第38話 羽衣さんは王立音楽学園に入りたい⑥ ~サヨナラ、恚くん~

「――ごめん、昨日。寝落ちしちゃったみたいで……」


 放課後。

 アパートのインターホンを押すと、ノースリーブ姿の羽衣さんが出てくるなり、いきなりそう言った。


「恚くんがヴァイオリンを肩に乗せたところまでは覚えてるんだけどさ……」

「あ、あぁ……。つ、疲れてたんじゃない……? た、たぶん……」


 僕のヴァイオリンで気絶しました――なんて言えるわけもなく……。

 僕はつい羽衣さんの胸元に視線をやり、それから慌てて目を逸らした……。


「き、気にしてないから、いいよ……」


 ――こうして二日目のレッスンが始まった。





「やっぱり、無理だよね……」


 レッスンが始まって三十分も経った頃だろうか。

 ヴァイオリンを肩に乗せた羽衣さんが、独り言みたいにボソッと呟いた。

 僕はつい胸元に向けていた視線を上げる。


(……無理? ……無理って、何だろう?)


 いや、ていうか……。

 昨日会ったから、僕と羽衣さんの距離は少しは縮まったと思っていた……。

 それなのに、羽衣さんの表情は昨日よりもずっと暗い……。


(……どうしたんだろう?)


 さっきからずっと気になっていた。

 それに加えて急に「無理」などと意味深なことを呟かれ、僕は心配になってしまう。


「……無理って、どうかしたの?」

「やっぱり私には無理だと思って……。"王立音楽学園に入りたい"だなんて……」


 ヴァイオリンを肩から降ろしながら、羽衣さんはまたボソッと呟いた。

 どうやらあれからまた新たな壁にぶち当たったらしい……。


「無理か……。いや、そんなことはないと思うけど……」


 言いながら僕は、羽衣さんのステータスを横目に覗いてしまう――



 名前:和紗羽衣

 レベル:14

 TS:113

 AS:182

 MP:11

 スキル:≪G乳上のアリア≫≪ボーイングLv.3≫≪アルペジオLv.3≫≪速いパッセージLv.2≫≪ポジションチェンジLv.3≫≪ビブラートLv.3≫≪トリルLv.2≫≪重音Lv.2≫

 称号:≪アマチュアヴァイオリニスト≫



(ま、まるで成長していない……っ!?)


 ……いや、でも当たり前だ。"アメリカの空気を吸うだけで高く跳べると思ってた谷沢君"とは違う――。


 むしろ音楽家の成長過程とは、そういう停滞とブレイクスルーの繰り返しなんだと思う……。

 まぁ、エラそうなことは言えないけどさ……。


(だって僕みたいに寝てるだけでMPが貯まっていくわけじゃないんだし……)


 いっぱい練習して、壁にぶち当たって、経験を積んで、なんとかレベルを上げて……。

 そうやってステータスを上げたり、新たなスキルを覚えたりしなきゃならないんだろう……。


 ――近道なんてない。

 それが本来の正しい成長過程なんだと思う。

 ヴァイオリンが上手くなるのに、近道なんて……。


「グレフェンに来ればすぐにヴァイオリンが上手くなるなんて、そんなことあるはずないよね……。急に恚くんみたいに弾けるようになるなんて……」


 羽衣さんはソファにもたれながらため息をついた。

 ……なんだか辛そうだ。


「……いいなぁ。恚くんが羨ましいよ」

「羨ましい?」


 ……どういう意味だろう?


「……たくさん才能に恵まれてさ。グレフェン語もペラペラでしょ。髪も切ってカッコよくなったし、学校でも女の子にモテモテなんでしょ? もう私のことなんか"どうだっていい"って思ってるよね? "なんでこんなヘタクソにレッスンしなきゃいけないんだ"って。"なんでこいつ才能ないクセにグレフェンに来たんだろう"って、きっとそう思ってるよね? "編入試験に受かりたいなんて、無理に決まってる"って――」


 そんなこと思ってない――。

 そう言いたかったのに、言葉が喉の奥に引っかかって上手く出て来なかった……。


(編入試験は、確かに無理かもしれない……)


 僕ですらそんな一抹の不安を覚えるくらいだから、羽衣さんはきっと比べものにならないくらいずっと不安だったんだと思うな……。

 僕が口ごもっていると、羽衣さんはフッと笑った。


「……気を遣わないでいいよ。元々ランズベリー先生にお願いしたレッスンは一回だけだし。それに……ほら、あんまり一緒にいると……また好きになっちゃうから。手の届かない恚くんのことが……もっともっと好きになっちゃうから……」


 羽衣さんはそう言うとヴァイオリンをケースにしまい始め、こっちを見ずに呟いた――


「――編入試験は自分で何とかするよ。……もう来なくていいから。…………サヨナラ、恚くん」





(情けないなぁ、僕は――)


 羽衣さんのアパートからの帰り道。

 王都の往来には昼間よりも人の姿が増えていた。

 これから夜になるにつれ、街は次第に活気を取り戻していくのだ――。


(みんな、それぞれに家族や友達がいて……)


 僕はすれ違う人々の顔に目をやる……。

 肌の色も国籍も様々で……。

 それぞれに悩みがあって、痛みや苦しみがあって、助けてあげたい人がいて……。


 自分はこれまで、自分が助けてもらうことばかりだったな……。

 それこそグレフェンへ来てからはずっと、毎日誰かの世話になってきたし……。


(でも――)


 事務所もやめて、仕事もやめて、何もかもをやめて――単身グレフェンにやってきた女の子だ。


 そんな羽衣さんの気持ちを――僕は汲み取ってあげられなかった。

 藁をもすがる思いでリーゼ先生にレッスンを頼んだはずなのに、代わりにやってきたのが何の役にも立たない僕って……。


(このままじゃ羽衣さんに申し訳ない……。絶対に羽衣さんの力になりたい……。絶対に、絶対にだ……)


 往来を歩きながら、気づけば歯を食いしばっている自分がいた――。





 女子寮ミネルヴァに帰り着いてベッドに寝転んでからも、僕は羽衣さんと出会ってからのことを走馬灯のように思い出していた――。


(……あの日、初めて声をかけてくれたのが羽衣さんだったよな――)


 半信半疑のまま参加した音楽教室――。

 その帰り道、声をかけてくれたのが羽衣さんだった――。


 いらない子だった僕を、人生で初めて必要としてくれた女性だった――。

 死んだ母親以外で、初めて僕を大切に想ってくれた女性だった――。


 死んだ母親以外で、初めて僕を好きになってくれた女性だった――。

 こんな僕を抱きしめてくれて、キスしてくれて、励ましてくれて――。

 いつもそうやってそばで支えてくれた、素敵な女性だった――。


(――今度は僕の番だ)


 僕が羽衣さんを励ます番だ――。

 彼女の願いを、彼女の夢を、支えてあげる番だ――。


(そのためなら、僕の命なんて――)


 そう思った僕は、エクスカリバウスに語りかけていた。


「……エクスカリバウス。やっぱり君を、羽衣さんに貸すことにするよ。今度の編入試験で、魔法のヴァイオリンを羽衣さんに預けることにするよ。いいね?」


『……よいのか、選ばれし者よ。代償を支払ってもよいのか』


「わかってる……世界秩序だろ。大切なものが失くなるんだろ。死ぬかもしれないんだろ。でも、それでもかまわないよ。死ぬのは怖いけどさ……それよりも、羽衣さんの力になりたいんだ。もう決めたんだ」


『…………』


 長い沈黙の後、エクスカリバウスは肯定した。


『……選ばれし者よ。汝がその道を選ぶなら、我は何も言うまい』


「理解してくれて嬉しいよ。もし僕が死んだら、またあの岩の中に閉じ込められちゃうかもしれないけど……そのときはごめんね」


『…………っ』


 ……こうして僕はエクスカリバウスを羽衣さんに貸与することと引き換えに、自らの命を差し出すことを決めたのだった――。

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