似たもの同士

 母の残してくれた、鶯茶に絞りがさりげなく流れる着物を着て、私はお茶会の開催される「渓荘苑けいそうえん」へと着いた。ここ「渓荘苑」は、明治35年に開園され、広大な敷地には、京都や鎌倉などから移築された歴史的建造物がいくつかあり、全国的にも名の知れた観光名所である。


 ――母が最後に行きたいと言って連れてきた場所。あの日はもう少し紅葉の葉っぱにも緑が混じっていたような気がするな。


 その母はもういない。優しく、強く、清らかだった母はもういないと改めて思い、胸が締め付けられるような気がした。母ときちんと話ができるようになってからそんなにまだ経っていないと思った。母がまさかこんなにも早く逝ってしまうなんて、若い頃の私には想像もできなかった。

 

 ――お母さんはもういない。


 私は急いで澄み渡る空を見上げる。そうじゃないと、着物が汚れてしまう気がした。母の残したこの着物を、私の身勝手な涙で汚してはいけない。


 ――お母さん、もう苦しくないよね、肉体から離れ、もう、苦しくはないよね。お母さん、今日、私、お母さんの大好きだった紅葉の着物を着てきたよ。私はちゃんと着こなせていますか? お母さんみたいにはならないけれど、なんとかなってますか?


 母が茶道教室を祖母から受け継いだ時に、お祝いで父に買ってもらったというこの鶯茶の着物はとても地味な色で、もっと映えるような色がいいんじゃないかと言う父に母は、幾つになっても着れるけど、いつでもは着れないお着物が欲しかったのだと言ったそうだ。この時期にしか着れない着物。とても贅沢なこの着物。お母さん、それには少し早く逝きすぎていないですかと、吸い込まれそうな空を仰いだ。


 ――よく似合うよ。とても素敵。さすが絵里ちゃん。


 きっと、母ならそう言ってくれる気がした。


 「あら、絵里ちゃん? まぁ、それお姉ちゃんのね」


 後ろから声をかけられ、はたと振り向くと、母の妹の遥子おばさんが立っていた。そうか、今日のお茶会は母を偲ぶ意味合いもあったのだと、それならこの遥子おばさんも来るに決まっているということを、すっかり忘れていたと思った。


 ――来るんじゃなかった、とは、言えない。


 「よく似合ってるわねぇ。まるでお姉ちゃんの若い頃みたいじゃない」


 「ありがとうございます」


 「それにしても、本当にすらっとしていてモデルみたいね。そうか、あなたモデルみたいなこともしていたものね、そりゃそうよねぇ、綺麗なはずだわね」


 「いえいえ、モデルではないですよ。でも、それも昔の話ですから」


 「あら、そうだったの? 雑誌にも出てたし、私はてっきりモデルさんになったと思ってたのに。それならねぇさん良かったじゃないとりあえずは、なんて話してたこともあるわよ。ねぇ、それより素敵ねぇ、こんな場所でお姉ちゃんを偲んで皆さんでお茶会をするだなんて」


 「そうですね。なかなかない機会かも知れないですよね」


 「あら、そんな私もお茶やってますみたいな言い方、おかしいわよ、あなた全然寄り付かなかったじゃない。もう、本当、今日は着物を着て気持ちがそうなってるのね。これを機にあなたもお茶を習えばいいのよ。いいわよぉお茶は。だって、ほら、お子さんもまだなんでしょう?」


 やはり来るんじゃなかった。母の葬儀で言われた私の心の刺はまだ抜けていない。それではもう向かいますのでと言って、逃げるか。でも、向かう先は同じ。それはできないか、と、思ったが。やはりこのまま一緒には行きたくない。はて、どうやってこの無神経な母の妹を撃退してやろうかと思っていた時、見覚えのある顔の人が庭園の奥からやってきた。母のお教室のお弟子さんで、本日のお茶会の主催者、つまり亭主を務める花田さんだ。


 「あら、お久しぶりでございます、山下さん」


 はい、今日はお招きいただきまして、と挨拶をする遥子おばさんは、花田先生のお着物を褒めちぎる。まぁ、本日はとてもよくお似合いの黒紅のお着物ですこと、帯は唐織からおり松喰鶴まつくいづるでございますかなどと、さも知っている風に話しているけれど、実はそんなに博識でもなく、茶道も母と違って、形だけだったと確か聞いている。今日着ているお着物はとても豪華な淡い狐色の訪問着で、秋の七草が大胆に描かれているようだった。友禅だろうか。それくらいは私も知っている。あれは相当高いとみた。


 ――見た目だけ。上部だけ。その場だけ。そして見せびらかしたい。

 

 また私の中で何かが音を立てた。それは昔の私ではないかと、頭の中で私の声が囁く。じわりと嫌な汗が脇を伝うような嫌な感じがする。


 ――だから、昔からこのおばさんが嫌いだったんだ。自分を見ているようで、まるで似たもの同士。


 妙に納得して、心の中の苦虫を噛み潰したような味を味わった気分だった。それはどれくらい苦いのか、それはどれくらいの大きさの虫なのだろうか、そして私はどれくらい顔をしかめているのだろうか。そんなことを考えていたら、花田先生がこちらを向いて、


 「絵里ちゃん今日はお越しいただき、ありがとうございます。 まぁ、それは大先生のお着物ですよね。なんてお似合いなのかしら。大先生、見てますよきっと。きれいだわって褒めてますよ。嬉しいですね、なんか思い出して、私もうすでに涙が出ちゃいそうだわ」


 と言った。


 花田先生は、母とは長い付き合いだ。私よりもよっぽど長くて、私よりもずっと心が近い人だと思う。そんな花田先生を見て、私も涙がまた出てきそうだった。でもそれを見逃さなかった花田先生はすっと胸の隙間から四角い小さく折られた白い紙を出して、ほらほら、まだ始まってないですよ、お顔もお着物も、汚れてしまいますからこれをお使いなさいなと、私に手渡してくれた。


 花田先生の優しさが白い紙に染みていく。母の思い出も。自分の愚かさも。染みていく。


 母を偲ぶ花田先生のお茶会はこうして始まった。



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