配慮した部屋着コーデといった印象だ。
そんなにマジマジと見ていたつもりは無かったのだが、こちらの視線に気づいたらしく河原が手元のスマホから視線を上げた。
「ずっと寝てたの?」
「まあちょっとだけ」
嘘です。めっちゃ寝てました。
だが河原としてはただの挨拶だったのだろう、「ふーん」と間延びした返事で会話は終了。すぐに手元のスマホへと意識が戻っていく。
……寝起きなことを変に意識して
女の子の部屋着姿って目に毒だわ。
逃げるは恥とは言わないが、気分を切り替えてリビングの更に奥へと足を進める。
さっきからずっと鼻孔をくすぐっている香りの正体が気になって仕方ない。
キッチンへと足を踏み入れると、コンロの前に例の宇宙人パーカーを着た南が立っていた。
フライパンを振っている彼女を驚かせることのないように、適当な距離まで近づいてからその背中に声をかける。
「今日は何作ってるんだ?」
「お手軽ペペロンチーノだよん」
手元を覗き見るとスパゲッティと輪切りにされた唐辛子、スライスされたニンニクがフライパンの上で美味しそうに踊っている。
なるほど香ばしい匂いの正体はやはりニンニクだったか。
「南ってずっとペペロンチーノ作ってないか? 他の料理も知ってる?」
「失礼な! 他にもいろいろ作るし」
「たとえば?」
「昨日はアーリオ・オーリオ作ったもんねー」
「それは唐辛子抜きのペペロンチーノのことだぞ。アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノが正式名称」
「え、マジ?」
手をピタリと止めて、南がまん丸にした目をこちらへ向ける。
おい手元見ろ、パスタ焦げるぞ。
料理に集中しろと促してから南の問いに答えてやる。
「アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノって『にんにく・オリーブオイル・唐辛子』って意味だからな」
「その豆知識は知らなくてよかった……。ていうか鳥羽氏ってほんと物知りだよね」
「実生活に役立つ知識じゃないけどな」
雑学を披露しているうちに、南は仕上げの塩でパスタの味を調えて火を止めた。
皿に盛りつけられたペペロンチーノを見ると、いくら簡素といってもインスタント麺に比べれば100倍は立派な料理だと思わされる。
せめて明日は俺も自炊しよう。明日から本気出す。
ひとりそう決意しつつ、俺も夕食のインスタント麺のスタンバイに入る。
今日は「緊急集会」とやらで招集がかかっているので、全員がダイニングテーブルで夕食を食べるはず。
俺はちょうど河原と向かい合う席をチョイスした。
次いで南が半ば彼女の専用席になっているお誕生日席を陣取って、早速パスタを肴にオレンジジュースを飲み始める。
インスタント麺が出来上がるまでは手持ち無沙汰なこともあって、俺はなんとなく正面でスマホを弄っている河原に声をかけた。
「夜ご飯はもう食べたのか?」
「さっきお風呂あがりにちゃちゃっと食べたわ」
「ちなみに何を食べたんだ?」
「ナポリタン」
「パスタ流行ってるのかこの家……」
パスタ料理の凄まじい普及率に驚いている間にも、河原は相変わらずスマホに視線を集中させたまま恐ろしいスピードのフリック入力で文字を打ち込んでいる。
どうやらメッセージアプリで誰かとやりとりしているらしい。
だが、なんとも器用なことに河原は俺の言葉もしっかり拾って会話を続けた。
「パスタって簡単だからつい頼っちゃうのよねぇ。シンプルだけど味付けの幅も広いし」
「なるほどなあ。レトルトのソースで何かおススメの味とかある?」
「あー。いや、レトルトはあんまり使わないからわかんない」
「そっかそっか。……え?」
レトルトを使うから簡単にパスタが作れちゃうって話じゃないの?
俺が疑問符を浮かべて途切れた会話を埋めるように、
「河原ちゃんは料理上手いからね。ナポリタンも手作りだったし」
「手作りっていうレベルじゃないって。あんなの茹でて切って炒めるだけ」
「茹でて切って炒めたら大半の料理は完成するだろ……」
なんなら俺はカップ麺ばかりなので今週は一度も火を使っていない。
そんな俺に向けて、南が謎のセールストークを繰り出す。
「河原ちゃんはシェアハウスで一番丁寧な暮らししてるんだよ。絶対いい嫁になるよ?」
「お前は誰の目線で評価してるんだ……」
とは言うものの、確かに河原万智のイメージは、ここで一緒に暮らすようになってから180度大きく変わった。
学校での河原万智といえば、緩く気崩した制服だったり、スマホをポチポチしていたり、イヤホンでシャカシャカ聞いていたりと、ありていに言えば今どきのティーンエイジャーの典型。
けれどそれらは全て、彼女の抜け目の無さによって支えられているのだと最近分かってきた。
くすんだ黒髪のボブも、透き通るような肌も、どうやら相当の手間をかけて手入れをしているらしい。
今のルームウェア姿もそうだが、仮にもここは家だというのに、シェアハウスの中で河原がだらけた格好をしている姿は一度も見たことがないのだ。
南から適当な賛辞を受けた河原だったが、少しも照れた様子はないく、それどころか平然とした口調でカウンターを決めてくる。
「まぁ高校生だし。親元から離れて生活してるならこれくらい普通でしょ?」
「あ、はい、精進します……」
まさかの特大ブーメランを突き刺されて南が意気消沈した。
しかも河原の言葉にはまったく悪気がないのでダメージ倍増だ。
恩を仇で返されるとは当にこのことか……。
心の中で南に同情していると、河原のスマホからピコンと通知音が鳴った。
「あ、やっと返信きた」
内容を確認した河原は、手短にメッセージを打ち返してスマホから顔を上げる。
「シェアハウスで一番適当な暮らししてる先輩がもうすぐ帰ってくるって」
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