そして女は説をなすか

 もしかして今彼が集中しているとしたら邪魔をしてはいけない。意識の深い場所へ潜っているときに外部から現実に引き戻されることで、なんとも言えない喪失感を味わうことくらい、私は知ってるつもりだ。だけど今はどうだろう。ドアに顔を近づけしばらく耳をすましてもみたけど、何も聞こえない。もしかしたら起きるのが早すぎて机でうとうと寝てしまったのだろうかと、私は夫の部屋のドアをそうっとゆっくりと慎重に音を立てずに開けた。


 ―― あぁ、良かった。起きている。


 夫は集中して仕事をした後、一区切りつくといつも両手の指でまぶたを抑える。それは、彼が意識の迷宮に潜って浮上してきた合図のようなものだと私は思っている。宇宙のような深海へと潜った鯨が漆黒の世界で獲物を見つけて生命の物語を繰り広げ、それを糧として味わい、また浮上して息継ぎをする。


 少し薄暗い部屋、真っ白い光が顔を微かに照らす海面で息継ぎをする鯨になってしまった彼のイラストが頭に浮かんできて、なんと賢そうな鯨ちゃんだろうと、可笑しくて、しばらく様子を見守っていた。


 ―― あ、少し動いた。


 彼が少しだけ身体を動かしたような気がして、私が小さな声でおはようと声をかけると、ふわっと魔法がとけて鯨は人間に戻った。


 「目が冴えて、眠れなくなってしまった」


 「そうね、知ってる」


 「何をクスクス笑ってるの?」


 「いいえ、別に、なんにも。ふふふ」


 少し寝癖のついた短いグレーヘアーが可愛くて、思わず私も自分の寝癖だらけの頭を触る。そして、今日の予定をもう一度彼に確認しようとしたけれど、それより早く彼が私に聞いてきてくれた。


 「今日はお茶会に呼ばれてるんでしょ? もう準備を始める時間なのかな」


 私は今日、昨年亡くなった母のお弟子さんが主催するお茶会に呼ばれている。母や姉と違い、私は茶道の心得がない。なんとなく、家庭の雰囲気が好きではなく、物心ついた頃から家族を避けてきた。一人、部屋で絵を描く子供だった気がする。


 これからお風呂でシャワーの予定と彼に伝えてから、彼の今日の予定を確認する。彼は今日私の父、つまり彼の義理の父に呼び出され、一緒に夕食を楽しむ事になっている。私は、彼の部屋を出て、バスルームではなくキッチンに向かい、深海から戻った賢そうな鯨人間ちゃんの目がちゃんと覚めるようにと、苦いイタリアンローストのコーヒーを淹れる事にした。


 ―― お父さん、これはきっと今日は家に帰してくれないわね。もう、私の大事な人なのに。でも、そうか、私も着替えを持っていけば、お茶会の後に合流できるわ。そうね、そのほうが気楽でいいし、治さんにお茶会も車で送ってもらえばいい。これを持っていく時にそう提案してみよう。


 三年間に及ぶ闘病の末、自宅で母を看取った父は暇を持て余すようになった。元部下であり、娘婿の彼は呼びつけるにも話に付き合わせるのにも、ちょうどいい存在なのだろう。


 もともと父の部下だった治さんを私に紹介してくれたのは父だった。


 ―― とても信頼できる部下がいる。お前もいつまでも契約社員のお一人様ではいけないだろう。会ってみないか。


 そう言われ、初めて治さんに私の実家で会った時、正直ずいぶんおじさんだなと思った。なんで父はこんなおじさんを私に紹介するのだろうと、いかがわしくも思った。私はそんなおばさんになってしまったんだろうかとも、そんな売れ残り感がただよっているのかとも、思った。


 でも、なぜ父が治さんを紹介してくれたのかが、しばらくすると私にもわかった。治さんは、その瞳の中に、夢を持っていた。私も、夢を持っていた。父はやはり、会社を経営していただけのことはあり、「人」を見る目があったのだと思った。その「人」の中に、自分も含まれていたことがわかって、私の心の中の家族へのわだかまりもその時から溶けはじめていった気がする。


 私たちは、それぞれの夢へと続く道の交差点で出会い、そして、三年前に結婚したのだった。


 母の癌が分かったのは、その直後だった。乳癌ステージⅢ。


 なかなか家に寄り付かない二十代を派手に過ごしてきた私のせめてもの親孝行はウエディング姿を見せてあげれたことだと、母の葬儀で親戚の人は言った。赤ちゃんを見せてあげれたらもっと良かったのにねと、ハンカチで目を押さえながらその横にいたおばさんが言葉を付け加えた時は、ごとりと胸の奥で音が聞こえた。


 欲しくてもできない人もいる。無神経な人は自分が無神経だという事に気づかない。私はどうだろう? どっちの人間なのだろう、そんなことも確か思った気がする。そして今も私の中には、まだ鍵を掛けたままの黒い塊がある。


 ―― いつか、いつか会えたら、会うことができたら。


 会えたら何を一体どうするというのだろう。無神経ではない自分で私はいるだろうか。無神経な人は自分が無神経な事に気づかないでいる。確かにあの時の私は無神経だったと思っている。では今の私は? 無神経だったと気づくことができたら、無神経ではなくなることができるのだろうか。


 湯気をくゆらせながらコーヒーの香りが辺りに漂う。柔らかくゆっくりと揺れる湯気の向こうに朝焼けの空が見えた。


 ―― 今日という一日が始まる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る