第19話 結婚を申し込まれた件①
「アンタさぁ、"かずさ"とかいうあの女とは、あれからどうなったの……?」
石造りの家々が建ち並ぶ路地まで戻って来たところで、急に隣を歩くありすさんがそう言った。
「……かずさ?」
僕は首を傾げてしまう。
ていうか右手に持ったアイスクリームがドロドロに溶けかけていて、それどころじゃない……。
……さっき屋台で買ったものだ。ありすさんはその場で二個を平らげ、僕は寮に持って帰って夕食後のデザートに……なんて馬鹿なことを考えていたらこうなってしまった。
(あーあ、僕も買ってすぐ食べればよかったなぁ……)
質問に答える余裕すらもなく、僕はラッパみたいにコーンをすする。……うわぁ、もうベチョベチョだ。
――現在、時刻は午後六時過ぎ。
と言っても路地の明るさは、昼間ここを歩いた時と変わらない。
グレフェンの日没は日本よりもだいぶ遅く、八時近くまでこんな感じだ。
体内時計が狂いそうだなぁ……と思う。
実際、お昼頃にお目当てのレストランに入れなかった僕とありすさんは、やむなく違う店で昼食を取って、それから半日ほど買い物と観光を兼ねて王都を歩き回ってきたのだ。
それなのに、まったくと言っていいほどおなかが空いていない。
寮ではそろそろ食堂に料理が並べられる時間にもかかわらず……だ。
まぁ、ありすさんに勧められるがままに屋台で買い食いしまくったせいかもしれないけどさ……。
とにかく、おなかも足も、もうすっかりパンパンだった。
「……ちょっとアンタ、なに無視してんのよっ!」
「いや、無視してるわけじゃないですけど……"かずさ"って誰ですか?」
「アンタの……ぅぐっ! 忌々しいっ!」
「……忌々しい?」
「アンタの……あの……ホルスタインみたいな元カノよっ! あの乳デカ女よ! 週刊誌に撮られたでしょ! だから助けてあげたんじゃないのっ!」
「あー、羽衣……いや、羽衣さんのことですか」
「……ぐぬぬぬぬっ!」
そういえば羽衣さんの苗字は"和紗"だったな――そんなことすら忘れていた。
だってこっちへ来てからは一回も連絡をとってないし……。
――って、あれ?
ありすさんの目が火の玉みたいにメラメラと燃え上がっているけど……一体どうしたんだろう?
「……ア、アンタっ、まさか『ヨリを戻そう』とか考えてるんじゃないでしょーねっ!?!?」
ありすさんの言いがかりに、僕は苦笑してしまう。
「まさか。あの件はもう終わったことですよ。だって僕たち、日本から遠く遠く離れたグレフェンにいるんですよ? そんな今さら……」
「……ホ、ホントにっ!? ホントのホントのホントに――っ!?」
いきなり顔を近づけてくるありすさんに驚いて、僕は残りのアイスを路上に落としてしまった。
まぁ、もう別にいいけどさぁ……。
「ほ、ほんとですよ……。それがどうかしたんですか?」
「ヴァイオリンの才能はめちゃくちゃスゴイし……髪を切ったらイケメンだってこともわかったし……ゼッタイゼッタイ誰にも渡さないんだからっ! アンタと結婚するのはこのアタシよっ……!」
「……はい? 何か言いましたか? よく聞こえなかったんですけど?」
「い、いやっ、なんでもないわっ……! たっ、ただの独り言よ……っ!」
「はぁ……?」
「と、とにかく、前にも言ったけど、"アタシ以外の女と仲良くしちゃダメ"だからねっ! アタシたちの未来のためにもっ!」
「未来とは……?」
「いつか夫婦に……! じゃなくて、えーっと……そうっ、こ、これはアンタを守るためよ! と、とにかくアンタは、アタシのことだけ考えてればいいのっ! ……わかったわねっ!?」
「は、はぁ……」
「返事は"ハイッ"でしょっ!」
「は、はい……っ!」
そんなカンジでいつものようにありすさんの勢いに呑まれているうちに、気づけば寮についていた。
◇
「はぁ……。たくさん歩いたから汗かいちゃったなぁ……。でも――」
僕は廊下を進みながらため息をついた。
入寮直後は廊下を歩くだけで"見つかったら終わり"みたいなステルスゲームをやっている気分だったけど、今は誰かとすれ違ったら挨拶するくらいの余裕はある。
まぁ「女子寮に一人だけ男がいる」っていう後ろめたさは、今もあんまり変わらないけどさ……。
そんなことを考えながら長い廊下を歩いているうちに、シャンデリアに照らされた大浴場の入り口が見えてきた。
「――いいなぁ。僕には縁のない施設だ。入るわけにはいかないもんなぁ……」
そう、"住めば都"の海外生活に唯一の不満があるとすれば、やっぱりそれだ。
――風呂に入れないこと。
特に今みたいな夏場は"家に帰ったらまずシャワー"という生活習慣を持つ日本人は多いだろう。
僕もそのうちの一人だ。
だけどそれはもはや叶わぬ夢。毎日濡れたタオルで体を拭くのが僕の日課になってしまっている。
(いやまぁ寮母さんからは、みんなが使う前の3分間だけは入ってもいいって言われてるけどさ……)
だけどたった3分間じゃリラックス出来ないし、もし何かの手違いで誰かが入ってきたら終わりだし。
それに、たかがお風呂でそこまでのリスクは取りたくないしなぁ……。
(――いや、でもなぁ……。やっぱり入りたいよなぁ……?)
そんなことを胸の内で呟きながら大浴場の前を通りすぎたとき、僕はあることに気づいてしまった。
――あれ、靴箱が空っぽだな……?
大浴場の前に置いてある靴箱には、いつもたくさんの女物の靴が並んでいるのに、今はめずらしく木の板がむき出しになっている。
今日から学校が始まったせいだろうか?
「みんな、忙しいのかな……」
僕は時計に目を落とす。――午後6時21分だ。
僕が入浴を許可されている時間はとっくに過ぎているけど、誰もいないのなら問題ないのではないだろうか……?
そんな企みが頭をめぐった途端、風呂に入りたくて堪らなくなってきた……。
"魔が差した"とはこういう心理状態を指すのだろう……。
僕は急いで部屋に戻り、バスタオルと着替えを持って大浴場へ……すなわち女風呂へと、足を踏み入れてしまった……。
◇
「う、うわぁ……。まるで神殿みたいだ……っ!」
脱衣室で一糸まとわぬ姿になり、浴室に誰もいないことを確認して恐る恐る扉を押し開けた僕の目に飛び込んできたのは……。
……大理石の柱に支えられた、古代ローマの"テルマエ"みたいな豪華な大浴場だった。
「スゴイ……『テルマエ・ロマエ』だっけ? 阿部寛がこういうお風呂に浸かってるのを見たことがあるぞ……っ!」
すっかりテンションが上がってしまった僕は、シャワーで汗を流すだけのつもりだったのに、つい大理石の浴槽へとダイブしてしまう。
「うわぁ……まるでローマ皇帝にでもなったような気分だよ! ――最高っ!」
久しぶりのお風呂に、体中の細胞が蘇ったような気がした。
僕はつい全裸のまま湯船を泳ぐ。
(いやぁ、日本人はやっぱりお風呂だなぁ~!)
そんな感じで、一体どれくらいそこに浸かっていただろうか?
すっかりリラックスした僕は、大満足で大浴場を後にしようとしたのだが……。
――ギィィィィィィ……。
(ひっ――――!?)
……あろうことか僕がゾウさんを揺らして脱衣室へ引き返そうとした時、向かいから扉の開く音が聞こえてきた。
「――フン、フーン♪」
女性の鼻歌まで湯気の向こうから響いてくる。
(ヤ、ヤバイ……! だ、誰か来ちゃった……っ!)
僕は縮み上がった息子を両手で隠し、とっさに隠れる場所はないかと辺りを見回した。
――だがそんなものあるはずがない。ここは密室、男子禁制の女風呂だ。
見つかったら最後、僕の人生は……
(く、くそ……こうなったらっ!)
近づいてくる足音に耐えきれずに、僕が取った選択は……
(せ、せーの! むぶぶぶぶぶっ……!)
……お湯の中にもぐることだった。
僕が潜水艦みたいに湯船の底に身を隠した直後、遠くの方で女性の足がお湯の中に突っ込んでくるのが見えた。
(むぶぶぶぶぶぶっ……!)
女性の足に続いて、丸いお尻が、そして白いおなかが、順番に湯船の中に入ってくる……。
見てはいけない、と思いながらつい目を向けてしまうのは、男の
まぁ幸いプールくらいの広さはある浴槽だから、まだ向こうにはバレてないと思うけど……。
僕は必死に息を止める。
(ぐっ、むぶぶぶぶぶぶっ……!)
……そして気づいた。
勉強も運動も出来ない無能な僕の、恐るべき肺活量の低さに……。
「……ぶ、ぶはぁっ!?!?」
あっという間に窒息死しそうになった僕は、シンクロナイズドスイミングみたいに勢いよく水面に飛び出してしまった。
湯気の奥から、
「キャっ――!!」
女性の悲鳴が響く。
や、やばい……っ!
「あっ、あの、ちっ、違うんですっ……! ぼ、僕は変態とかじゃなくてっ……!」
――どう見ても変態だ。
詰んでいるのはわかっていた。
だが、女性は案に反し、
「……ケイ?」
落ち着き払った声で、僕の名前を呼んでいるではないか。
……だ、だれっ!?
僕は湯気の向こうに目を凝らす。
そこに座っていたのは――
「ケイ……やっぱりあなただったのね♡」
濡れたブロンドの髪に、白い乳房をむき出しにした美少女――いや自称サキュバスの……レウィシアさんだった。
(げっ、なんでこんなタイミングで……っ!?)
一週間前の挨拶回り以来、ずっとエンカウントすることを避けてきた相手だ。
部屋を出る際は廊下に足音がないか確認し、部屋に戻る際は廊下に人の気配がないか確認し。
そうして今まで平穏を保ってきたのに……。
それがまさか、こんなところで……。
だが凍りつく僕の心とは裏腹に、股間のゾウさんは暴走を始める。
まるでローマ帝国が勢力を拡大するがごとき勢いで巨大化し、大理石の柱のようにそそり立っていた。
そんな僕を見てニヤリと笑い、舌なめずりをしながら近づいてくる自称サキュバス……レウィシアさん。
慌てて湯船の中にしゃがみ込み股間を手で隠すが……時すでに遅しだった。
「ケイ……髪を切ったのね。とっても似合ってるわ。さすが私が"永遠の愛を誓い合った"男性よ♡」
「え、永遠の愛を誓い合った……!?」
……いつですかっ!?
……どこでですかっ!?
……まったく記憶にございませんがっ!?
「忘れたとは言わせないわよ……『愛の挨拶』を弾いてくれたじゃない……♡」
「あっ、あれは別にそんな深い意味じゃ……っ」
「あんなに気持ちよくしてくれちゃって……ケイのヴァイオリンを聴いてから私、体がうずいてうずいて……♡」
「ひぃっ……!?」
身の危険を悟った僕は、股間を押さえて湯船の中から逃げ出そうとしたが、それは無意味な試みだった。
何故ならレウィシアさんの官能的な裸体が、シマウマを水中に引きずり込むワニのように僕に絡みついてきて、再びお湯の中に引きずり込まれてしまったからだ。
そしてレウィシアさんはフフっと妖しく笑う。
「――ねぇケイ、みんなに言いふらしていいの? 『ケイにお風呂を覗かれた』って。そうしたらあなた、どうなっちゃうのかなぁ? ウフフ♡」
「ど、どうなっちゃうって……!」
……寮を追い出されるか。
……学校を退学になるか。
……いや、最悪の場合は刑務所に入ることになるかもしれないな。
(だって外国は性犯罪に厳しいって言うし……)
お風呂に入っただけで懲役刑とかカンベンしてくださいよ……。
僕が捨てられた犬みたいにガタガタと震えていると、レウィシアさんはまたフフッと妖艶に笑う。
そして耳にふうっと甘い吐息を吹きかけ、こう囁いてきたのだった――。
「――でも大丈夫よ、私の言う通りにしてくれたら、お風呂の件は見なかったことにしてあげるから……♡」
「言う通り、とは……?」
「ケイ、私と――結婚して♡」
レウィシアさんはそう言って、僕の口に柔らかい舌をねじ込んできたのだった……。
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