お母さん
母を偲ぶお茶会が終わった。なぜだかわからないけれど、恥ずかしいほどに泣いてしまった私に、あらまぁ、これはもう洗いに出さないとねなどと、先ほどまで一緒にお茶室にいた母のような方々が話しかけてくる。
――あぁ、涙の跡が、
母の大切にしていた着物なのに、申し訳ない気持ちになった。その人たちの言った洗いとやらに出せば元どおりになるのだろうか。
「絵里ちゃん、お茶の世界っていいでしょう。あなたもやっと分かったでしょ」
遥子おばさんがいつの間にか隣にいて、私に話しかけてくる。でも不思議と、お茶会の前のような嫌な気分にはならないのは、あの時間を共有したからだろうか。
「お姉ちゃんを偲ぶにふさわしいお茶会だったわね。私も感極まって、泣いてしまったわ。もう、これからまだ行くところがあるっていうのに、これじゃぁ、もう一度お化粧しなおししなきゃだわ」
と、目尻を指で引っ張りながら遥子おばさんが言う。おばさんはこの後の食事会には行かないのか、と思っていたら、そう思ってるのが顔に出てたのか、
「私はこの後京都だから、絵里ちゃんは私の代わりにお食事会に出てから帰りなさいな」
と、遥子おばさんに言われた。おばさんはこの後の食事会には行かないのかと尋ねると、
「そうよ、私はこの後京都で友達のお祝いパーティー。だから今日はご無礼してこのお着物なのよ。浮いてるでしょ、私だけ。そう思ってたでしょ絵里ちゃん」
と図星なことを言われてしまった。これも顔に出てたのだろうか。
――思ってたよ。一人だけ派手だと。
「図星っていう顔ねそれは。ふふっ。今日はね、学生時代の友人の受賞パーティーなのよ。京友禅の経済産業大臣賞を友達がとってね、これもその友達のものなんだけども」
ものすごく高そうだと思っていたが、まさかおばさんの友人のものだとは思ってもみなかった。そんな友人がまさかおばさんにいるとはとも。いけないまた顔に出してしまうかもと咄嗟に思い、
「すごく、お高そうなお着物ですものね」
と言ってみた。遥子おばさんは嬉しそうに笑って、
「そうよ、お高いわよ。でも、お高くても、彼女の命がこもった作品なのよ。だからどうしても欲しくて奮発して買ったのよ。パーティーがたまたま今日と同じ日になっちゃったから、しょうがなくて今日はこれを着てきたの。でも、きっとお姉ちゃんも喜んでくれてる気がするわ。彼女が女性ながらに職人の世界で頑張ってるのをお姉ちゃんも応援してたから」
そうなのか、全然そういうことは知らない。私の知らない母の世界だ。
「あなたも今度京都へ連れて行ってあげるから。一緒にお姉ちゃんが好きだった世界を巡りましょうよ」
「あ…、はい、…ぜひ、」
「お姉ちゃんは私と違ってお母さんの、あ、あなたのおばあちゃんね、お茶の教室を継ぎたくて色々と若い頃から勉強していたんだけどね、結婚してから子育てに追われちゃって、そのうちにあれでしょ、ほら、あなたのお父さんが一時期ちょっと荒れてる時があってさ、お姉ちゃんも鬱になりかけた時もあったけど、あら、ふふっ、なんでそんなことあったんだ、みたいな顔して聞いてるのよ、ふふふ、知らなかったの?」
「あ…、はい。知りませんでした。夫婦仲は良くないと言うか、父が母にひどいことを言ってる横暴な人だとは思ってましたけど…」
「そうなのよ、横暴そのものだった時期があったわ。あれは酷かった。でも、夫婦って、いい時の思い出も胸にあるのよね、恵子ちゃんやあなたが生まれてからしばらくは専業主婦で子育てでってお茶のことなんて忘れくるらいだったし、あなたのお父さんもその頃は協力的だったしね、きっと幸せな時間だったのよ。だから、耐えることができたんだと思うんだけど、心は裏腹に辛かったみたいでね。実は、カウンセリングにも一時期通ってたのよ」
――カウンセリング。あの温和な母が!?
「そうだったんですか、全然知らなかった。親の仲が悪くて、居心地の悪い家で、早く家から出たくて東京に行ったので」
「そうそう、その後くらいからかな、急にあなたのお父さんが心を改めてくれたみたいで、なんて言ってたかな、ふふっ、思い出した思い出した。あのね――」
遥子おばさんが言うには、父がある日、綺麗なワイングラスを買ってきて、これまた横暴な態度を母にとったかと思うと、次の日また同じワイングラスを持ってきて、一緒にワインを飲もう、今まですまなかったって謝ったことがあったという。びっくりしすぎて急にどうしちゃったんだろうねと、まるで少女のように頬を染めて嬉しそうに母が語っていた事があったそうだ。
――そんなことがあっただなんて。
ずっと仲が悪いというか、父に押さえ込まれてるかわいそうな母だと思っていた。ある時からお茶を再開してその後、お茶の先生になったのは知ってるけど、でも、夫婦の関係としてみると、母が癌になったから、父は母を大切にしはじめたんだと思い込んでいた。あの二人は本当は仲が良かったのか。
「夫婦には、夫婦にしかわからないことがあるのよ。ふふっ。まだまだ青いわね。というわけで、私は子供がいないし、恵子ちゃんのところは男の子しかいないし、お姉ちゃんは、あなたが結婚した時に、もしも女の子が生まれたら、またこの世界を継承していけるかもしれないって、嬉しそうに言ってたのよ」
それで、この人はいつもあんなことを私に会うたび口にしていたのか。
――孫の顔を見せてあげられたら良かったのに……
知らないことだらけだと、何にも分かってなくて、ごめんなさいと、私の目からまた涙が溢れ始めてしまった。
――お母さん、私、私、もっとお母さんと話をしたかった。もっともっと、お母さんのいろんな人生の話、知りたかった。
とめどなく涙が溢れてくる。もうこの世にはいないのに、もう話せないのに、でも今になって、もっと話をしておけば良かったなんて、もうできないのにと、後悔の涙が次から次へと、熱をおびたつぶとなって、私の頬をながれていく。
「あらあら、もう、そんなになったら、もっとお着物が汚れちゃうわよ、ほらほら、」
柔らかいハンカチがどこからともなくやってきて、花田先生や、先ほどまで一緒にお茶室にいた人たちが、いつの間にか私の周りにいることに気づいた。なんだろうか、私はたくさんの母に囲まれているような気分になり、さらに胸が苦しくなって、柔らかいハンカチを持った手で顔をぎゅうっと抑えた。じわりじわりと涙が吸い込まれていくのがわかる。
――これがお茶の世界なのよ
母のささやく声が聞こえ、しばらくそうして、優しいハンカチに包まれていると、
「はい、もうその辺で。これからお食事なのに、涙の味しかしなくなっちゃうわよ。これ以上私も泣かせないで。お出かけできなくなっちゃうじゃない」
と、遥子おばさんも涙声で私に言い、そしてさらに、
「お姉ちゃんの作戦通りね」
と付け加えた。
――え、作戦って?
ふふふ、ふふふ、ふふふ、私の周りから微笑む声が聞こえてくる。
顔から手をそっと離す。ぼんやりと滲む私の瞳には、紅を増した紅葉が浮かびあがる幻想的な庭園のなかで、たくさんの母たちが、私を見つめて微笑みかけているのが見えた。
そして、ようこそここへと、私をさらなる世界へ導いてくれたのだった。
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