第13話 向かいの部屋の自称サキュバスに襲われた件
なになに、『サキュバスの部屋』……えっ?
ドアにかけられたプレートを見て、僕は失笑してしまった。
ここは女子寮・ミネルヴァの三階の廊下。僕は向かいの部屋のドアの前に立っている。
さすがに元宮殿というだけあって、シャンデリアや高級絨毯など豪華な内装が目を引くけど、そんなことより後ろめたさばかりを感じてしまうのは、たぶん自分が男子禁制の女子寮にいるというやましさからだろう。
とはいえ、入ってしまったものはしょうがない。
リーゼ先生に先導されて女子寮へと連れてこられた僕とありすさんは、寮母さんに鍵を渡され、いったんそれぞれの部屋で荷解きをすることになったのだった。
ありすさんは本館二階、僕は翼棟三階と離れ離れになってしまったけど、まぁ急遽入寮が決まったのだからやむをえない。
それよりも、荷解きといっても空っぽのスーツケースとヴァイオリンしか持っていなかった僕は、ベッドに寝転がってすぐにやるべきことがあると思いついたのだ。
そう――挨拶回りだ。
新居での挨拶回りという文化はひょっとしたらジャパニーズカルチャーなのかもしれないけど、最低でも両隣と向かいの部屋くらいには断りを入れておいた方がいいと思った。
だって男子禁制の女子寮だし、挨拶もせずにいきなり鉢合わせしたら、性犯罪者や下着泥棒なんかに間違われるかもしれないしな……。
そう思い立ち、早速、向かいの部屋のドアの前までやって来たわけだけど……。
(……サキュバス? 何だそれ)
コンコン、と二回ノックをした後で、ドアにかけられているそのふざけたルームプレートに気づいたのだった。
――サキュバスの部屋。木製のプレートに手書きの文字でそう書かれていた。
(……サキュバスって、よくファンタジーとかに出てくる、あの?)
確か"男性の精液を絞り取る"とかいうHな悪魔かなんかじゃなかったっけ?
"サキュバスさん"っていう名前なんだろうか? ……まさかな。
当然、本物のサキュバスが住んでいるなんてオカルトじみた話があるはずもないし、たぶんジョークか何かのつもりなんだろうけど。
それにしても、品がないよなぁ……。
まぁ女子校とかって下品な下ネタが飛び交ってるって聞いたことあるし、女の花園なんてそんなものかもしれないな……。
などと考えていると、部屋のドアがいきなり"ガチャッ"と開いた。
半開きのドアの向こうから姿を見せたのは、天使のようなブロンドの髪に、濡れた唇、潤んだ瞳、男子の理性を破壊するような白い肌、なぜか首に鎖を巻きつけ、おっぱいはほとんど丸出しで、申し訳程度に黒いレースの下着だけを身につけた……
……あられもない恰好の、妖艶な美少女だった。
(……ちょっ!?!?)
僕の理性は吹き飛びかけた。
一瞬本当にサキュバスが現れたのかと思って、ツノや尻尾が生えていないかと確認してしまった。
……幸いツノも尻尾もなかったけど、下着姿の美少女に睨まれている、というこの状況が悪魔的であることに変わりはない。
内心、心臓が爆発しそうになりながら、僕は努めて冷静に言った。
「は……じめまして、きょ、今日か……ら、む、向かいの部屋に、入寮、する、ことになりました……ろ、鹿苑寺恚……と、いう者……です」
しどろもどろになりながら、何とかそう切り出した。
それからこう続けた――王立音楽学園のヴァイオリン科に編入するため日本から来たこと。男子寮が定員のためやむなく女子寮へ入ることになったこと。
僕が早口で説明している間も、彼女は舌なめずりをしたり、長い睫毛を蝶の羽のようにはばたかせたり……無言で僕の顔を見つめている。
「じゃ、じゃあ、そ、そういうわけで……失礼します――」
挨拶を終えた僕が逃げるように引き返そうとすると、だが彼女は急に口を開く。
「……弾いてよ」
「……は、はいっ?」
「……弾いてよ。ヴァイオリン科なんでしょ。私は伴奏科よ。名前は、レウィシア・フェロン――」
甘い吐息を洩らすような囁き声。
ASMRでもないのに、脳がドロドロに溶かされそうだ。
……いや、ていうか、弾けって、ここでっ!?
「で、でも、ヴァイオリン、持ってきてないですし……」
僕が言い訳をすると、彼女――レウィシアさんはクスっと笑う。
「向かいの部屋でしょ。そう言ったじゃない」
……確かに。
五秒、いや十秒で取って来れる距離だ。
「弾いてよ。挨拶なんか要らないわ。ここでは実力がすべてよ」
「は、はぁ……」
「男女が愛し合う時と一緒よ。あなたがどれだけ私を気持ちよくさせてくれるのか、それだけが知りたいの」
……えっと、これヴァイオリンの話だよな?
下着姿の女の子に言われると、何だか違う意味に聞こえるけど……。
僕は冷や汗をかきながら、向かいの自分の部屋にヴァイオリンケースを取りに行った。
戻ってくると、サキュバス――もとい、レウィシアさんの部屋のドアは全開で、彼女はベッドの上に座っている。
「どうぞ、入って――」
「し、失礼します……」
招かれるままに足を踏み入れたそこは、パンツやブラジャーやスカートなどがあちこちに散乱した、目のやり場に困るような空間だった。
レウィシアさんはベッドの上で股の間に手を挟み込むようにして、挑発的に言った。
「……さ。気持ちよくしてよ。あなたのヴァイオリンで」
き、気持ちよくって……一体どうすれば……ん?
【
レベル:89
TS防御度:8700/8700
AS防御度:8800/8800
ちょっ……!? な、なんでバトルのフェーズなのっ……!?
僕はわけのわからない状況に混乱しながら、ケースからヴァイオリンを取り出し、調弦を始める。
「な、何を弾けばいいですか……?」
「そんなこと聞いちゃダメよ。セックスするときに『何をしたらいいですか』なんて。私はただ快楽を貪りたいの。何をするかは、あなたが決めてよ」
……えっと、だからこれ、ヴァイオリンの話ですよねっ!?
セックスの話じゃないですよねっ!?
困惑していると、レウィシアさんは続けた。
「……わかったわ。じゃあ、『愛の挨拶』にしてもらおうかしら。おあつらえ向きでしょ」
……おあつらえ向きの意味がよくわからないけど、レウィシアさんに舌なめずりをされながら見つめられたら断れない。
ただ、残念ながら僕はその曲を知らない。
(……愛の挨拶? ……なんだそれ?)
ここは【らくらくヴァイオリン】に任せるしかない。
戸惑う僕の視界に、
「『Salut d'amour』をオート演奏しますか? はい・いいえ」
表示が現れた。……この曲で合っているだろうか? 半信半疑のまま「はい」を選択。
毎度のことながら、いくらフルオートに設定されているとはいえ、知らない曲を演奏するというのは奇妙な感覚だ。
僕は弦の上に弓を滑らせながら、(へぇ、こんな曲なんだ……)と自分で聞き惚れてしまう。
ゆったりとした伸びやかな旋律。まるで感情たっぷりに歌い上げるように。
……なるほど、「愛の挨拶」という題名の意味は、何となくわかるような気がするなぁ。
技術的にはそんなに難しくないけど、ポジションチェンジは結構頻繁で、フラジオレットのような技巧も幾らかちりばめられている。
(なかなか味わい深い作品だなぁ……)
などと考えているうちに、あっという間に両腕の動きが止まってしまった。
……えっ?
一瞬フルオート演奏がバグって止まったのかと思ったけど、どうやら違うらしい。もう曲が終わったみたいだ。二分足らず……いや体感的には一分もない。
……こんなのでよかったのかなぁ?
弓を下ろしながら恐る恐るレウィシアさんに目をやると、
――『OVERKILL』!!!!
【
レベル:89
TS防御度:0/8700
AS防御度:0/8800
……とっくにカタがついていた。どうやら無事に彼女の琴線に触れたようだ。
僕はホッと安堵のため息をつく。
(よかった……)
王立音楽学園の生徒の前で弾いた、初めての機会だった。
もし通用しなかったらどうしようかと思ったけど……。
僕はそそくさとヴァイオリンと弓をケースにしまい、それからレウィシアさんに「これからよろしくお願いします」とだけ伝えた。
「じゃあ、僕はこれで……」
そう言って部屋を出ようとした、だがその時だった。
「待って――」
ふいにレウィシアさんの白くしなやかな手が、僕の服の裾を掴む。
「……はい?」
僕はドキッとして振り返る。
さっきまで陶器のように白かったレウィシアさんの顔が、いつの間にか赤く上気していた。
そして匂い立つようなフェロモンを全身から振りまきながら、上目遣いで僕に言った。
「こんなに気持ちよくしてくれたの、あなたが初めてだわ♡」
「……は、はいっ!?」
「ケイのヴァイオリンを聴いてたら、ガマンできなくなっちゃった♡」
言いながらレウィシアさんはあろうことか、僕の上にのしかかってきたのだった。
……ちょっ!?!?
仰向けに倒れ、そのまま腹の上にまたがられ、僕はパニックになってしまった。
「……レ、レウィシアさんっ!?」
「私、才能のある男性を見ると、どうしても欲しくなっちゃうの。あなたの、白くて、熱い――」
「……し、白くてっ、あ、熱いっ!?!?」
突然、僕のズボンの中に滑り込んできた冷たく柔らかな手。
「私、
――サキュバス。
……なるほど、どうしてあんなふざけたルームプレートが飾られていたのか。
どうして"サキュバス"などと綽名されているのか。
僕がその二つ名の意味に気づいたときには、時すでに遅しだった……。
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