聖職者 4
かさりと小さな紙が擦れる音を微かに出して、男はそのざらりとした藁半紙を開いた。メモと言うよりは少し大きめのその紙は、男の両の掌から少しはみ出している。スタンドライトの光が、その紙を背後から照らし、何が書いてあるかが、骨董屋にいた時よりも、はっきりとわかるようだ。
――やはり、これはあの時の……なぜ、こんなものが、あの骨董屋の戯曲集に挟まっていたんだ……。でも、そんなことよりも、これがあの時の私が作ったプリントだということは間違いないことだ……
男は、しばしその紙を手に持って開いていたが、ふと、その紙をスタンドライトのそばに置き、先ほど帰ってきた時のままにしていた鞄に手を伸ばした。
――そういえば、あの戯曲集……。あの戯曲集は昔私が持っていたものと同じじゃなかったか……?そんなわけはないけれど……。もうとうの昔に捨てたはずだ。同じ題名の本ということだ……が。
そう思いながら男は、黒い合皮でできた
――や、やっぱり、さっきは気がつかなかったが……。私が昔使っていたものに、そっくりじゃないか……? まさか……な?
そう思った瞬間、男の視界がぐにゃりと歪み、男は一瞬目を右手で覆った。
――目眩が……
そして、男が、ゆっくりと右手を顔から離すと、そこは、さっきまでいた男の部屋ではなく、男にとっては長いこと離れていた、体育館のステージの上だった。備え付けの重い緞帳は閉まり、ステージライトが白くその場を照らす。そのステージの袖にある真っ黒なグランドピアノに真っ黒な皮の鞄を置き、男は立っているのだった。
――え? ……これは、なんだ……? 夢か……?
「先生、おはようございます」
「あぁ、おはよう。えらいな、今日もみんな集まってきているな。さぁ、もう時間だ。始めようか」
――あ、れ……? 私はなんで喋ってるんだ? 勝手に口が動く……
男が不思議そうに、昔の自分を追体験していると、息を切らしながら、誰かがステージ脇の階段から駆け上がってくる音が聞こえた。男は音の聞こえる方を向く。そこには、全速力で走ってきたのだろうと想像できるほど息を切らしながら、放送室の横にある階段をのぼりきった女生徒が見えた。そして、暗がりの中、男のいるステージ袖に駆け寄って、男の近くに着き、膝に手を当てながら、下を向き肩で息をしている。
――こ、これはあの時の……
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、せ、セーフ……はぁ、はぁ、はぁ、先生、セーフ?」
ステージの上にいる男は、女生徒の方を見向きもしないで、厳しい声で答える。
「レイコまた遅刻。三分遅刻だ」
「はぁ、はぁ、はぁ、だ……だって、はぁ、はぁ……。昨日怖い夢見て寝れなかったんですよぉ。はぁ、はぁ、はぁ」
――そうだ。彼女、レイコはいつも遅刻気味で……。この時は確か、文化祭の練習で、朝練をしていた時だ。一分でも遅刻したら、練習に参加させないって発破をかけていた時期だった。
男は、女子生徒を無視するように、他の部員たちに、指示を出す。
「部長が遅刻して練習に参加できないから、代役で行くぞ!」
――あぁ、そんなことを言わなくても良かったはずなのに、私は……、若かったんだ……。厳しくすることが指導だと、思い込んでいた……
「先生、すいませんでした! お願いします! 練習に参加させてください……!」
「ダメだ。約束だ。もう遅刻しないように気を付けろ。お前は今日はもう演劇部員じゃない、どっか行ってくれ。練習の邪魔だ!」
――胸が苦しい……。可哀想に、レイコはこの時、色々と事情があったのに……。その事情も聞かずに私は……
女生徒は必死に食い下がるように、男に懇願する。それもそのはず、中学三年最後の文化祭で、この女生徒は部活を引退しなくてはならない。しかも、彼女はこの最後の舞台で上演する演目の主役なのだ。これ以上、練習に参加できないとなると、役を下され、そのまま引退することになってしまうであろう。
「先生! お願いです! 練習に参加させてください!」
「ダメなものはダメだ!消えてくれ!みんなの迷惑だ!」
と吐き捨てた男は、他の部員たちがいるステージへ向かいながら手を叩き、
「さぁ、代役はいつものようにヨウコがやってくれ。もう本番もお前の方がいいかもしれない」
などと言いながら、女生徒の存在自体をその場からないものとして消し去った。顧問である男に、消えてくれときつく言われ、背を背けられた女生徒は、下を向き泣きながら、とぼとぼと、暗闇の中へと消えて行ったのだった。
――あぁ、なぜあんなひどいことを……。消えてくれだなんて……
男の目から涙がこぼれ落ちる。ステージの上で生徒たちに指導し始めた男は不思議そうに、その涙をさっと指で拭い、不思議そうな顔をして、そして、それを誰にも見られないように、ごまかしながら、また袖のグランドピアノの方へと向かって歩いていくのだった。
――胸が締め付けられる……。なんて、可哀想なことをしていたことか……。でも、それだけじゃない。私は……私は……。
男が違う思い出を思い出し始めると、また視界がぐにゃりと動いたのだった。
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