お茶会
京都から移築されたという数寄屋造りの古い建物に入ったところで、花田先生は、それでは私はこちらで。と、お茶会の用意に戻って行った。
もしかしたら花田先生は、茶道のことを何も知らない私に気をかけてくれたのではないかとふと思った。母の一番弟子の花田先生なら、それもあり得る話だと思った。お茶会の主催者なんだから、今はとても忙しい時間だろうに。おもてなしの心を大切にしていた母と花田先生の優しさが重なり、また目頭が熱くなりかけた。
――だめ。まだ何にも今日は始まってないのに、さっき言われたばかりじゃないか。
荷物を受付で預かってもらって入った待合では、母の茶道教室にゆかりのある方々が既に何名か入って談笑していたが、私は母の教室には通ったことがないので、そのほとんどは知らない顔だった。ただ一人を除いては。せっかくさっき花田先生がさりげなく引き剥がしてくれたのに。こちらに顔を向けてくれるなと、そんな呪いがあるなら使ってみたいと思うほどもう関わりたくなかった。
このままいけば私は母の娘だと、似たもの同士の遥子おばさんから紹介され、またあの話をふられる気がした。早くお茶会が始まればいいのにと心から願った。本格的に習ったことはないけれど、まだ母が生きていた時に、少しだけ母の実家にあるお茶室で教えてもらったことがある。
結婚するまだ少し前、
――お客様、と言ってもお正客ではないお客様なら、自分より先の人の真似をすれば大丈夫だからね。
母はそう言って、茶室でお茶を点てて、治さんと私にお抹茶を振る舞ってくれた。母の無駄のない動作の中に揺れる湯気の幻想的な美しさは、まだ私の深いところに写しとられている。あれはこの世ではない世界だったのではないか、あの不思議な空気感は、それまで私が生きてきた中では感じたことのない世界だったような気がする。
神聖な母の記憶に浸っていると、急に待合の人々の話がやみ、静寂が訪れる。なんだか緊張感のある空気が漂っているなと思って息を潜めていると、鈍い金属を叩くような音が何度か聞こえ始め、あぁ、これが母から聞いた
――お茶室の準備が整いましたので、どうぞお入りくださいという合図なのよ。この音が鳴り始めたら、お喋りはおしまい。心は静けさを取り戻し、そして、これから始まるお茶事へと意識を向けていくの。
確かそんなことを母が言っていた気がする。良かったと思った。これでもう、余計な世間話は今日はおしまいだと、私の心も静けさを取り戻し始めた。本来ならお茶会は会席料理をいただいてから始まるらしい。けれど、今日は特別にお食事は私以外を除いてのメンバーで、この庭園内にある懐石料理屋さんへ早めの夕食として行くことになっていた。時間を気にせず、母の話をしたいからだと聞いている。
もちろん私にもその案内は来たが、知らない人ばかりだしと、食事会は不参加にした。母は悲しむだろうか。娘は話に入らないのかと。私の思い出話を聞きたくはないのだろうかと、思うだろうか。流れるようにそこにいた方々に続いて、お茶室に向かいながら私はそう思っていた。
お茶室の手前の古びた
――お母さんの嘘つき。全然簡単じゃないよ、作法、見て真似れば大丈夫って言ってたけど、何も見えないよ。
「大丈夫よ、あなたがお茶を知らないことくらいみんな知ってるんだから、無礼講でお入りなさい」
と声をかけられた。最悪だ。私は瞬間湯沸かし器のように耳が熱くなるのを感じたけれど、でも、そうはいっても知らないものは仕方ない。小さな声ですいませんと言って、茶室に入った。私の最後の人が私の目の前をすぅっと通り過ぎ、掛け軸の前で座ってお辞儀をし、次に立ち上がって移動し、また座って今度はお釜の前でお辞儀をしておかまを静々と眺めた。そうか、なんとなくそんなこともやってた気がするなと思い出してきた私は、こんなことなら、もっと事前に姉に聞いておけば良かったと自分の無知を恥じる。
――お母さんごめんなさい。準備不足でお母さんの顔に泥を塗っています。
私がそんなことを思いながら顔を熱らせている間、先に入った方々が、小さく、まぁ、さすがですね、これ入山先生のいつもおかけになっていたものですわねとか、先生はああでしたものね、こうでしたものねなどと、話す声が聞こえたが、無知で馬鹿な娘の私には、どこか別の国でもきたかのようで、遠い異国の言葉のよう聞こえた。
花田先生がお茶室に入り、ご挨拶をするも、私はそれも全く意味がわからず、とりあえずは、母を偲んで今日はお茶会をいたしましょうということくらいは理解できた。
花田先生がお茶室を出ると、漆で塗られた箱を持って姉が現れた。私と違い姉は母に茶道を習っていて、今日は裏方で動くと聞いている。東京からこの地元に戻ってくるまで、私はそんなことも知らなかった。年が離れている姉妹というものはそういうものかと思った。今は仲が良くても、その全ては知らない。
溶け込むようにお茶室に入ってきた七つ年の違う姉は、母から譲り受けた紫紺の家紋がひとつ入った地味な着物を着ていた。母を偲ぶ茶会だから、主催者側は少し地味にしているのかと思ったが、よく見ると茶室に入ってるお客様も、一人を除いて少し落ち着いた色合いのお着物で参加されていた。そういえば私もだ。
今日私が着てきた着物は姉が選んでくれたものだった。お母さんがこれを着るときっと喜ぶと思うわよと言って、選んでくれたもの。そうかと、やはり、姉は母のことを私より知っていると、少しだけやきもちのような感情が湧いた気がしたが、そんなことを悠長に考えている場合ではないとすぐ意識を戻した。
――いつお菓子を食べるんだったかな、よく覚えてない。お母さん、もっと強くあなたもやればいいって勧めてくれたら良かったのに。
でもそういう人ではない。押し付けてくるような人ではなかったと思い直した。興味が湧いたらねと言っていたはずだ。
――興味を沸かせなかった私のバカ。もう遅いけど。
そんなことを脳内でもう一人の私と話していると、花田先生が何かを持って入ってきた。あぁ、あれは確か、「
まるで記憶の中の茶室の母をそのまま見ているかのような花田先生のお手前が始まる。流れるような動き、美しいふくさ捌き。花田先生の手が、その指が動くたびに、物語が始まるような、心が紐解かれてゆくようなそんな気持ちになる。
――お母さんがまるでここにいるみたい。あの時と同じ、湯気が命を得たかのように動き、ここではない何処かへ連れて行ってくれるみたいだ。
だが、感傷的に見惚れて胸が熱くなる反面、着物に慣れていない私は、初めてのお茶会ということもあってか、緊張と慣れない正座ですでに体をもじもじと動かしたい気分になっていた。
お隣からまわってきたお菓子をなんとなく見様見真似で懐紙にとって、銀の爪楊枝みたいなもので切って食べる。
――お菓子を食べてから、お茶を飲む。確かそうだったはずだ。でもどうやって食べる?
お隣の人を見たらこんなに大きな和菓子なのに、さくっと二つに切って、バクっと食べている。
――前の人と同じことをしたら大丈夫よ。
確か母はそう言っていた。姉も。よしと、ほんのり中の餡が透けて見えるような可愛い和菓子を切って、バクっバクっと二口で食べた。ほんのりゴマの味がして、美味しい。
――美味しい、ほんのりと、胡麻の風味。でも、まだこっからなんだよね。これからまだお茶を飲むんだから。
私の足はすでにものすごく痺れている。お茶会はまだ始まったばかりである。
どうやら、前の人を観察すると、三人目までお茶をまわして飲み、その後お茶碗を返している。それからは多分新しいお茶がやってくるらしい。私はお正客から数えて五番目。まだ先は長いなと小さく体を少し揺らした。ここまでくるのに、もう1時間以上経っている気がする。長い。長すぎる。時計がないから確認できないけれども。
――もういい加減、終わって欲しい。ごめんお母さん、やっぱり私、茶道は無理だ。
私の番がやってきた。どろどろだけれども、お茶の旨味が贅沢なお茶を見様見真似で飲み、お隣へとまわす。いよいよ終わりは近いかと思った。が、そういえばさっきから何か花田先生と話してたような気がするお正客の人が、
「お道具の拝見をお願いいたします」
と言った。何語なのだそれは? 花田先生が一礼し、何やら準備を始める。
――え? まだ続くの? お茶はもう飲んだのに?
これは、まだ始まりにすぎないのかと悟った私は、私は身体中の全ての細胞を代弁して叫びたかった。
――茶道なめてました! ごめんなさい!
と――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます