8話 先輩にはツッコミどころが多すぎる(1)

 俺と南が屋上からリビングダイニングに戻ってきたのとほぼ時を同じくして、コツンコツンという乾いた靴音が玄関の方から響いてきた。

 しばらくするとその足音は止み、木製の玄関扉に特有のギィと軋んだ音が鳴る。


 「ただいまー」


 気だるげな挨拶とともにリビングに顔を出したのは、ここのもう一人の住人である同級生、河原万智かわらまちだった。


 今日もブラウスの第一ボタンはしっかり外されていて、リボンは気持ち緩ませ、短く織り込まれたスカートからは肉付きの良い素足が伸びている。

 学校では《陽キャの女帝》と呼ばれ、十人に聞けば十人とも美人と答えるだろうこの女子は、俺と同じこの屋根の下で暮らしているのだ。


 そんな今日の河原は、垢ぬけたその格好とは裏腹に、学校では絶対に見せないだろう疲れの色を滲ませていた。


「河原ちゃんおかえりー」

「なんか疲れてるのな」


 河原を含めた共同生活を始めてはや1か月。

 今は流石に彼女を何も知らなかった頃のようにいちいちビクついたり挙動不審になったりはしなくなった。

 むしろ攻めの会話を意識しないと心で負ける……という、謎のスポ根魂で挨拶代わりに思ったことを口にすると、河原はいかにも重たそうな鞄をひっさげてストストとこちらへ近寄ってきた。


「え、なに……」


 すぐそばまでやってきた河原は椅子に座るわけでもなく、ただその場に立ったまま俺にジトーっとした視線を向けてくる。


「別に? ただあんたは悩み一つ無さそうで羨ましいなーって」

「……俺だって今日はいろいろあったんだが」

「今のあたしを前にして言えるほど?」

「それは知らんが、いったいどうしたんだ」


 河原は何やら口が開きかけたが、その代わりに短くため息を吐き出した。

 そのなんとももどかしい態度が気になって仕方なく、俺はちょっとばかり鎌をかけてみることにした。


「もしかして彼氏と喧嘩したとか?」

「違うわよ。そんなのあるわけないでしょ」

「そんなのって……もうちょっと大切に扱ってやれよ」


 噂によると彼氏はバスケ部の部長だとか、野球部のエースだとか、聞くとき時によってプロフィールがコロコロ変わる。

 とりあえず高身長のイケメンでスポーツマンなんだろう。


 「そんなの」扱いされる彼氏が不憫だが、どうせ高身長イケメンスポーツマンなんだったらちょっとくらい不憫でもいいか。幸せだったらOKです! 


 ともあれ今日の河原は本格的にお疲れモードのようだった。

 その様子を見かねたらしく南が優し気に声をかける。


「先にシャワー浴びてきたら? それかオレンジジュース飲む?」

「ありがと。シャワー浴びてくる」

「オレンジジュースは?」

「それはいらない」


 またもやオレンジジュースの布教に失敗した南。

 けれど本人は気にしていないようで「ごゆっくり~」と声をかけていた。

 こいつメンタル強いな。


 河原は肩からずれ落ちそうになっていたスクールバッグを担ぎなおすと、そのままテーブル脇を素通りして階段の方へと向かっていった。

 けれどリビングを出る直前、一瞬だけ立ち止まって顔だけをこちらに向けてくる。


「あとで話することになるだろうから。夜の予定は空けておいて」


 そう言い残して階段をとぼとぼ上がっていった。

 その伝言の意味にまったく見当がつかず、俺は南に解説を求める。


「今のどういう意味? 夜っていつよ」

「これは緊急集会ですな」

「は? 集会?」


 どうやら南はこのあとの展開を読み切っているか、天才棋士よろしく鷹揚に頷いてみせる。いやいや意味が分からん。

 解説が無いせいで先の手が読めなさ過ぎて既に詰んでいる。

 参りました投了です。


 「イミがワカリマセーン」と渾身のボディランゲージで訴えるものの、南はそんなのお構いなしにこれからの段取りについて話し始めた。


「鳥羽氏もやること済ませておいて。20時にここにもう一度集合ね」

「それどういう――」

「以上、解散!」


 俺の頭上には溢れんばかりのクエスチョンマークが浮かんでいるのにフォローは無し!

 南はすくっと立ち上がるとオレンジジュースを冷蔵庫にしまい、タタタと軽快な足取りでリビングを出て言った。

 

 ついに誰もいなくなって静まり返ったリビングを意味なくぽけーっと眺める。

 本来は10人が優にくつろげるくらいの広さはある部屋だ。

 それだけの空間に人が一人もいないとなると、なんとも寂しい雰囲気になる。

 学校でも遊園地でも同じことが言えるが、人の賑わいが当たり前な場所ほどそのあるべきイメージとのギャップが大きいからだろう。


 暮れなずむ西の空からは陽が差し込んでおり、壁掛けの馬面がぼんやりとオレンジ色に灯っていた。


「ほんと不思議な場所だよなぁ」


 馬に話しかけるように独り言ち、俺もリビングを後にした。

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