Komachi 4
エレベーターもエスカレーターもない古い地下鉄駅の階段を駆け上がる。
「入り口の車椅子下ろして来る」
すると改札前の壁で汗まみれになって寄りかかる小林君は大きな声を上げて私を呼び止める。
「頼むから降りてくれ!」
え。でも車椅子降ろさないと小林君移動しづらいよね? まだ左脚の包帯取れないしびっこ引いてるもの。病院からの道を爆走していた車椅子なら慣れてるみたいだし。私、力仕事慣れてるから全然大丈夫だよ?
「大丈夫! 直ぐに下ろせるよ!」
幅の狭い階段の中程で止まった私を、眉を下げた小林君が見上げる。
「頼むから降りてくれ! 考えがあるから……」
地下いっぱいに悲痛な声が響いた。
……そっか。良かれと思って突っ走っちゃった。小林君の事情もあったよね。
「ごめんね」
私が階段を降りると小林君は不安を抱えているようなそれでいて安堵しているような何とも表し難い顔をした。……怪我人にそんな顔させてごめんなさい。
幼い頃、離してしまった風船を追いかけようと車道に飛び出してパパに泣きながら雷を落とされた事を思い出す。あの時みたいにとっても気まずい。小林君は難しい顔で黙してる。『少し待っててね』と二人分の切符を券売機で購入していると、足を引きずった小林君は窓口で業務に従事する初老の駅員さんに声を掛ける。
「すみません。お願いがあります」
ガラスを軽く叩かれ小林君に気づいた駅員さんは『はい。何でしょう』と柔和な顔を上げた。
「無理を承知でお願いがあります。階段の上の……出入り口に車椅子があるんです。暫く置かせて貰えませんか? 今日中に取りに来ます! どうかお願いします!」
幾度となく小林君は丁寧に頭を下げる。顔を地に向ける度に汗が滴った。
腰が軽く曲がった駅員さんは『下ろしてきましょう』と微笑を浮かべる。
「いえ、申し訳ないです! ダメです! 置いといて貰えるだけですごく有り難いです!」
駅員さんの申し出を断った小林君に肩を貸し、幅のある自動改札から二人でホームへと歩く。肩越しに小林君の体温がじんわり広がる。必死に車椅子を漕いでいたので呼吸もまだ落ち着かない。首筋に吐息が当たって少しくすぐったかった。
女声の案内が流れ、ホームに生暖かい空気が流れ込むと電車が滑り込む。ドアが開くと地下鉄特有の埃っぽい匂いの空気が車内から吐き出される。私は『せぇの』と声を掛けると小林君と共に乗車した。
「座る?」
人がまばらな車内で問うと小林君は頭を軽く横に振った。そっか。座ると立ち上がる時大変だもんね。お客さん少ない時間で良かった。いいポジション抑えられた。戸袋の近くに佇み、肩に凭れた小林君には手すりに掴まって貰う。
ドアが閉まり発車、徐々に加速する。小林君のバランスが心配だ。目の端でちらり見遣ると小林君は車窓を睨みつけていた。……やっぱり座りたかったかな。我慢させちゃったかな。でもあまり差し出がましい事言えないな。車椅子下ろすの断られちゃったし、何よりもタロ君の事で頭がいっぱいいっぱいになってる。お父さんを亡くしたタロ君を心配して居てもたってもいられずに病院を抜け出したんだもの。無我夢中で車椅子を漕いできたんだもの。心に余裕がないのは当然だよね。タロ君は小林君の親友だもの。親友を、大好きな人を、大切な人を想うのは当然。私も大好きな友達を想いたい。大切な友達を手伝いたい。……少しでも小林君の希望に添えるようにお手伝いしたい。
俯いて走行音を聞いていると小林君の声がぽつり響く。
「……立花、ごめん」
顔を上げると汗を浮かべた小林君と視線が合う。肩を貸している所為ですごく距離が短い。小林君の吐息が唇に当たる。
頬がカッと熱くなり瞬時に顔を伏せる。恋人の距離だよ……! 恥ずかしいよ。不用意に顔を上げてごめんなさい。
小さな溜息が聞こえたかと思うと小林君の声が響く。
「その……色々ごめん。ヘビー級の我が儘に付き合ってくれて……それに俺汚いし。なのに車椅子預けさせて肩借りて……重いしウザいし気持ち悪いし臭いし迷惑だよな。本当、色々ごめん」
私は俯いたまま首を横に振る。
「そんな事ないよ。私が好きで手伝わせて貰ってるだけだから」
小林君は私の肩を掴む手に少し力を込めると、また黙ってしまった。
降車し、家へ向かう途中で小林君のお母さん……舞美さんと鉢合わせた。舞美さんは私に体重を預ける小林君に気付くなり怒鳴る。病室で会った儚い雰囲気とは違ってしっかりした……ううん、『母』なる気迫に驚き、狼狽えてしまった。こんなに若くて綺麗でお姉さんにしか見えないのに、小林君を産んで育てた『お母さん』なんだな……。
怪我人にも関わらず病院を脱走した経緯を話すと舞美さんは長い溜め息を吐き『仕方ないわよね……。親友ですもの』と小林君を許してくれた。
初めてお会いした時にも軽く挨拶を交わしたが、改めて舞美さんと挨拶した。先程の剣幕から一転して、柔和に笑った舞美さんは高校生の私に丁寧にお辞儀してくれた。驚いた私も深くお辞儀を返す……すると肩に体重を預けていた小林君がバランスを崩す。ごめん! 忘れてた!
舞美さんの案内でタロ君の家へ向かう。舞美さんはタロ君の着替えを取りに店に戻る所だったらしい。葬儀全般や財産関係を大人に頼らず全て自分で乗り越えようとするタロ君の姿を話す舞美さんは不甲斐ないと瞳を潤ませていた。……タロ君は小林君の家族なんだね。舞美さんにとても愛されてる。
『コマチちゃんもジロをお願いします』と挨拶する舞美さんと門前で別れ、タロ君の家を訪ねる。私たちを迎えてくれたタロ君は舞美さんの話通り、いつものタロ君だった。気が抜けた感じも動転してる様子もないけど、とても忙しそうで少しピリピリしてる。散らかった書類を引っ張り出して眉間に皺寄せたり、テーブルのラップトップを弄ったり……。小林君がタロ君に話しかけようとすると携帯電話が鳴る。タロ君は『悪い』と眉を下げて苦笑すると通話ボタンを押す。
タロ君、中学から全国統一模試で一位を守り続ける程、東大の赤本解いて全問正解しちゃう程頭がいいスーパーマンだもの。出来ない事がない人だよね……。私達じゃ何も力になれそうもないな……。
どうする? と見遣ると眉を下げた小林君も私を見つめていた。お互いに頷き、玄関を目指す。タロ君には後で『ごめんなさい。忙しそうだけど手伝えそうな事がないので帰りました』ってメール打っておこう。
こっそり帰ろうとすると送話口を押さえたタロ君に怒鳴られた。
「お馬鹿! 送るから待ってろ。このままじゃ風邪ひくでしょーが」
お父さんの会社との話を一段落させたタロ君と共に近くの銭湯へ向かった。タロ君は小林君ばかりか私の分まで入浴代を奢ってくれた。開いたばかりで女湯にはだれもいない。広い浴槽に浸かって富士山の大きな壁画を眺めていると男湯から楽しそうな二人の声が響いて来た。……反響するから何を言っているのか分からないけど、時々笑い声も聞こえる。お家訪ねた時、タロ君はちょっとピリピリしていた。だけど今は楽しそうに笑ってる。……タロ君を元気付けられるのは小林君だけだもの。会わせてあげられて良かった。少しはお手伝い出来たのかな。
早めに上がり、制服を着て夕日が差し込む入り口へ降り立つが既に二人とも紙パックのフルーツ牛乳を飲んで談笑していた。『ほい。コマっちゃんの』とタロ君は私にも紙パックを差し出してくれた。
最寄り駅まで送ってくれたタロ君は改札口でタクシー券を私に差し出す。
「え……これ……。使ったら悪いよ……」
「谷口さんのだから気にしないのよー? そこのお馬鹿の為に貰った物をお馬鹿の事で使うんだから、谷口さんもにっこり頷く筈よ? コマっちゃんなら使い方分かるでしょ?」
「うん。時々戴いたものをママが使ってるから、真似すればいいよね?」
タクシー券を受け取る私を小林君は目を丸くして眺める。
「すげ……タッ券の使い方知ってるとかお嬢様」
「やめてー! お嬢様じゃないよ!」
頬を染める私にタロ君は微笑む。
「駅でタクシー呼んでね。ジロは病院のエントランスで下ろしてね。コマっちゃんはそのままお家までタクシー走らせてね」
「でも……お医者さんや看護師さんに小林君だけ怒られるのは……。私だって脱獄幇助した訳だし……一緒に頭下げてもいいかな?」
「脱獄幇助! プリズンブレイクならぬホスピタルブレイクなのねーっ!」
大爆笑したタロ君はもう一枚、タクシー券を差し出す。
「え……。それこそ悪いよ。ダメだよ。小林君の為の使い方じゃないもの」
「受け取らないとダメよー? 病院に戻る頃には日が沈んでるしバスがないのよー? 最寄りの駅まで歩くと遠いわ暗いわ物騒だわでレディを一人で歩かせるなんざ男が廃るのよー? タロちゃんやジロちゃんが家まで送れない分、受け取って」
困ったな……。身内のタロ君の相乗りするくらいなら気が楽だったけど、これは谷口さんに申し訳ない。でも……男の子の面子があるし……(思い返すと、駅の階段で車椅子を下ろして来ようとしたのは大失敗だったな。怪我人でも小林君はスポーツマンだもの。女子に軽々と車椅子持たれちゃ面目丸潰れだよね)。どうしよう。
眉を下げてタクシー券を見つめているとタロ君に体重を預けた小林君が思い切り頭を下げる。
「頼む! 貰ってくれ! 大切な女の子に何かあったら耐えられない!」
わーっ! 頭下げないでーっ!
「もっ……貰います。だ、だから安心して? 何から何までありがとう」
頭を上げた小林君とタロ君は互いを見遣ると悪戯っぽく笑った。
帰宅後、ウィーンから帰国したパパにお帰りなさいのハグをした。私をぎゅっと抱きしめたパパは眉を下げて『病院の匂いがする。……コマチちゃん、何処か怪我したの? 痛くない? 大丈夫?』と問うた。馬鹿正直に『何処も怪我してないよ。大丈夫だよ。お見舞いに行ってたんだよ』と答えたのが運の尽きだった。怪訝な顔をしたパパは私の顔を覗き込み『誰を?』と問う。
「お、お友達だよ」……パパ、この前の小林君程じゃないけど怖い顔してる。この話早く終わらないかな。
「ウララちゃん? それともジャズ研のテラっち? 花を育てる会のマナちゃん? バイトクルーのエミリちゃん?」
「ち、違うよ」
「お名前は?」
「こ、小林……さん」
「……男の子だね」
「ち、違うよ!」
「いや、男の子だ。コマチちゃんは女の子を苗字で呼ばない。お見舞いに行くなんて……」パパは眉を顰める。
「パパ、心配しないで。小林君はすごくいいお友達なの。責任感が強くて部活で忙しいのにクラス委員をやる子なの、陸上の選手ですごく頑張ってたのに事故に遭って復帰出来なくて……」
懸命に小林君の弁護をするがパパは上の空。小学生の時、男の子に苛められて私が不登校になりかけて以来、パパは男子を嫌っている。私も正直、男の子は苦手だけど、皆んなが皆んな苛めっこじゃないし小林君やタロ君、竹下君、森山君みたいに気持ちのいい子もいるって知ってる。
その旨を話してもパパは悲しい顔をしていた。パパ、そんな顔しないで。私も悲しい……。
「ほんとに、ほんとに悪い子じゃないから心配ないから、お見舞いに行かせて……。バスがあるうちに帰るから、心配な事なんて一つもないから……お願い」
しかしパパは私を一瞥すると何も言わずに書斎に退がってしまった。
「パパ……」
心配させてるのは分かってる。でも私、お見舞いに行きたいの。……パパにあんな顔させた私はどうすればいいの?
頬に伝う涙を拭っていると携帯電話片手にママがひょっこり現れた。
「小林君って言うのね、クッキーの彼」
「ママ……!」近くに居たなら助けてよ……!
ママは携帯電話を弄る。
「もしかして三丁目の中華屋さん? 美味しい餃子と美人女将が評判の。小林
「そうだけど……どうしよう。パパ、凄く怒ってる」
「放っておきなさいな。あんな表情の男ほど見苦しいものはないわ」
「でも……」
「コマチちゃん、パパは小林君にヤキモチ妬いてるの。可愛いコマチちゃんを盗られるのが嫌で嫌で許せないの」
「盗られるって……私と小林君、ただの友達なのに」
クスクス笑うママは私の頬を突つく。
「男と女なんて分からないものよ? 一緒にいれば何某かの化学反応があるもの。
「パパがママを……?」
「今はママにベッタリなのに意外でしょ? 幼かったパパなりの愛情表現……弟の宝君が好きだったママに振り向いて欲しかったみたいね。宝君は女の子に優しかったから……。だからこそ、女の子に気持ちよく接するイケメンに嫉妬しちゃうのよね。不器用なのよ、新君も」
「優しいパパが……意外……」
「お茶飲みながら聞く?
こっくり頷いた。
キッチンでママと一緒に紅茶とお菓子の用意をしていると書斎を出たパパの足音が玄関へ向かう。
「ど、どうしよう。パパ、家出しちゃう」缶からプレートスタンドにクッキーを盛り付けるママの腕を揺さぶる。
「大丈夫よ。放っておきなさい。それよりも紅茶に入れるスミレの砂糖漬け出してくれる?」
「で、でも……!」
「粗方、宝君の店に行ってお酒片手に愚痴大会だから。スマートな宝君なら上手にコントロールしてくれるから」
「でも、おじさんに迷惑かかるんじゃ……」
玄関のドアが閉まる音が響く。
ママはフ、と笑う。
「仲がいい兄弟だから大丈夫よ。それこそママが間に割って入れない程の。……コマチちゃん、明日ウィーンのお土産を宝君に持って行ってあげて。パパったら冷蔵庫のザッハトルテ持たずに行っちゃうんだもの。よっぽどコマチちゃんと顔を合わせ辛いのね。かわいいこと」
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