それはまだ小にすぎない
僕は少し疲れた目をおさえるために、眼鏡をそっと外して、胡桃の木で作ったトレーに優しく置いた。そして、自分の目頭を両方の手の指で軽く押し、ゆっくりとその瞼に押し込めて半弧を描いた。まだ目の奥に今見た景色の続きが物語を続けているようだった。湿った指先を僕の中に潜む熱がゆっくりと乾かしていくのを感じる。
「おはよ。起きるの早かったね?」
囁くような妻の声が聞こえ、僕は押し込めていた指を瞼からゆっくりと離し目を開くと妻がぼんやりと視界に入った。きっと僕に気を使ってくれたんだろう。僕のこの時間を見守るように、心の静寂をやぶることなく静かに開けただろうドアの隙間からさりげなくこちらを覗き込んでいる。眠れなくなってしまってという僕に彼女は、そうね、知ってるとクスクス笑いながら、亜麻色の短い髪を、まるで輝くふわふわの綿菓子のように揺らせながら、今いるところからするりと僕の部屋に入ってきた。
今日は出かけるんでしょ、もう準備の時間なのかなと聞く僕に彼女は、髪の毛を手でとかしながら、寝癖をとるために今からシャワー浴びてくるところと言い、その毛先を指で摘んだ。そして、にっこりと笑って、
「あぁ。お義父さんに今日は一緒に呑もうと誘われているからね」
「ほどほどに。治さんじゃなくて、お父さんがね。ちゃんと監視しててね」
もちろんさと僕は彼女に優しく言って、ふわふわ頭をやけに気にする可愛い彼女を見つめた。これからお風呂に行って綺麗にするなら、気にする必要なんてないのに。でもそれがなんだかいじらしくてたまらなく可愛かった。いっそそれなら伸ばしてしまったら? と言った事があるが、この方が乾きやすいし楽なのよといつも彼女は言い、昔は長かった事があるけれど、今はこれがいいのだとも、言った。
僕よりもひと周りも年の違う美しい妻は、じゃぁ私も急いで準備しないとと言いながら、僕の部屋のドアをゆっくりと閉めて出て行ったけれど、その足でキッチンに向かい僕に新しいコーヒーを淹れ直してくれた。
彼女の淹れてくれたイタリアンローストから立ちのぼる湯気がゆったりと僕の鼻先を撫でてゆく。どこかしら、その香りの中に可愛く優しい彼女を感じた。僕はさっきの冷たいコーヒーカップとはまるで別人の様に熱くなったカップに両手を添え、その熱を手の平で感じてひとくちコーヒーを飲んだ。
熱いコーヒーを飲みくだしながらふと、持つところがあるのに、こうして飲んだら湯呑みも変わらないじゃないかと思ったら、さっきまで浸っていた世界から少し抜け出せたような気がして可笑しかった。
今日このあと彼女は昨日僕に見せてくれた美しい姿で、さっきまでの僕の瞼の奥まではまだ到達していない未来の世界にきっといくのだろうと思った。まだ、僕が見えていない世界に。
コーヒーカップで両手を温めながら僕が見ている部屋の窓の外には、昔祖父と渓流釣りに行った先で見た、深く底が見えない淵のような空があり、そこには存在しないはずの黄金の魚が雲となって、泳ぎはじめていた。深い藍の淵から、神秘的な青へと変容し、光る魚の群れは次第に増えていく。そして、悠々と流れる川のようにゆっくりと光の範囲は広がっていくのだった。
窓の外に映る景色は僕の概念ではとても長く感じるものだった。僕の意識は、彼女が淹れてくれたコーヒーに染み込みながら、深く潜り、時に水面にあがる金の魚になって、僕に語りかけてくる。
湧き上がる物語の続きを、マグカップを抱きしめながら、晩秋は、僕が思うよりももっと早く、愛する彼女が淹れてくれた熱を冷ましていくと思った。
ゆっくりと、もうひとくち飲むと、熱はさめていたはずなのに、さっきよりも優しく僕の身体の奥へと流れ、僕の身体はあたたかくなっていくのだった。
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