第4話 彼

翌日出勤すると杏がさっそく声をかけてきた。

「今日からだよ!どんな人だろ!」楽しそうに声をかけてきた杏に、わたしは笑いながら「どーだろねー」と返した。そんな話をしていると、課長が背の高い細身の男性と一緒に歩いてきた。その瞬間わたしは「あ!」と小さな声をあげた。あの人だ。この間写真を撮っていた人。わたしはしばらく彼から目を離すことができずにいた。すると、彼と一瞬目があったように感じた。わたしは思わず下を向いてしまった。自分の心臓の音がうるさかった。課長が彼の自己紹介のした後、少しの間、杏に仕事を教えるよう話していた。とはいっても、他の支社からの移動なので業務内容は大きく変わることはない。杏と彼は軽く挨拶を交わした後、杏が今、抱えている仕事について説明をしているようだった。なんなんだろ。この気持ち。正直自分でも理解できずにいたが、うるさい心臓を落ち着かせるように深呼吸をしたわたしは自分の仕事へと戻っていった。


ランチタイム、杏が彼の話をしてきた。年齢、どこに住んでいるのか、趣味など、そんなたわいもない話をしたようだった。そして、一通り彼の話をした後、「今日歓迎会もかねて飲みに行くことになったら一緒に行こ!」と言ってきた。わたしは思わず「え!もう?」と声に出した。杏の話だと、最近越してきたばかりで、美味しいお店があったら教えてほしいとの事だった。わたしは「いいよー」と言いながらも、心臓がまたうるさくなるのがわかった。


定時を少し過ぎた後、わたしと杏がよく行くダイニングバーに3人で行くことにした。ちょっとした隠れ家みたいなお店で、部屋も個室ということもあり、杏と飲みに行くときには定番の場所だった。

彼と簡単な自己紹介を交わした後、みんなで飲み物を注文した。彼の名前は湊翔太、わたしより3個年下で、移動が決まってからこっちに引っ越してきたということだった。翔太は場を盛り上げるのが上手で、終始、くだらない話をしながらわたし達は盛り上がった。会社であんなにうるさかったわたしの心臓も、なぜか今は静かに鼓動を打っていた。

杏がトイレで席を立った後、翔太が「写真撮ってたよね?」と声をかけてきた。その瞬間、わたしの心臓がまたうるさく騒ぎだした。わたしは、「覚えてたんだ笑」と普通を装って返した。写真が趣味で、ほぼ毎日SNSにあげていることを話すと、翔太も写真が趣味で、わたしと同じようにSNSにあげてると話してきた。わたしたちお互いのスマホを開き、フォローし合おうとSNSを開いた。お互いのアカウント名を聞いた瞬間、お互いに顔を見合わせ笑ってしまった。翔太のアカウント名は空。すでにお互いにフォローし合っていたのだった。翔太は「すごい偶然だね!」といって驚いた様子だった。わたしもびっくりだねと言って笑ったが、うるさくなった心臓はなかなか落ち着いてはくれなかった。そんな話を一通り終えたくらいに杏が戻ってきた。「なんの話ー?」と声をかけた杏に、翔太は「他に美味しいお店あるのか聞いてた」と言って笑った。わたしもなぜか翔太の話に合わせ、一緒に笑った。「あやしー!」といって杏も笑ったが、それ以上聞いてはこなかった。その後、またたわいもない話をした後、わたしたちはお互いのLINEを交換した後、「また明日ね!」と手を振りそれぞれの家に帰っていった。


家に着いたわたしはお風呂に入りながら、今日の出来事をずっと考えていた。翔太のこと、うるさくなる心臓のこと。あの時なんで翔太は写真のこと杏に言わなかったんだろう。ずっと考えてはみたものの答えがでることはなく、わたしはもやもやとした気持ちを抱えながらお風呂から出た。ちょうどその時、蓮からLINEがきていた。わたしたちは夜に、今日1日の出来事をLINEするのが習慣だった。でも、なぜかわたしは翔太と杏と3人で飲みに行った話をすることができなかった。どうしてかはわからないけど、話さない方がいいと感じたのだった。少しの間、蓮とLINEで話をした後また明日ねといれスマホを閉じた。その直後、LINEが鳴ったので、蓮かな?と思いながら開くと翔太だった。あわてて開くと、簡単なお礼と、1枚の空の写真が送られてきてた。その写真は2人が同じ場所で撮った写真だった。わたしは、ほんとに偶然ってすごいね笑と送り、わたしも同じ場所で撮った写真を送った。翔太とのLINEは簡単なものだったが、わたしの心臓は静かに、そして温かく鼓動を鳴らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る