お茶杓

 意識をなくしながらも、お道具の拝見とやらが終わり、最後まで進んだらしいお茶会は、やっと終わろうとしていた。なんとか乗り越えた。よくやった私と褒めてあげたい気持ちにさえなっていた。が、またもや、それは私の勝手な思い込みで、さっきとは違う新しいお菓子が運ばれてきたのであった。


 正直、もう、足も痺れすぎて、感覚をなくし、これは苦行でしかないと思った私は、母や姉が言った前の人の真似をすればいいだけという言葉に従いなんとか乾いた甘いお菓子を食べて、また新しいお茶が自分の順番にくるのを待つ。


 ――足の感覚がない。もう早く終わって欲しい。早く、早く、早く!


 痺れを通り越して、もう自分の足がどこについてるかもわからなかった。もはや私の足はこの世から消え去ったと思うほどにその存在を感じることはなかった。途中涼しげな顔をして異国の言葉を話すお隣の人が、足を崩しても大丈夫ですから無理はしないほうがいいですよ、粗相があってはいけませんからと言ってくれたけど、意地でも乗り越えてやると思った私は、大丈夫ですと言って絶対に正座を崩すことはなかった。絶対この場を乗り越えてやると決めたのは、似たもの同士なあのおばさんに笑われるのはもう嫌だと思ったからだと思う。私はあなたみたいに無神経じゃない。あなたと私は違うと、心で呟きながら耐える。


 ――あんたなんかと似てない。私はそんな無神経なやつじゃない。私はそんな見た目だけの上っ面の見栄の塊じゃない。きっと、もう私はそうじゃないはず。


 でも、そう思うけれども、その当人のおばさんは平気な顔をして正座をして、周りの人と意味不明な異国の言葉を話すのだった。それが私の心の中の火に油を注ぎ、絶対に足を崩してなるものかと、その思いはさらに私の意地をかたくなにしてゆく。


 そうこうしているうちに、私にも見慣れたお抹茶が届き、見様見真似で所作をこなして、最後の人がお茶を飲んで茶碗を返しはじめた時に、これでやっと全てが終わったかとほっとした。あぁ、やっとこの重苦しい世界から解放されると思った。しかし、そう思った直後に一番先頭に座っている人が、


 「御棗おなつめ、お茶杓おちゃしゃくの拝見をお願いいたします」


 と言った。


 ――え? まさかまだあるの?


 絶望とはまさにこのことか、まだあるのかと、その先頭に座っているお正客とやらを睨みつけたい気分になったけれど、今日はお母さんを偲ぶお茶会だったと、恨み節を握り潰す。もう脳内で繰り広げられる私の独り言は、私の母はなどと浸っていれるようなものではない。私のお母さんは、で充分だと思っている。


 ――お母さん、私は無理だ。でも、あいつはこれを楽しんでいるのか。


 忌々しい会うたびに子供はまだなの? と聞くおばさんのことを思いながら、花田先生の方をみて聞いているふうを装っていると、まぁ、やっぱりですよね、そう思いましたなどと、声が茶室にいくつか漏れて、鼻をすする音や、手で目尻を撫でる人も現れはじめた。


 ――え、今そういう場面だったのか?


 と思う私は、本日のお正客を務める母と同じくらいの年齢の人の声に急いで耳を傾け始めた。


 ――なぜ、みんな泣きはじめているのか。


 「千代の重ね、本当に、いつも節目の時には、このお茶杓を入山先生はお使いでしたわよね。本当に、先生はいつも、深い愛で、こうして八千代に時を一緒に重ねて行きましょうと、そう、いつも私たちに――」


 お正客の方がそういい言葉をつまらせると、私以外の人たちがさらに感極まっている感情の波が茶室全体に広がっていくのがわかった。そして目には見えないけれど、確かにここに存在するその感情の波動は、なぜそうなったかの意味がわからない私の鼻腔を刺激し、身体の奥深くまで入り込み胸を締め付けてくる。


 ――なんなんだろう、この感情は、


 深い胸の奥から、さぁ、もういいから、こわばらず、身を流れるがままにゆだねなさいな、と、言われたような気がした。


 「本日はお床のおかけ物からお茶杓のご銘に至りますまで、入山先生を偲ぶお茶会にふさわしいお取り合わせで、まるで先生がこちらにいて、一緒にお茶をいただいているような気分でございました。誠に、ありがとうございました」


 お正客の方が涙ながらに言ったのが聞こえた時には、私の目からも、もうためておくことができなくなった涙がじわりじわりと滲み出していた。何がなんだかわからないし、足は痺れて感覚がないしで、早く終わって欲しいとあんなにも思ったのに、なぜなんだろう、涙が溢れてくる。


 ――なんだろう、この気持ち、湧き上がる熱い何か、お母さん、私はどうして泣いてるの?


 ――これがお茶の世界なのよ


 身体から意識が離れ、もう自分を形作るものはないような気がしてきた。ただただ、私という魂だけがここにいて、もうこの現世に体を持たない母が私を抱きしめている気がする。


 ――お母さん


 ここはもしかしたら、この世でもあの世でもない別次元の場所なのか、だからお母さんをこんなにも近くに感じているのか、私は迷い込んでしまったのか、どこかここではない何処かへ。


 ――ようこそ、こちら側へ、また会えたわね、絵里ちゃん。


 母の声が聞こえる。優しくあたたかく、全てを包み込んでくれる強く清らかな母の声が。母に抱きしめられて、母の声があたたかく胸の奥に響いて染みてゆく。さっきまで早く終わって欲しいと思っていたのに。


 ――お母さん、これがお茶の世界なの?


 大粒の涙がとめどなく流れ落ち、その全てを、この場所が受けとめてくれているような気がした。この古いお茶室の中で、今の私が感じているような瞬間がどれほどあったのだろうかと思った。京都から移築された、古いお茶室。悠久の時を経てもなお、受け継がれていくこの世界の中で、私もまた登場人物の一人として、ここにいていいのだよと、そう、母が優しく語りかけているような気がした。


 ――これがお茶の世界なのよ


 母の声が、私の全てを優しく包んでくれた気がした。


 

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