美しい帯 4

 ――え? あれ? なんだこれは? 目の前が何だか歪んで見えてきた。酔いが思ったよりも強かったのかしら………?


 女は一瞬ぐらっと体を揺らせ、力なく膝からストンと畳に腰を落とした。


 ――あれ、私どうしちゃったんだろ……



 「美子さん? お稽古の最中ですよ。ぼうっとしてはいけません」


 ――え?


 「先生、この先ってどうやるんでしたっけ?」


 ――え? なんで私勝手に喋ってるの? それに、目の前にいるのは去年お亡くなりになった大先生だわ! こ…これは、…ゆ……め…?


 「はい、もう何度言っても忘れちゃうんだから。はぁ、もう、両手がお膝に乗ったら何を触るんだったのかな?」


 「えっと、おなつめ?」


 「はい、そうです。もう、あなた何年やってるのよ、さぁ、もういいわ、はい、おなつめを持って、そして?」


 ――これって、私がまだ結婚する前の大先生だ。懐かしい。まだこんなにふくよかで、お元気に私を叱ってくださっている。半ば無理やりやらされたお茶のお稽古、めんどくさくても、でも、大先生が大好きだったから、続けてこれたんだった。


 「はい、では一息ついてね、疲れたでしょう? まぁ、少し足を崩していいから。次はお客さんになって今度はお茶をお召し上がりなさいな。今日は私とあなたと二人だけだから、私がお茶をおたていたしますわね」


 「嬉しいです! 先生の点てたお茶が飲めるだなんて!」


 「お茶室で大きな声を出しちゃいけません。でも、今日は二人だからまぁよしとしますか。ふふふ」


 ――覚えてる。この日、初釜の次のお稽古日。朝から降る雪がひどくなってきて、みなさんお稽古に来られなかったんだった。私は歩いて来れるから、先生と二人だけのお稽古だった。そして、初釜にいけなかった私にとっては、この年の初釜は、この日だった。


 「さ、お正客ですからね、ちゃんとお正客のお稽古してくださいよ」


 ――先生はそう言って、私だけのために、お菓子を出して、お茶を点ててくれたんだった。紅色が薄く白いお餅に透けて牛蒡の入った花びら餅を食べながら、私は、大先生の流れるようなお手前を見ていた。


 ――しゅんしゅんと湯が沸く音だけが聞こえる小さなお茶室で、お釜から湯気が魔法のランプからでてくる煙のように、ゆらゆらその形を変化させながら天に昇りふっと消えていく。


 ――先生が湯しゃくにお釜からお湯を汲むと、そのお湯を汲んだ湯しゃくから湯気がたゆたいながら生まれ始め、その美しい流れは大先生の湯しゃくの動きに合わせ、まるでここではない何処かへ迷い込んでしまった私を導くようにゆっくりとお茶室の中を泳いだ。この世界に私と大先生だけ。湯気がご馳走だと大先生が言った言葉の意味を初めて知った時だった。


 「本日お床におかけいただきました、えっと、ええ、と、これは、虎ですか?」


 「さようでございまして、かきぞめの かみをはりこの 虎のとし くびをうごかし 指図正月 としたためてございます」


 女はその年のその女のお茶の先生とやらとの初釜の日を若かりし頃の自分の体で体験する。 そして、そのお稽古とやらが終わり、女はその女の先生が用意したという昼食を食べる。


 「先生、今日初めて先生が言ってた湯気がご馳走の意味が分かった気がしました!」


 「あら、それはよかったわ」


 「もう、先生の流れるような動きに湯気が魔法の煙みたいにくっついて動いて、すごかったです!」


 「そうね、寒いからこその景色ね、まさに一期一会ね」


 「はい! そして今日のおかけもの、ものすごく可愛い虎でしたね!書いてある言葉もよかったし」


 「ふふふ。自画自賛なのよね、それもいいかな正月だしと思ってね」


 「え? 自画自賛?」


 「えぇ、あの絵を描いた作家さんが自分で書いたのよ。本当はそういうのは自分よりも目上の人に書いていただくものなのだけれど、この方は自分でお書きになったのね、八九歳の時のお筆よ。そうやって自分が書いた絵に自分で言葉を書き添える事を自画自賛っていうのよ。知らないかしら?」


 「はい、全然、ていうか、自画自賛っていい言葉だと思ってました」


 「あらまぁ、違うわよ。でも、それも全て分かっていてこの方はそれを書かれたのね、お正月に、書き初めした紙をとらのはりこにはって、その首を揺らしながら、何を思ったのでしょうね。ふふふ」


 ――大先生、今なら私先生がこの日お取り合わせしたお道具の意味が、この時よりもずっとわかります。もう大先生に会えなくなって、それで思い出すなんて。この時の細く華奢な竹でできたお茶杓のご銘は確か、千代の重ね《ちよのかさね》。今日という日は一度しかないんだから、皆様と今年もこうして健康にお茶を楽しんで年を重ねていきましょうね、って、大先生、今なら私、きっとわかります。もう二度と大先生には会うことができない今なら。


 女の頬に涙が伝う。


 「あら、まぁ、どうしたの? お着物が汚れちゃうわよ、はい、これお使いなさい」


 「あれ? なんで泣いてるんだろう? なんか急に胸が熱くなっちゃいました。先生のお話聞いてたら、ずっと先生に教えてもらいたいって思って、それで、変ですね私」


 「そうね。人はいつか死んでしまうものね。私も年だしね。でも大丈夫よ、心の中ではきっと思い出として生きてるし、それにほら、あなたには厳しく教えてくれる先輩たちがたくさんいらっしゃるでしょ? それは私の教えた方達でもあるのだから、心は受け継がれていくものよ」



 はっと女は我にかえった。顔をあげると、目の前の姿見には、ほろりほろりと流れる涙が頬に伝う自分の姿があった。

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