第355話
陸雄と清香がアクアワールドに行く前の朝の時間―――。
錦は公園でテニスコートのあるフェンスに入り、素振りをしていた。
早朝なのでランナーがフェンスの中で素振りをする錦をチラッと見る。
そのままランナーがやる気を出して、走り去っていく。
錦が百振り目の素振りを終えて、中断する。
足元に置いてあるスポーツドリンクを飲む。
その時―――。
フェンスの手前で錦に声をかける女性がいた。
「おはよう。今日はコース変えたけど―――朝からいつもより気合入ってるね」
その声にジャージ姿の錦が振り向いて、挨拶する。
「古川さん―――おはよう」
ランナーのジャージ姿の古川に声をかける。
「錦君、いつもよりスイング多いよね。昔も休日に安定して素振りしてたけど―――」
「僕にとってはいつものことだから―――古川さんもここからランニングして来たんでしょ? 朝食の時間まであと少しだよ?」
「私も今年の四月から良く走るようになったよ。コース違ってもすれ違いで陸上部の娘に良く挨拶されるし―――それに私が走るのは甲子園に行けるかもしれないからかな?」
「…………」
甲子園に行ける―――。
去年では実現できないことが今―――陸雄達によってたどり着くかもしれない。
二人はその事実にやる気を出していた。
錦が先に口を開く。
「大丈夫―――行けなくても怪我はさせないよ」
「―――うん。ありがとう、錦君。まだそんなに経ってないから中々忘れられなくて―――」
古川がフェンス前の椅子に座り、背中を見せてドリンクを飲む。
錦はその背中に言葉を続ける。
「あれは君がやった訳じゃない―――僕も同じ中学で観客として見ていたから解るよ」
古川が黙って、ペットボトルのジュースを飲み終える。
錦は話を続ける。
「野球がそれで嫌になることもあるかもしれないけど、せめてこの年までやり終えて見ようよ」
古川が立ち上がって、振り向く。
「そうだね―――錦君は錦君で、私とは違う問題があるもんね」
「―――それは陸雄君達が甲子園に行けるかどうかで解決するきっかけがあると思う」
「気遣いありがとう。私は家までランニングして戻るよ。その後は練習後に夜に家庭教師の勉強あるから―――」
「まだ三年生じゃないけど、中だるみできないね」
「そだね。今日はここで朝の自主練習を長くするんでしょ? 錦君は家はここから近いもんね」
「受験の三年生になったら―――もう二度と行くことのない公園だから、今年最後にここで練習したいんだ」
「そっか―――錦君も来年は塾と家庭教師でしょ?」
「―――もう今年の空いた時間から家庭教師の人と勉強してるよ。時間も合わせて夜にしてくれているから―――終わったらその後でしっかり寝てるんだ」
「……二年生の夏だけど分岐点の時期だもんね……」
古川がそう言って、園内で遠くに歩いていく。
そのまま近くの自販機専用のゴミ箱にペットボトルを捨てる。
「無駄じゃなかったね―――私たちが残った野球部の時間―――」
古川が離れた距離から聞こえる声で錦に話す。
「そう……だね……」
錦が聞こえる範囲でそう答えて、バットをスイングする。
「お互いハードスケジュールだけど、野球一年間耐えて良かったね。陸雄君達が来てくれたしね―――」
「―――うん。もしかしたら甲子園に行けるかもしれない。僕も頑張るよ。朝の走り込みはほどほどにね」
その言葉を聞いて―――古川が手を振り、錦も片手で手を振る。
二人はランニングと素振りに戻る。
甲子園に行けると信じて―――二人は勉強の時間を維持しつつ自主練していた。
古川はピッチングの為の下半身とスタミナ維持のために―――。
錦は打者としてのあらゆる角度の素振りを行い―――。
錦がスイングを再開した時―――。
中学時代に出会ったある投手の姿が浮かび、それをかき消すように力強くスイングした。
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