聖職者 3
男は、脇に嫌な汗をかきながら、車を走らせ、自宅へと帰ってきた。そして、誰にも会わないように、急いで自室へと向かい、その部屋の戸をぴしゃりと閉めた。
――焦って持って帰ってきてしまった。
男は、鞄を書院机に置き、よろず屋うろん堂で胸元に隠した紙を、恐る恐る着物の胸元より取り出した。
――何でこんなものが、あの本に挟まっていたのか……
男は、そのざらりとした、懐かしい感触の紙を広げようとするが、胸の痛みに耐えきれないような
――ダメだ。胸が苦しい。少し、落ち着かねば、向き合うことがきっとできない……
男は、よろっと立ち上がり、ふらつく足取りで、着物を脱ぎ、衣紋掛けへと雑にかけた。そして、
――思い出してしまった……ずっと、なかったことにしていたことを……
男は顔を歪め、そう思いながら、部屋着に着替えた。そして、空気が抜けて萎んだ風船のような身体をなんとか動かして、茶の間へと夕飯を食べに向かって行ったのであった。
茶の間では、すでに夕食の準備ができていたらしく、男は、自分の座る場所に、はらりと力なく座った。
――あぁ、なんてものを見つけてしまったんだ……
そこへ、男の妻が湯呑みにお茶を入れて持ってきた。男の妻は、夫の様子がなんだかおかしいと感じたのか、
「お父さん、どうしました? 顔色が悪いですよ?」
と心配そうに声をかける。どう見ても、男の顔からは血色が抜け、様子がおかしいと誰でもすぐに気づくほどだ。だが、男は、自分の妻に悟られまいと、すぐさま平常な振りをして、
「なんでもない、ちょっと疲れが出ただけだから」
と言った。男の妻は心配そうに、湯呑みを座卓に置いて、
「あんまりお疲れなら、明日の
と聞いた。
――そうか、レイコ、確かそんな名前だった……
男は顔を歪めながら、湯呑みを手にする。男の妻は夕飯をとりに台所へと向かっていく。ひとりになった男は、心の中で噛み締めるように、思い出していた。
――そうだ……。同じ名前だ……だから余計に忘れてしまいたかった……
男の妻が、肉じゃがの入った陶磁器の器を持って戻ってくると、座卓に起き、男の顔を見て、また、
「お父さん? 本当に大丈夫ですか? 顔色がやっぱり良くないですけど?」
と聞いた。男は、力なく湯呑みを手で包みながら、少しだけお腹に力を入れて、
「あ、あぁ、大丈夫だ。明日だよな。予定通りで、大丈夫だから」
となるべく普通に聞こえるように言った。男の妻は、少しだけ安心したのか、嬉しそうな笑みを溢し、
「そうですか? では、予定通り、麗子たちと一緒に戌の日のお参りに参りましょうね。なんだか嬉しいですわね。念願の初孫ですもの」
と言いながら、また台所へと消えていった。男は、また額を歪め、
――そうか……。初孫……。あの子ももうそんな歳になってるはずだ……
と思った。そして、味のしない夕飯を食べて、また、自室へと戻っていくのであった。
男は自室に戻り、部屋の電気をつける。が、気分の悪い男は、蛍光灯の白い光が目に染みるのか、書院机に置いてある小さなスタンド電気をつけてから、その部屋の蛍光灯を消した。
――目を背けて生きてきた……。忘れてはいけないことなのに……でも、忘れていないと、生きてはいけないほどの罪だ……
男は、しばらくそのまま動かずに、苦しそうに項垂れていたが、そっと、自分の腹の前にある机の引き出しに手をかけ、ゆっくりと引き出した。
――向き合わねばならぬ罪ということか……。向き合わなくてもいい罪などないというのに……なんて勝手なんだ。俺は……
そして、机に肘をついて顔を両手で押さえ、呼吸を整えるのであった。そして、
――もう忘れて生きていくことはできない。
と、意を決して、その引き出しの中の、ざらりとした紙を取り出したのだった。
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