アイム・ノット・パーフェクト

瀬尾 三葉

アイム・ノット・パーフェクト

 誰かに手を引かれて歩いていた、幼い頃の夏祭りを思い出す。人混みから生まれた熱が普段とは違う暑さを運んでくる明るい夜、青いのぼりに引き寄せられてよくラムネを飲んだ。氷水がたっぷり入ったケースに浮かんだビンが、提灯に照らされて宝石のように輝やく。その光が、今も網膜に焼き付いている。

 このビンを塞いでいたビー玉は、ここに押し込まれた後どうなるんだろう。

 炭酸を飲み終わった後、空になったビンに一つだけ取り残されたビー玉が気になった。中の液体が漏れないように飲み口を塞いでいたビー玉は、その後の役割があるのだろうか。外からきれいだと見つめられるだけで、行先は暗いゴミ箱なんだろうか。

 このビー玉を取り出す方法を教えてほしかった。

 

 自分がみんなと違うと気が付いたのはいつだっただろう。幼稚園に通っていた頃、男の先生を好きだと言ったら笑われたのが最初かもしれない。小学生の時、クラスメイトが仲のいい男子二人を「ホモかよ」と言った表情が衝撃的だったのは覚えている。口の端だけを持ち上げて笑ったその顔に傷ついた時、自分は普通じゃないんだと思った。

 これがバレたら終わり、だから隠すために必死に努力した。勉強や運動はもちろん、いつも笑って誰にでも優しい優等生にならなければいけなかった。

 頑張れば頑張るほど、周りはみんな褒めてくれたけど、自分自身はちっとも喜んでいなかった。完璧だね、と言われるたびに、罪悪感で胸がいっぱいになった。

 本当のことを打ち明けても認めてくれる人がいれば、と何度も考えた。

彼と出会ったのは、中学一年生の時だった。

「また勝ったんだって?」

 部活の休憩時間中、地面に座っていた俺の頭上から声が聞こえた。見上げると、小麦色に日焼けした彼が太陽を遮って俺を覗き込んでいた。同じ部活に所属していたけれど、こんな風に話しかけられたのは初めてだった。

「あ、うん」

 俺は前の週にあった大会の予選を勝ち進み、次の土曜に決勝トーナメントを控えていた。

「二回戦で三中のエースと当たったんだろ?どうやって勝ったんだよ」

 彼はまっすぐに俺を見ていた。

「たまたまだよ」

「けんそん?」

「違うって。相手がミスして、それでたまたま」

 俺はこの頃から、どうすれば嫌味に聞こえない返事ができるのかを模索していた。なるべく爽やかに笑って、決して調子に乗らない。

「ふーん」

 納得はしないけど、という含みを持たせながら彼は空を仰いだ。首に汗が一筋、落ちた。

「まあお前すっげえ練習してるもんな。いっつも朝練来んの一番なんだろ?すげえよ」

 えっと声が出た。心臓が一ミリ浮いたような気がした。

 俺早起き苦手なんだよなとつぶやく彼から目が離せなかった。

 太陽が縁取る彼の造形が、この世の何とも切り離されたように美しかった。

 ああどうか、このまま俺を見ないでくれ。

「今度俺に、一番譲ってくんない?」

 致死量ギリギリの直射日光を、生まれて初めて浴びた。

 彼が俺に向かっていたずらっぽく笑った瞬間、俺の中のすべてがひっくり返ってしまった。

 一番なんて、いくらでもくれてやる。

 その日から、俺たちの仲は急速に深まっていった。

 練習付き合ってくれと言う彼の気が済むまでグラウンドに残り、俺が知らないと言った流行りの漫画を彼は何冊も貸してくれた。あいついい人ぶっててムカつく、とやっかむ同級生から俺を庇ってくれたのも彼だった。部活で大会があるたびに俺と見比べて、口には出さずに落ち込む彼を見るのは辛かったけど、それでも俺の隣にいてくれる彼が愛おしくてたまらなかった。

「俺、いつかお前に勝ちたい」

 冷気が俺たちを凍らせて、このまま動けなくなってしまうのではないかと思った冬の夜、何かに傷心した彼が震える声でそう言ったのが、忘れられない。

 嬉しかった。自分でも驚くくらい、嬉しかった。ずっとお前といるからなと言われたようで、泣きそうになるくらい嬉しかった。

 言葉の最後を詰まらせて、わざとらしいほど明るく笑ってみせた彼を、本気で抱きしめたいと思った。でもしなかった。だって、それが彼のプライドだから。だから俺も、いつもみたいになるべく優しく笑ってうなずいた。

 それが、俺のプライドだった。

 人間は、ゴールなしでは頑張れないようになっているらしい。努力や忍耐の先に望んだ何かが待っているから、身が削れるような時間も過ごしていけるのだ。

 つまり、俺の限界はなかなかに近かった。

 どんなに願ったって俺のような人間がなんの偏見も非難も受けずに認められるわけはないのだ。そんなのとうの昔にわかっている。だから何も言わなかった。隠していた。知られたくなかった。せめてただ好きでいさせてほしかった。

 君に嫌われたくなくて、身動き一つ取れなかった。

 

「なあ、お前さっき告られてただろ」

 中学二年生、梅雨が明けて本格的な夏が始まろうとしていた頃だった。

 その日俺は、週替わりの掃除当番を割り当てられていたから、クラスの大半が帰った教室で何人かとモップを手にしていた。

 そのうちの一人が言っているのは、一時間ほど前、帰りのホームルームが始まる直前のことだろう。

 移動教室の授業を終え、廊下を歩いていると隣のクラスの女子とすれ違った。俺に「付き合ってほしい」と言ってきた子だ。ダメなら友達からでも、とも言われた。今時そんなセリフ使う人いるんだと思いながら、胸の前で祈るようにして組まれた手を眺めていた。それが俺ではない誰かに向けられることを祈り、ごめんなさいと断った。ちょうど一週間前のことだった。

 その子の横を通り過ぎようとした時、声をかけられた。

「この間のこと、やっぱりダメかな…」

 数分前に授業から解放された生徒たちが廊下に雑音を撒く。その音に負けそうなくらい小さな声だった。舞い上がった埃が、窓からの光をきらきらと反射していた。

「ごめんなさい」

 俺も小さな、けれどはっきりと届くように一週間前と同じ言葉を口にした。

 人が大勢いる廊下での出来事だったから、誰かに見られていてもおかしくはない。あとは俺とその女子の表情や雰囲気で、告白だと判断したのだろう。

「え、何またお前に告白?」

「俺もさっき見た」

 掃除より楽しそうなことに、男子たちが集まってきた。同じ当番の女子二人は、さっさと用具を片付けて帰ってしまったみたいだ。

「こいつさあ、また断ってなかった?」

「えーあの子けっこう可愛いじゃん。静かで清楚系っていうか」

 この話の振られ方が一番困る。何を否定しても誰かを傷つけるし、噓をつけば後のつじつま合わせが面倒くさい。いつも適当に笑ってその場から逃げることにしているのだが、この日はそれができなかった。テストは二週間前に終わっていたし、部活も休みだ。今すぐこの場を立ち去る理由が見つからない。

 どうしようか。

 俺の心とは裏腹にどんどん盛り上がっていくクラスメイトから目をそらし、自分のつま先を見つめてため息をついた。

 このクラスだったら誰が一番可愛いとか、付き合うならあの子とあの子どっちがいいとか、気になっていた子に彼氏がいてショックだったとか、みんなが普通に楽しんでいる話題についていけない。会話が耳を滑っていく。面白いと言われたテレビドラマを見てみたら何が面白いのかわからなかった時に似ている気がする。明日感想を聞かれたらなんて答えようって考えながら、ただ映像を垂れ流しているような感覚。そんな時に限って「お前はどう思う?」なんて訊かれて、意識しすぎて上手く答えられないんだ。なんでだろう。自分の平穏を一番願っているのは自分なのに、自分の邪魔をするのも自分なのだ。

「なぁ、お前は好きなタイプとかないの?」

「タイプ?」

 俺のことをただの友達だと思っているような人がタイプだよ。

「そう。なんかあんだろ?付き合うならこういう人がいい、みたいな」

 俺に勝ちたくて仕方がないくせに、ずっと隣で笑ってくれるような人がいい。

「んー、あんま考えたことないな」

「えーっ嘘だろ。正直に言えって」

 真面目で努力家で優しくて、でもそんな自分の良さに目を向けようとしない、少し悲しそうな雰囲気の同級生の男子が、去年からずっと好きなんだ。彼が自分と同じ感情を向けてくれるなんてあり得ないことが、この世のどんな不幸より辛いんだ。百人の女子に好きだと言ってもらうより、俺は彼に笑ってもらうことの方が大切なんだ。

「なんで教えてくんないんだよぉ」

 言えるわけないだろ、こんなこと。言ったらお前ら、俺のこと気持ち悪いって明日から無視するんだろ。わかってんだよ。言えるかよ。

「ほんとにわかんないんだって」

 わかんないんだよ、女子のタイプなんて。お前らも付き合いたい男のタイプとかないだろ?それと同じだよ。

 平行線が続く会話に苛ついたのか、一人が乱暴に俺の肩を組んで耳元に顔を寄せてきた。嗅ぎ慣れない柔軟剤の匂いが心拍数を上げた。

「なあ、ぶっちゃけどうなわけ?俺らけっこう気になってんだよ」

 さっきまでとは違う、ふざけた口調の中にある威圧感に背筋がピリッとした。何もした覚えがないのに、責められている気分になる。

「いや、ほんとに…」

 わかんないんだって、と続けようとした時、

「あ、さてはお前ホモなんだな?」

 妙に明るく軽い一言が、俺を石にした。

「部活で仲いいやついるもんな。いっつも一緒にいるさ。そいつのこと好きだったりして。なんだっけ、あの、確か」

 彼の名前が続いた。

 心臓が飛び跳ねて口から出るかと思った。脳も血液も呼吸も、いっせいに動きを止めた。汗だけが、首筋をつうっと伝った。

 それから教室を出るまでのことは断片的にしか覚えていない。

 何も言わずうつむいた俺にクラスメイトがえっと息をのんだ音、俺の肩から逃げるように外れた腕、急激に上がっていく体温、「マジかよ」という誰かのかすれた声。最後の最後に、首を横に振って教室を飛び出したけれど、あれになんの意味があったのかは自分でもわからない。

 だって何も間違っていない。

 それから夏休みまで、俺は部活を休んだ。

 学校に行っても誰も俺に話しかけてこないし、俺も誰にも話しかけず、ただ息をしているだけだった。次の日にはもう学年中に話が広がっているらしく、いつもの廊下や教室まで俺を拒んでいるような気がした。たまに聞こえてくる声やぶつかる視線で、俺はもうここにいられないのだとわかった。でも別に、大声で悪口を言う女子や、あからさまに俺の近くを避けて移動する男子が憎いとは思わなかった。

 ただただ、自分が惨めなだけだ。

 勉強ができても運動ができても、友達が多くてもなんの助けにもならなかった。誰より努力して誰より優秀でも関係ない。

 俺の好きな人が男だという、ただそれだけの理由で俺はいとも簡単に世界から弾き出される。

 じゃあ俺のすべてが無駄じゃないか。

 そう思うと自分が惨めで情けなくて、跡形もなく消えてしまいたくなった。

 彼に会わないまま十日が過ぎて、夏休みに入った。

 まともに眠れないまま朝を迎えて、惰性で人間らしい身支度を整えた。この十日、ずっとそうだった。この日は午前中からやるべきことがあるのはわかっていた。だけどそれだけはどうしてもできなくて、母に「今日は部屋で宿題を進める」とつまらない嘘をついた。冷房の効いた薄暗い部屋で、何をする気にもなれず、時計の針が休むことなく動くのを眺めていた。何も考えたくなかったけど、思考の沼に溺れてひたすらにもがいていた。

 俺の今までとこれからについて。

 どうすれば良かったんだ。どうすればいいんだ。どこで間違えた。何を間違えた。俺の人生のすべての日をやり直させてくれ。そもそも、俺は生まれてきて良かったのか?

 何度も何度も、誰も答えてくれない問いが頭を巡った。考えても解決しないことはわかっているけどやめられなかった。

 どうしてあの時もっと自然に否定できなかったんだ。どうして笑って誤魔化せなかったんだ。どうしてすぐに教室を出て行ったんだ。どうしてみんなに弁明しなかったんだ。どうして。どうして。どうして…。

 いろんな「どうして」が頭の中を占拠して、とうとう何も考えられなくなった。

 どうしてこんなこと考えてるんだろう…。

 何をしたってどうせ無駄なのに。

 もうどうなってもいいや。

 空っぽの脳は水の枯れた海のようで、何も動かなくなった。流れているのかもわからない時間が過ぎ、しばらくしてぽこっとあらわれたのは彼の顔だった。

 その瞬間、すべてが決壊した。

 ごめん、ごめん、好きになってごめん。俺のせいで君まで悪く言われていたら、本当にごめん。大丈夫、好きじゃないから。ただの友達だから。ちゃんと普通にするから。ごめん。俺が俺で、ごめんなさい。

 本当に、どうしてもっとうまくやれなかったんだろう。

 俺の本当のことがバレたら、困るのは俺だけじゃないかもしれないのに。その可能性を、どうして考えられなかった。

 わかってもらえるなんて思っていなかった。見て見ぬフリすらしてもらえない。もう二度と元には戻らない。

 でも君がいつも通りを望むなら、友達でいることで君を守れるのなら、普通でいるから。

 どんな不幸より辛いけれど、なんでもない日常のように受け入れるから。

 くいしばった歯の隙間から息が漏れる。爪が食い込んで痛いくらい手を握りしめていた。肩に力が入って、体を自由に動かせない。

 すべての筋肉に力が入って固まっていた体を、一つずつ解いていく。顔、手、肩、そのどれもが俺のもので、俺のものではない。

 自分を殺せ。今まで以上に。

 チャイムが鳴った。

 はっと我に返る。時計を見ると、短針が三つ数字を進めていた。

 一階で、はい、と答える母の声に続いて、庭の犬が吠えた。

 息を止めて、耳を澄ます。

 ちょっと待っててね、といういつもより一トーン高い母の声が聞き取れただけで、その相手が誰かはわからなかった。階段を上ってくる足音がして、どっと心臓が脈打った。俺の部屋の前で足音は止まり、扉が二回ノックされた。

「お友達が来てるよ。部活の」

 彼だった。

 呼吸が止まる。

 ふっと息を吐いた。

「わかった」

 鉄格子のような部屋を出て、玄関に着くまでの間で、いつも通りを整えていく。

 いつもの声、いつもの笑顔、いつもの歩き方、いつもの雰囲気。

 一つだけ、彼への気持ちだけは、きちんと南京錠で鍵をかけて、どんな荒波でも壊れることのない堤防の中に隠しておこう。

 彼から見たら、何も変わっていない俺であるように。

 ドアノブに手をかける。

 南京錠が機能していることを確認して、ドアを開けた。

 重いドアの先が一瞬真っ白になって、目が眩んだ。

 夏のまばゆい光の中、彼が立っている。

 白い運動着に身を包み、口を真一文字に結んだ顔は硬い。額から流れる汗があごの先で垂れた。息が詰まるのは、不快なくらい蒸している夏の空気だけのせいじゃない。

 彼だ。わずか十日ほど会わなかっただけなのに、その十日がどれだけ永遠に近かったのか嫌でも思い知らされる。

 俺の目の前に彼がいる。それだけのことを心の底から望んでいて、それだけのために脳も体も焼き尽くされてしまう。

 それが俺にとっての彼だ。

 南京錠がカチッと音を立てる。

「よう」

 鍵が開ききってしまう前に言葉をつながなければ。

「とりあえず、入る?」

 彼がゆっくりとうなずいた。

 彼と一緒に湿り気を帯びた熱が足元に忍び寄ってきて、これからの天気が崩れることを予想させた。

 靴を脱いでフローリングを歩く彼の足音がいつもより慎重で、緊張しているのだとわかった。それが伝染して、さっきまでの決意が胸に蘇る。

 彼が何をしにここへ来ていても、これまでと変わらない俺でいよう。大丈夫だ、友達なんだから。

 ちょっと調子が悪くて、気分が落ち込んで部活にも行けなくて、心配かけてごめんって言えばいいんだ。きっと彼の耳にも入っている噂は気にしないでって明るく笑えば、優しい彼のことだからそれ以上きっと踏み込んでこない。

 大丈夫、大丈夫。ちゃんと想像して。彼と今まで通り話している自分を。

 彼は部屋に入るまで一言も発しなかった。

「どっかテキトーに座ってて。飲み物取ってくるから」

 口元をきゅっと結んで不安そうな彼に声をかけると、「ありがとう」とか細い声がした。

 細胞がぞわっと湧きたつ。今まで認識したことがないような小さな毛の一本一本まで逆立っていく。

 急いで部屋を出て扉を閉める。数歩だけ進んで、階段の手前で口元を抑えてうつむいた。

 どんな顔をすればいいのかわからない。

 ついさっきまで心の奥にしまいこもうと固く決意した感情が、たった五文字で簡単に染み出してきてしまう。

 あんなに緊張して壊れそうな空気をまとっているのに、俺に会うためにここに来てくれた。

 その事実が、どうしようもなく嬉しい。

 だからこそ、どうしようもなく苦しい。

 友達だなんて思えない。彼に縋りたくて、隣にいてほしくて、感情と理性の境がごちゃまぜになるほど彼を求めている自分に抗えない。友達でいなければそばにいることさえ叶わないのに、二度と会えなくてもいいから想いをぶつけたいという衝動が体中を内側から圧迫している。

 世界中の誰に拒絶されてもいいから、彼にだけは認められたい。

 彼ならわかってくれるんじゃないか。ちゃんと順を追って説明して、隠していたことを謝って、こんな俺だけどこれからもそばにいさせてくれと言えば、うなずいてくれるんじゃないか。

 なぁ、俺もう疲れたんだ。君以外の人間なんてどうでもいいのに、なんでこんなにヘラヘラ笑ってなきゃいけなかったんだ。俺は誰を演じているんだ。君といる時の俺だけが、本物なんだよ。だから君さえ笑いかけてくれればいいんだ。見つめてくれればいいんだ。あとはどうなってもいいから。

 心の中で彼に問いかける。

 俺のこと、認めてくれるよな?

 彼が笑う。眉尻を下げて、口を閉じたまま両端を上げたその表情が困っているのだとわかった時、脳内の映像は途切れた。

 …だめだ。本当のことを言ったら彼を困らせる。

 彼を傷つけないために、いつも通りでいると決めたじゃないか。

 足に力を込めて床を踏んだ。顔を覆った指の隙間から、重力に逆らって俺を支える二本の足の先を睨みつける。

 揺らぐな。しっかりしろ。

 一歩ずつ確かめるように、階段を下りた。

 キッチンに入ると、母が二人分のコップに氷と麦茶を入れて手渡してくれた。

「今日、部活あったんじゃないの。さっきの子、部活のカッコウしてたけど…」

 遠くから覗き込むような声で母が訊く。部活に熱心で優秀な息子が親に嘘をついて休むなんて何かあったのかと、心配しているのだ。

「大丈夫だよ」

 母は、言外の本心に答えた俺にため息をついた。短くお礼を言って、また部屋へ戻る。

 本当は何も大丈夫じゃない。だけど、そんなことを母に打ち明けられるほど俺は強くない。

 扉を開けた。

 彼は部屋の真ん中に突っ立っていた。飾ってあるトロフィーを眺めていたのか、体を扉の横にある棚の方に向けていた。

「座っててって言ったのに」

 コップを彼に手渡す。指先が少しだけ触れた。

「あ、うん。ありがとう」

 こわばった声を潤すように、彼は一気に麦茶を飲みほした。喉がごくりと大きく揺れる。

 俺はコップに目を落として、一口だけ誤魔化すように飲んだ。角が解けて丸くなった氷が手の中で小さく音を立てた。彼の前を通り過ぎてベッドに腰を下ろす。わずかに漂った汗と制汗剤の匂いが、彼が部活を終えてからここに来たことを証明していた。

 指先の熱がコップに奪われていく。水滴が落ちて、手の甲を濡らした。

「あの」

 彼が言う。

「うん?」

 顔を上げて彼を見た。一瞬ぶつかった視線を、彼はわずかにそらした。

「カーテン、開けないの」

 言葉を詰まらせて彼が問うた。

 部屋の中は、青く薄いカーテンが外からの光を遮断して、太陽に置いてきぼりにされた夜のような空間になっていた。

「ああ、別にいいよ」

 滑らかな声が彼に答えた。

 部屋に戻ってきた瞬間から、感情の振れ幅が小さく弱くなっているのを感じる。腹の底に何もかも諦めてどっかり座ったもう一人の自分がいて、今すぐこの場から逃げ出したいくらい恐怖におびえている俺をなだめているような気がした。

 彼が大きく息を吐きだした。

 あ、来る。

 とっさにそう思った。

「なんで、部活、来ねぇの」

「ああ」

 すっかり冷え切った指先を見つめながら答える。

「ごめん。ちょっと面倒くさくてさ。サボった」

「こんなに長く」

「うん、まぁ、だからごめんって」

 平均よりも少し高く平べったい彼の声が、徐々に苛立ちを含んでいく。温度が下がって、耳から脳の動きを鈍らせた。

「じゃあ明日は来んのか」

 すぐには答えられなかった。一秒にも満たないほんの一瞬、思考が空白になって何も言えなかった。

「そうだな」

 ほとんど考えずに口から出た言葉は、なんの意味も持たないただの空気の振動だった。

 途端、彼がまとう空気が膨張して俺にぶつかった。

「なんでそんなこと言うんだよ!」

 聞いたこともないほどの彼の大声に思わず顔を上げた。

 肩をいからせ、目に荒い力を込めて俺を睨む彼の迫力に、驚いてのけぞった。さっきまでの泣き出しそうな表情は消え、全身で怒りを表現している。

 こんな彼を初めて見た。

「え?」

「本当のこと言えよ。なんで嘘ばっかりつくんだよ」

「嘘なんて」

「ついてるだろ、さっきから!俺が気づいてないとでも思ってんのかよ!」

 彼の熱に反比例して、俺の内側はどんどん冷たくなっていく。

 思ってたよ、ずっと。

 俺がついた嘘って、どのことを言ってる?多すぎてもう、どれが嘘かもわからない。最近まで、その全部に騙されてくれてたじゃないか。

 なのに、なんで。

「…おい、どうしたんだよ、急に」

「急に?」

 彼の声が一気に冷え込んだ。悲しみと怒りが混ざった震えが伝わる。

「本当は全部わかってるくせに。俺が何しに来たのかだって、全部わかってるんだろ。なのに、ふざけた真似しやがって」

 大きくなる震えを抑えようと堪えた歯の隙間から、こぼれるような彼の声。それが小さな波のように俺の元まで届いて、少しずつ、けれど確実に心の中心を守っていた堤防を削いでいく。堤防の内側の南京錠はいつの間にか錆びてその役割を果たさなくなっていた。

 俺の覚悟と彼の震えがぶつかり合って、その瞬間から消えていく。それをどう受け止めればいいのかわからなかった。何もかもがあるべき姿に戻っていった気がして、ただ何も言わず彼の浸食を受け入れるしかなかった。

「知ってるんだよ、お前の噂。お前が男を好きだって」

 絶え間なく押し寄せる波がどこか気持ちいい。堤防を壊すのも、海を満たすのもこの波なのだ。それは、誰にも変えられないこの世の真理。

「なぁ、違うなら違うって言えよ。黙ってるから、どんどん話が大きくなるんだよ」

 堤防がぼろぼろと崩れていく。その内で隠していたものが、どうにもならないほど激しく揺れている。存在してはいけないとわかっていながら、消滅することを何よりも恐れているようだった。

「ちゃんと否定しろよ」

 最後にダメ押しで襲った大きな波がすべてを飲み込んだ。波が引き揚げた後には何もない更地になっているかと思ったら、まだ図太く居座るそれに呆れて声が出た。

「そうだな」

 引いていく波は、もう俺を襲ったりしないとわかった。

 ただ遠く、どこにも交わることのない場所へ消えていく。

「どうして俺に、話してくれなかったんだよ。…お前、俺のことなんだと思ってんだよ」

 好きになってほしいと思っていた。

 君の一番が欲しくて恋焦がれていた。

 そんな自分が嬉しくて悲しくて、そばにいるのが精いっぱいだった。

「なぁ、俺ら友達だよな?」

 俺は、君にすべてを捧げたかったけど、今君が一番欲しいと思っている言葉はどうしてもあげられない。

 君がただの友達だったことなんてない。

「もういいよ」

 彼の手から、コップが滑り落ちて床を濡らした。

─ほら、だから言ったのに。

 腹の底で、もう一人の俺が笑った。


彼が去った後、もらったトロフィーは全部床に叩きつけた。壊れたものもあるし、傷がついただけのものもあった。元の状態を保っていたものは一つもなかった。

 今まで俺の生活を構成していたものは何一つ役に立たなくなって、飯も食わなくなったし勉強もしなくなった。体重も成績もどんどん落ちていったけど、そんなものいらないからただ彼との関係を返せ、と何かに願っている自分が死ぬほど嫌だった。いっそのこと本当に死んでやろうかとも思ったけど、いざ死のうとすると死ねない。怖くなったわけではなくて、行動に移すまでに疲れて動けなくなってしまったのだ。死ぬのにも体力がいるのだと初めて気づいた。

 そうやってただ死ねないだけの俺は、毎日死んだように生きていた。何がこんなに悲しいのかも辛いのかもわからなかった。誰にも会いたくなかったし話したくもなかった。世界でたった一人、俺のそばにいてくれるだけで良かった。

 いつの間にか夏が終わって秋も通り過ぎ、凍えるような冬がやってきたとき、ふとあの夜を思い出した。声を震わせながら笑った彼の顔が、一瞬で脳裏から離れなくなった。

 頼む、頼むから消えてくれ。俺の人生から、跡形もなく消え去ってくれ。お願いだから。

 気づくと家を飛び出していた。久しぶりに吸う外の空気は、肺に刺さって苦しいくらい痛かった。

 あんなに好きだったのに、大切だったのに、何を考えてるんだ俺は…。

 街灯が点々と続く夜の道をひたすらに走った。何も聞こえない、静かな冬の住宅街を延々と。まるで世界に一人取り残されたかのようだった。あんなにそばにいてほしいと願っていた彼を、俺はさっき消えてくれと思ってしまった。本当の独りになってしまった。彼さえも自分の手で失った。

俺は足を止めた。本当に何もかも意味がなくなってしまった。走っていても意味がない。外に出ても意味がない。荒くなる呼吸にも意味がない。生きていても意味がない。

 死のう。

 この時初めて、体力に希死念慮が勝った。死なせてくれと思った。

 死のう、死のう、死なせてくれ。確かここをもう少し行ったら、線路があったはずだ。そこに電車が来たら、飛び込んで死のう。

 あの日彼を抱きしめたいと思った俺はもういない。

 倒れそうになりながら、線路まで歩いた。フェンス越しに鉄の塊を運ぶレールが見える。ここに飛び込んで、俺は今から死ぬ。苦しいとか悲しいとか、いろんなものがごちゃ混ぜになって俺を動けなくさせていた真っ黒な現実から、早く解放されたい。

 ガシャンと音がした。右手がフェンスを掴んでいた。ガシャン、とまた音がした。今後は左足がフェンスを登ろうとしていた。自分の意識とは関係なしに、体が死を望んでいる。

 もう限界なのだ。

 その時だった。

「何してるの?」

 背後から声が聞こえた。あまり聞きなじみのない声だった。

 振り返ると、小柄な少女が立っていた。

「え、ちょっと待って。何してるの?」

 少女が焦ったような声で問いかけてくる。よたよたと近づいてきた少女の顔が青白い街灯に照らされて闇に浮かび上がる。見覚えがあった。

 同じクラスの、俺が最後に学校へ行った時は確か斜め前の席に座っていた女子だった。あまり話したことはない。

 俺の三歩ほど手前で足を止め、彼女はもう一度言った。

「何してるの?」

 怒っていた。

 俺は手足をフェンスから離し、アスファルトの上に着地した。ガシャンというさっきより大きな音が俺たちの間に響いた。

「何って、見ればわかるだろ…」

 この時俺は、決して死ぬのをやめようと思ってフェンスから離れたわけではない。誰かの感情に触れるのが久しぶりで、例えるなら無人島に漂流したメッセージボトルを手に取るような感じで、彼女の声に近づいたのだ。

 この世界にまだ自分以外に人がいるなんて。

「わかんないけど。何してるの?」

 彼女はまた問うてきた。尖った声だった。

「いやわかるだろ…死のうとしてたんだよ」

 しばらく声を出していなかったから、上手く喋れなかった。喉がガサガサして、空気があまり通っていない。

「…わからないけど。なんで」

 彼女は問いを止めない。

「わからないって、そんなわけないだろ。お前も知ってんだろ、俺の…」

 同じクラスの彼女が、長期欠席している俺を知らないはずがないし、その理由だってもう全員知っているはずだ。俺がゲイで、友達を好きになって、フラれたから学校に行かない。簡潔で、わかりやすくて、話題にするならちょうどいい。しかも今まで隙を見せなかった優等生のスクープとなったら、文句の付け所がないくらい楽しい暇つぶしなんじゃないのか。知ってるだろ。

「…俺の、何?」

 彼女はまだ問うてくる。声の温度が下がって、怒っているのがわかる。

 やめてくれよ、そんな声で、俺を追い詰めないでくれよ。まるであの日の、彼みたいだから…。

「…そ、そっちこそ…何してんだよ…」

「私は…ゴミ捨てようと思って。明日資源ゴミの日だから」

 尋問から逃れようとした俺の質問に、彼女はわずかに動揺して手に持った袋の中を覗いた。

「あ、これ…なんで今さら」

 そう言って彼女が取り出したのは、透明のビンだった。左右に振ると乾いた音がする。

「ラムネのビンだ。夏祭りで飲んだやつかなぁ」

 不思議そうにビンを街灯に透かし、彼女は呟いた。屈折して俺の目に届いた光は、薄い青色をしていた。中央より少し上にある膨らみに収まったビー玉が揺れて、住宅街に音が響く。冬の冷たい空気は、小さな音でもよく耳に届いた。

「ああ、このビー玉、取れないんだっけ…」

 彼女が飲み口を覗き込む。ビー玉は、ビンの狭い飲み口を通過できない大きさになっていて、取り出すことができない。

「それ」

 口が動いていた。

「俺みたいだ」

 彼女がハッとして俺を見た。その手に握られたビンがやけにはっきり見える。

 硬いガラスに閉じ込められたビー玉に、今の自分が重なる。

 俺もこんな風に閉じ込められているんだ。

 誰に愛されるとか嫌われないとか、俺の行動の最優先にあったもの。どんなに窮屈で不自由で息苦しくても、そのガラスを破らない限りは美しいと褒めてもらえる。知らぬ間に俺を閉じ込めた透明のガラスから外にでる方法がわからない。

心臓にまで響く轟音で電車が通り過ぎる。何秒か遅れてぶつかるような風が後を追った。残った静寂が俺の存在を浮き上がらせて、闇に放り出す。肩に乗る重たい虚無に耐え切れず、硬いアスファルトに膝をついた。

「え、ちょっと」

 袋が地面に落ちた音がして、彼女が俺のすぐ横にしゃがんだ。

「大丈夫…?」

 小さな体温と控えめな疑問符を背中に感じてうずくまる。

「大、丈夫…じゃ、ない…」

 言い切ろうとした言葉の先に、心が漏れて落ちた。

「お、おれ、…俺っ…なんで…なんでこんな…っ」

 誰のためでもない言葉が溢れて冬の空気に消える。せき止められていた熱がとめどなく流れて喉を焦がした。言語に変換されずに放たれた感情が、意味を持たない音になってこぼれていく。

 自分を偽って生きた十四年より、張りぼてが崩れた十日より、世界から逃げ出したこの半年より、あのたった三十分足らずが一番重くて苦しかった。彼と二人きりだったあの時間が、俺にとって何よりの罰だった。

 俺が俺であることを、他でもない彼が拒んでいた。

 自分が今どの世界に存在しているのかわからない。この場所でみっともなく嗚咽を漏らしている物体が自分であるという確信が持てなかった。いっそのこと、俺でなければいいのに。

 背中を短く上下に移動する手の感覚が、俺の形を縁取っているたった一つのものだった。その手に促されるがまま、今まで出したことのないような醜い声が止まらない。視界がぼやけて、泣いているのだとわかった。

「お、おれ、どうすれば…どうすればっ、よ、よかった…」

 涙が重力に引っ張られて地面に叩きつけられる。次から次へと落ちてきて、小さな水たまりを作った。目が鼻が口が、涙の洪水に飲まれて呼吸が上手くできない。ちゃんと空気があるのに溺れているような感覚に、彼に拒絶されてから初めて泣くことに気がついた。

 泣くなんていう、簡単で原始的な感情表現でさえ抜け落ちていた。そのくらいの力が彼にあることを思い知らされ、一層涙があふれてくる。泣いても何も戻ってこない。そんなわかりきった事実に救われるほど、彼が俺に開けた穴は小さくない。

「も、なにもっ、なんもわかんないっ…もういやだ…」

 声が体から出ていくたびに喉が焼かれる。苦しくて空気を求めて鼻をすすると、重い塊に呼吸を邪魔される。それが辛くてもっと息が速くなる。それなのに、酸素はなかなか肺に届かない。苦しい。

「落ち着いて。大丈夫だから」

 彼女の声が右側から聞こえた。水たまりの中に膝をついて、俺の重心を受け止める体勢を取った。手がさっきよりも大きくゆっくり背中を撫で、それが肺の動きを誘導する。

「そう、ゆっくり…吸って…吐いて…」

 深い水の底に垂れてきた一本のロープに縋るように、彼女の声に従った。吸って、吐いて、せき込んだり、引き攣った音を出しながら、空気が徐々に体中を巡る。滞っていた血流が動き出して、血管をこじ開けて通っていく。急にはっきりした脳と視界にめまいがして、バランスが崩れた。ゆっくり地面に近づいていく俺を、彼女が抱え込むように支えた。

「大丈夫だよ」

 耳元でしっかり届いた彼女の声。お腹に回された華奢な手が俺を支えている。

 大丈夫だという言葉は、自分に言い聞かせるのと他人に言われるのではまるで響きが違う。空気を伝って耳から入る「大丈夫」は、薄い毛布を一枚かけてもらったかのような温かさと安心感がある。

 もう震えなくていい。

 そのわずかな確信にひどくほっとして、止まりかけていた涙がまた眼球を覆った。けれど呼吸はもう元に戻って、苦しくはなかった。

 ふと、彼女が俺の手を包んだ。

「こんなに冷えて…寒かったね」

 純粋な慈しみの言葉をこぼす彼女の伏せたまつげが震えていた。ぎゅっと力を入れて、重なった二つの手を見つめる瞳から小さな光が落ちた。

 彼女が泣いている。

 一つ、また一つと涙が目のふちに膨らんでこぼれていく。涙が手の甲に落ちる音が聞こえそうなほど、静かだった。俺のように喘いだり、むせたり、唸ったりせず、ただ涙だけを流し続けている。

「な、なんで泣いてんの…」

 驚いて、時間が止まった。鼻が詰まって、くぐもった声が出た。

 彼女が泣く理由がわからない。記憶の限りではあまり話したことはないし、俺の地獄なんて彼女の世界に何の影響も及ぼさないはずだ。そもそも、俺がどうしてこんなに泣きわめいているのか、彼女は知らないんじゃないのか。

「ごめん」

 微動だにせず固まっていた表情が歪み、涙が顔の凹凸をなぞって垂れた。彼女はすぐそれを隠すように右手で頬を拭った。右側を拭って、左側を拭って、もう一度右側を拭う。また左目から涙が流れてきて、諦めて再び両手で俺の手を包んだ。

「ごめん…」

 消え入りそうな声で謝って、肩を大きく上下させてうつむいた。そのまま額を俺たちの手にくっつけるようにして背中を丸める。彼女の長い髪が手に触れた。ぺたんと尻をついて、大切なものを守るように丸くなった彼女は、その姿勢のまま動かない。

「なににっ…あやまってんだよ…っ」

 冬の夜は寒くて冷たくて、否応なしに体が震えて顎が嚙み合わない。服から出ている皮膚が感覚器官に張り付いて、冷たいという情報だけが脳に送られる。唇が思うように動かなくて、上手く話せない代わりに目頭が熱くなった。

 死にそうなくらいの寒かった。だけど、ここから動こうとは思わなかった。

 彼女がガラス細工でも扱うかのような優しい感触で俺の手を包んでいる。肩から滑った黒髪が闇の中でつややかに揺れた。俺の質問に答えず泣きじゃくる彼女を見て、どこへも行けなくなってしまった。

 もう死のうという気にもならない。だからと言って、明日を生きる希望が湧いてくるわけでもない。ただ、底知れないほど深い絶望の中で俺の手を取り、泣き続ける彼女が「どこへも行かなくていいよ」と言っている気がした。

 何かが変わるわけでもない。泣いても何も戻ってこない。

 それでも泣かずにはいられないこともあるのだ。

彼が俺に穴を開けて去っていった時、きっと俺の一部も一緒に消えた。彼を愛した俺が、大きな波にさらわれていなくなってしまった。体のどこかが欠けて傷が癒えないのと同じように、心が欠けて血を流した。返してほしい。戻してほしい。何にも代えられない俺の一部を。

 結局は自分が可愛いだけの自分に心底失望して、何もわからなくなったフリをした。

 彼が恋しくて愛しくて仕方がないからこんなにも心が痛いのだと、どこかで自分に言い聞かせていた。

 でも本当は、俺を受け入れてくれなかったから辛いのだ。俺が一番好きな、彼を愛する俺を。

 なんて自分勝手なんだろう。最低なんだろう。自分よりも彼を愛せる俺でいたかった。拒絶されても、それでもいいと思えるくらい寛容な愛を持っていたかった。純粋で聡明で高潔な、彼を守れる人間になりたかった。

 だけど現実は違った。俺はそうなれなかった。

 だって、彼を愛して初めて自分を好きになれた気がしたんだ。

 少しずつ、少しずつ、彼を好きになっていくたび自分が肯定されていく幸せの感覚が確かにあった。ゆっくりと音を立てて、自分が完成していくような感覚。あれがたぶん、幸せってことだったんだろう。もうガラクタになってしまったけれど。

 ガラクタでも泣いていいのかな。悲しいって思っていいのかな。

 彼女は何も言わない。代わりに、手を握る力がぎゅっと強くなった。

 もう何もいらない。何も戻ってこなくていい。だから、失った自分を悲しんで泣くことくらい許してほしい。

 彼女の手を握り返した。乾いた小さな手の感触と、止まらない涙だけが冬の真夜中で温かかった。

 青白い街灯を背に、俺たちは手をつないで泣き続けた。

 体中を涙が巡って悲しみが中和されていくような錯覚は、柔らかい痛みを持っていた。

 時間の流れに忘れ去られたようにひとしきり泣いて、空っぽになったころ、彼女がようやく顔を上げた。両目から伸びるいくつもの線と赤くなった鼻が彼女を幼く見せる。

「ごめんね」

 何度目かの謝罪をして、恥ずかしそうに少しだけ笑った。その心が少しも笑っていないのがわかって、また泣きたくなった。

「帰ろう」

 彼女が言う。差し出された手は震えていた。

「もう今日の電車はないよ」

 眉尻を下げてほほ笑む彼女が俺の腕をつかんで立ち上がらせる。右腕に食い込む指が痛くて、この体の持ち主が自分であるということをようやく思い出した。


 母の後ろを歩きながら、茜色に染まり始めた西の空を眺めていた。

二年生が終わって何日かした昨日、学校から電話で呼び出された。不登校の原因や進学について話し合いたいと担任や学年主任から連絡があったのだと思う。しかし母は多くは語らなかった。

 階段を上ってきてドアの外から一言、

「あなたと話したい子がいるって」

と言っただけだった。

 誰、と訊かなくてもわかる。三カ月前の夜終わるはずだった俺の人生がまだこうして続いているのは、彼女のせいだ。なんとなく、でも確実に、彼女は俺に言いたいことがあるのだろうと思っていた。彼女の話が聞きたいとも思った。

「わかった。行くよ」

 ドアを開け、あっさりうなずいた俺に母は少し目を見張った。そしてすぐに泣きそうになりながら笑った。クリーニングから返ってきたままクローゼットに押し込んだ制服は、硬くて動きにくかった。そろそろ満開を迎える桜の木が春の暖かい風に揺れていた。

 九カ月ぶりに足を踏み入れた校舎は、俺を異分子だと排除せず、すんなりと侵入を許してくれた。何も入っていない自分の下駄箱を見て、ここに居場所があったことを不思議だと思った。猫背の男性教師が母を別室に連れて行き、俺は保健室に通された。母が何度も頭を下げながら後ろをついていくあの大人が、自分にとってどんな存在だったか思い出せない。俺を見た瞬間に息を飲んだのが伝わったから、以前の俺を覚えているのだろう。ということは担任か、少なくとも何かの授業を受けていたと考えられるが、思い出そうとする前に記憶の回線が途切れた。あの人が誰でもどうでもいいや。

 斜めに差し込むオレンジ色の光が長い影を作る。静かにドアを開けると、その影の主はわざとらしいくらい優しく笑った。古い木に消毒液を染み込ませたような独特の匂いと相まって、中に入るのが億劫になる。

「こんにちは」

 茶色い髪を後ろで束ねた中年の養護教諭に明るく声をかけられて、浅く頭を下げた。まだ教室で優等生をしていた頃から考えてもそんなに関わったことがない人だから、逆に気が楽だった。頬がこけ、生気がなくなった俺を見ても過剰な反応をされなくてすむ。勧められるがまま、窓辺のイスに座った。俺に対して直角の位置に、その大人も腰かけた。真四角に近い長方形の机にはあと四つイスが並べられていた。右側にはカーテン付きのベッドが二台置いてあり、どちらも使われた形跡はなかった。

 西日を背中に感じながら、学校というのは生徒がいないとこんなにも静かなのかと少し驚く。廊下を歩く足音や、教室から聞こえる笑い声、プリントをめくる音、こっそり流れる噂話。ほぼ毎日聞いていた音は、今はどんなに耳を澄ましても聞こえない。この静けさが心地良くて、あれは全部雑音だったんだと気づく。

「今日は来てくれてありがとう」

 左側から甘ったるい声がする。わざわざ目線を上げなくても、口角を上げて俺を見つめているのがわかる。保健室の先生ってみんなこうなのかな。この空間にいる子どもが全員同じ壊れ物で、ひびが入った部分をボンドで補強するみたいに「ありがとう」とか聞こえのいい言葉をかけておけばいいと思ってないか。俺は別に、あんたのためにここに来たんじゃないけど。

 いつまでも顔の左半分に刺さっている視線がうっとうしい。肩を入れて体ごと反対側を向こうと思ったけどやめた。俺は今日、彼女のためにここに来た。彼女以外は存在していないのと同じ。存在していないもののために何かすることはできない。

 しばらくラジオのように音声が流れていたけれど、俺が反応しないことがわかるといつの間にか静かになった。時計の針が等間隔に時を刻んでいく。

「失礼します」

 澄んだ声が聞こえて、ドアが開いた。反射的に顔を上げる。

 柔らかそうな制服に身を包んだ彼女が俺の直線上に立っていた。三カ月ぶりの彼女は、髪を耳の下あたりで二つに結び、黒縁のメガネをかけている。息を弾ませて早足でこちらに歩いてきて、

「遅れてすいません」

とお辞儀をした。

「大丈夫よ。さ、座って」

 彼女が俺の目の前に座る。右手に持っていた黒いエナメルカバンを床におろし、背筋を伸ばした。空気が動いて、ほのかに甘い匂いが鼻をかすめた。桜が風に舞う時にはきっとこの香りがするのだろうと思った。

 真正面から捉える彼女の瞳は、夕陽が射して煌々と燃えていた。影が落ちて出来上がった濃淡に息が詰まった。彼女が俺にぶつけたい思いや言葉が、単純なものではないことを悟ったからかもしれない。

「急に呼び出してごめんなさい。来てくれてありがとう」

 俺に向けて、彼女がまたお辞儀をする。その表情は変わらない。それに微笑み返そうと思ったけど、口角は持ち上がらず震えただけだった。不気味な顔になっていたはずだが、彼女が気に留めた様子はなかった。

 じゃあ、と左側でもう一人が話し始める。

「この時間は二人のための時間です。思う存分言いたいことを言ってもいいし、何も話さなくてもいい。私はここに座っているけど、ここで聞いた話はあなたたちの許可なしに誰かに話したりは絶対にしません。担任の先生にも、親御さんにも。私はいないものだと思ってください。ただ、念のためここに居させてもらいます。体調がおかしいとか、何かあったらすぐに言ってください」

 時間は一応、三十分くらいです、と時計を指さして告げられた。念のため、の本意は十中八九俺だろう。急に学校に来なくなった問題児なんて、危なっかしくて目が離せないに決まっている。もし俺が彼女と二人きりの空間で暴れ出したりなんかしたら、という可能性を考えずにはいられないんだろうな。実際の俺に、そんな気持ちはゼロに等しいのだけど。

 わかりました、ありがとうございますとまた律儀にお辞儀をしてから彼女が俺に向き直る。光を反射した目が泣きそうなようにも見えた。

「この間はごめんなさい」

 額が机につきそうなほど深く頭を下げて彼女が言った。両肩から二つに結んだ髪が滑り落ちて、三カ月前の姿と重なる。顔を上げた彼女の顔に違和感があると思ったら、メガネをかけていることに気づいて、目が悪いんだろうかと当たり前のことを考えた。

「あの時、何も言わなくて…後から考えたら、私、すごいことしちゃったんじゃないかってずっと謝りたくて…」

 言葉の空白に感情が見え隠れする。言葉は思いを伝えてくれる便利な道具だけど、それが使えないことで伝わってしまう思いもある。空気の振動だけが言葉じゃない。それは本当に、よくわかってる。

「あの、だから、本当にごめんなさい」

 今度はお辞儀ではなく首を折って下を向いただけの彼女が小さくしぼんでいきそうな気がして、怖くなった。

 俺は彼女に、どんな痛みを背負わせているのだろう。

 自殺しようとしている姿を見せてしまったこと。泣きながら過呼吸になったこと。冬の真夜中に道ずれにしたこと。俺の頭で考えつく理由の他に、得体のしれないものが彼女から俺に伸びているような気がして、身がすくむ。俺は何をしたんだと、彼女の肩を揺さぶって問いただしたい。この三カ月、ずっと考えていた。

 俺は彼女にとって何なのだろうと。

「今日は、私の話を聞いてほしい」

 もちろん、そのつもりで来た。

 彼女の長い告白が、始まる。

「私のお父さんは、本当のお父さんじゃないの。本当のお父さんは私が小さい時に離婚して家を出て行ったから、顔も覚えてない。今のお父さんは、私が小学生の時にお母さんが再婚した人で、もう六年一緒に暮らしてる」

 出だしから、重たい内容を彼女は淡々と喋る。顔色一つ変えずに複雑な家庭の話ができるということは、幾度となく誰かに説明してきたのかもしれない。

「今のお父さんはすごく真面目でいい人なんだろうけど、お酒を飲むと人が変わったみたいに暴れ出すの。急に怒鳴ったり、机を蹴ったり、普段のお父さんだったら絶対しないようなことを何回も何回もする」

 流れるような口調が止まる。彼女は息を吐き出して、もう一度話し出す。

「最初はすごく怖かった。なんであんな人と結婚したのって、泣きながらお母さんを責めたりもした。いつも夜が怖かった。お父さんがお酒を飲むから。日曜日は、特に。一回、お母さんが殴られてるのを見て、反射的に飛び出してってお父さんに投げ飛ばされたことがあったんだけど…それが本当に痛くて怖くて、今でもよく覚えてる」

 彼女が左腕をさすった。無意識に当時の傷を庇っているように見えた。話が進んでいくほど苦痛に歪む顔が、その傷の深さを表している。

「お父さんは仕事が大変だから、私たちは我慢しようねってお母さんに言われて、意味がわからなかった。早く元の家に戻ってほしくて、お父さんが出て行けばいいのにって思ってた。暴れた次の休みに変に優しくなってどっか連れてってくれるお父さんが気持ち悪かった。動物園も遊園地も行けなくていいから、ただお酒をやめてほしかった」

 目の前に、小学生の彼女が現れて俺に訴える。

 家という、本来なら安全であるはずの場所に他人によって危険が入り込む。まだ小学生の彼女には、自力でそれを排除する方法などなかったはずだ。父に怯え、母に怒り、泣き腫らした目で暗闇から助けを求める幼い彼女がここに居るような気がしてならない。その手を取って光の中に連れ出してくれる存在を、彼女は待っている。

「でもしばらくしたら、ああこの人たちに何も期待しない方がいいんだなって思うようになった。思うようにした、っていうのかな。お父さんが暴れ出したら大人しく朝が来るのを待って、お母さんが泣いたら慰めて。私は大丈夫だよって二人にアピールして、その場が丸く収まるならそれでいいやって。私の意思なんてあの二人には関係なかった。そうやってものわかりのいい子やってたら、偉いね、優しいねって褒めてもらえるようになったし。二人が家族として過ごしていくためには、私だけはちゃんとしてなきゃいけなかった。五年生とか六年生になって、塾に通ったり習い事したりして、家にいる時間を減らすようにしたの。そこで会ったほかの小学校の子と仲良くなって、けっこう楽しいこともあったな。…そう、別に二十四時間のうち、家にいる半分くらいの時間をどうにか耐えればいいだけで、あとは割と上手くやれてたんだよ、私」

 やれてた、という過去形がわかりやすい伏線になって耳に残る。太陽の傾きが大きくなって、伸びた俺の影が彼女のそれと並行に並んでいた。

「中学生になって、部活は一番忙しいとこを選んだ。小学校からの友達はみんな他の部活に入るって言ってたけど、私にとっては家にいない理由を作る方が大事だったから。毎日放課後に練習があって、土日も休みが少ないとこに入ったの。…私が何部か知ってる?知らないよね。まぁそれは別に」

「バド部だろ」

 かすれた声が彼女の話を遮った。

 今日初めて発する、俺の声だ。本当はもっと早く答えるつもりだったのだけど、声が喉に引っかかってなかなか出てこなかったのだ。彼女の声より数段濁って聞き取りにくい。

「…知ってるんだ…」

 彼女が呆然と呟いた。知ってるよ、とうなずく。

 正直自信はなかった。でもここで、知らないとか無反応を返してしまったら、彼女がまたしぼんでいくんじゃないかと思ったのだ。そんな彼女を見たくなかった。これ以上暗い所に行かないでほしいと思った。なぜかは、わからない。

 ふと、放心したような彼女の目に涙が溜まっていくのが見えて、ぎょっとした。涙がふちギリギリで膨らんで、溢れそうなのを耐えている。

「ごめん、違うの。気にしないで」

 そう言って彼女は下唇を噛んだ。この前と同じ、彼女の琴線がわからない。早くその答えを知りたい気持ちが大きくなる。

「…あのね、私…一年生のころいじめられてたの。部活で」

まるで、いたずらがバレて罪を認める子どものようだった。

知らなかった。彼女がいじめられていたなんて。

教室で見る彼女は、静かで落ち着いていて、良くも悪くもあまり印象がなかったのだ。俺は彼女のことを何も知らないんだと、今さらながら痛感する。

左側でもう一つの影がもぞっと動いた。いじめ、なんて教師が一番聞きたくない単語だもんな。それは、自分の教え子に悲しい思いをしてほしくないとかいう良心的な理由もあるだろうが、処理が面倒だから関わりたくないという非情で怠慢な理由の方が割合としては大きいと思う。仲良しの仮面の下にはいくつもの曖昧で厳格なルールがあって、それを守れなければいとも簡単に仮面を剥奪されてしまうことを、大人は忘れている。自分だって、そのルールを遵守して、時には誰かを陥れる道具にして、大人になってきたんじゃないのか。

 大人が思ってるほど、子どもは大人じゃない。

「なんでいじめられるようになったかはわからなくて…気づいたら一人だった。一人なだけならまだいいんだけど、一年生も二年生も私に変なことしてくるようになって…。無視されたり、悪口言われたりは毎日だったし、他にもいろいろ。三年生とコーチがいる時には何もされないんだけど、練習の前と後がひどかったな。…一人で片付けしろって言われて、遅いと…みんなで、私を蹴るの…」

 話の中に休止符が増えていく。止まって進んでを繰り返しながら、彼女は語を紡ぐ。

「家にいないための部活だったのに、部活にも行きたくなくなった。こんなこと、もちろん誰にも言えなくて…。クラスの友達とかこれまで仲良かった子がなんとなく私を避けるのがわかって、味方がどこにもいなかった。親になんか言えるわけない。あんな人たちに頼るなら死んだ方がまし。みんなと同じ、朝起きて学校に行って勉強して部活して家に帰って寝るって、それだけで精一杯だった。何をしてても苦しくて、どこにも居場所なんかなくて、もう…早く、早くいなくなりたいって思ってた。朝も夜も来なければいいのに。なんで私だけ。お酒やめないお父さんも、そんな人と結婚したお母さんも、私をいじめる先輩も、それを見てるだけの人も、私が選んだんじゃないのに。どうして私だけこんな思いしなきゃいけないのって。…そのうち、みんな…死ねばいいのにって思うようになって…そんなこと考える自分が本当に嫌で…早く死にたかった…」

 うめき声に似た隙間風が彼女の言葉をさらっていった。頬を撫でた風がむずがゆくて手をやると、生ぬるく濡れた感触がする。それが何かわかっていたけど、隠すことも拭うこともしなかった。心臓の下で彼女と一緒に震えながら、同時に満たされていく未知の感情が気持ちよくて、このままでいたいと思った。

 彼女と俺の輪郭が重なっていく。

 他人に期待しないことが自分を守るために必要で、そうするには自分に鎧を被せるしかなかった。強い自分、完璧な自分、誰かが求めている自分でいなければ、自分を守れなかった。その鎧は案外脆くて、少しでも隙があれば攻撃には耐えられないことは知らなかったのだ。これさえ被っておけば大丈夫だと、鎧を磨くことに一生懸命だった。

 それが間違いだったなんて今でもあまり思えないけど、結果として鎧の下の自分は傷ついてしまった。

 俺たちは、どうすれば良かったんだろう。

「夏休み、…私、本当に死のうとしたの…。三年生が引退して、私をいじめる人たちとずっと一緒に居なきゃいけなくなって…それが最悪で。準備も片付けも私だけがやって、コーチにはやる気があると思われて気に入られて、それがまた反感買って…もう限界だった。朝いつも通りに家を出て、完璧に準備を終わらせてから死のうと思った。私はあんたらのせいで死んだんだよって、少しでも見せつけたくて…。どうやって死ぬとか全然考えてなかったけど、とりあえずそうしないと気が済まなくて。学校に向かうまでずっと、今日死ぬんだって考えながら歩いてた。…。でも怖いとかそういうのはなくて…。なんていうか、それしか方法はないって感じで…。自然と足が学校に向かってたっていうか…。ごめん、上手く言えないけど」

 わかるよ。

心と体と脳がばらばらになりながら、死に向かっていく感覚。恐怖もためらいもなくなって、何も考えずに自分を殺せるくらい、追い込まれてるんだよな。俺もそうだったから、わかるよ。

三カ月前の自分を思い出す。フェンスを乗り越えようとした体は、考えるより先に動いていた。

あの時彼女がいなかったら、俺はここにいない。

「でも、学校に着いたら…グラウンドに誰かいて…まだ七時前とかだったのに、一人で練習してて…それが、なんか目を離せなくて。すっごい楽しそうだったの。眩しかった。私と全然違うなって。同じ夏休みの部活なのに、私よりキラキラしてて、なんでかわかんないけど…わかんないんだけど、神様みたいって思ったの」

 一年生の夏休み。朝早く、一人でグラウンドで練習。

 心当たりがあった。二年前の記憶が蘇る。

 まだ太陽の光が淡い夏の朝、部活のある日はいつも、誰もいないグラウンドで彼を待っていた。その時間にさえ舞い上がって、一人で練習を始める俺に、またお前が先かよ、と口を尖らせてやって来る彼が好きだった。それから他の部員が来るまで、二人で向き合って動き回るのが本当に楽しかった。

 そんな俺のことを見ている人がいたなんて。

「そしたら、あんなに死にたかったのに、急に死ぬって選択肢が頭から消えて。この人だけが、私の絶対だって思ったの。…なんでかはわかんない。こういうの、わかってもらえるかわかんないけど」

 どこかでかちっと音がする。

 彼と一緒になくなった心や俺に開いた穴が、彼女の言葉で埋まっていく。

「それからずっと、神様のことが頭から離れなかった。いじめられても、家から追い出されても、もうどうでも良かった。…自分の中の絶対が決まっちゃえば、人間って生きていけるんだなって思った。夏休みが終わって学校が始まって、神様はみんなの人気者なんだって知った。勉強も運動もできて明るくて優しくて、完璧で、みんな神様を好きだった。私はいじめられて、学校の底辺で、神様とは身分が違ったから、好きになるのもおこがましいと思ってた。でも隣のクラスに神様がいるってことだけで、今日も学校に神様がいるって思うだけで、私には充分だった。

二年生になって同じクラスだって知った時は、信じられないくらい嬉しかったな…。いじめは大分おさまってたけど友達はいないし、お父さんもお酒を辞めてなかったけど、そんなこと忘れるくらい、嬉しかった。…神様に色んな噂が流れて、学校に来なくなった時も、すごく…なんていうか、混乱したんだけど、別に大丈夫だったっていうか…。噂が本当か確かめる方法は私にはなかったし、神様が学校から逃げたいならそれでも良かった。この場所に意味がないことはよく知ってるから。学校以外の場所で生きてるなら、それはそれで良かったの。生きててくれれば、全然。みんなに囲まれてる神様も良かったけど、一人で教室にいる神様をかっこいいとさえ思ってた。

だから、あの日、あなたを見かけて、すごく…ショックだった…。私の知ってる神様じゃなくて、ぼろぼろで、暗くて、違う人みたいだった。そんな神様は嫌だって。…すごい自分勝手だよね、私。自分でもびっくりした。…でも、でもっ…目の前で泣きじゃくるあなたを見てっ、この人は神様じゃないっ…人間なんだなって、お、思って…。お父さんとか、私をいじめる人とか…私とかと何も変わらない…人間だったんだって…。そしたら、今まで自分があなたにしてきたことが…申し訳なくなって…。ずっと神様だって遠くから見てるだけで、それって私がいじめられてるの見てるだけの人とか、私のお母さんとかと同じ、私が嫌いな人たちと同じことあなたにしてた…。一人ぼっちになったあなたを、助けようとしなかった…。それが、どんなに辛いか私は知ってるのに。何もしなかった。それでいいと思ってた。本当に…ごめんなさいっ。」

 顔をぐちゃぐちゃにしながら懺悔を繰り返す彼女に、首を横に振るのが精いっぱいだった。

 頭の中に整理しきれないほど言葉が渦巻いて、涙になって溢れていく。

 彼女を生かした俺と、俺を見捨てた彼女。

彼女を傷つけた俺と、俺を生かした彼女。

 もういいんだ。俺たちの罪は相殺されて、もうどこにもないよ。今ここで向かい合っている俺たち以外に、真実はないよ。

 だからもう謝らないでくれ。

「私、あれから毎日考えてた。私はどうすればいいのかって。三カ月もかかっちゃったけど。…あのね、私…さっき部活辞めてきたよ。高校も、家を出て寮に入るって決めた。私を傷つけるものから、逃げることにした。…私は…生きるよ。辛くても、苦しくても、逃げてもいいから、生きる。…あなたに救ってもらったから…誰かのために、死にたくない。自分のために生きたい」

 この三カ月、ずっと考えていた。

 彼女に肩を借りて家に帰ったあの夜からずっと。

 彼女にとって、俺は何なのだろうと。

 彼女からの答えは残酷なくらい尊くて、暗がりでいじけていたい俺を光の中へ連れて行こうとする。

 俺は、それが怖い。

「…自分のために生きるって、そんなのできないよ…」

 もう自分に失望なんてしたくない。

 完璧でも神様でもない自分と向き合って生きていくのは、誰かのために生きるよりもきっとずっと難しい。十四年間避けてきたことだから、尚更。

そのままの自分でいられる自信なんてない。他人の卑劣さから逃げて、自分の弱さに絶望して、あと何回傷つけばいいのだろう。もう被る鎧もないのに、どこかで身を隠せる方法を探してしまう気がする。

自分のままでいるなんて怖くてたまらない。

弱音を吐いて縮こまる俺に、彼女は涙を拭って足元の荷物を探り始めた。ふと見えたバッグの表面に、白で文字が書いてあったけれどほとんど剥がれて読めなかった。

「これ」

 そう言って彼女が差し出したのは、小さな玉だった。あの夜、俺が俺みたいだと言ったビー玉。ガラスのビンに閉じ込められていた透明の玉が、今は彼女の手の中にある。

 よく見るとビー玉は傷がついて、所々欠けていた。歪な球の輪郭を目でなぞる。

「これ、あげる」

 彼女がいつまでも動かない俺の手を取りビー玉を押し込む。その手は小さくて乾いていたけど、有無を言わせない力強さがあった。

 俺の手に収まったビー玉は、欠けた部分が皮膚を引っかいて存在を主張する。一点に集まった光が凛と輝いた。

「ビンを割ったの。ちょっと傷ついちゃったけど、取り出せたよ」

 あの夜のように、目を伏せ、俺の手を包む彼女はどこか幻想的で美しかった。儚く消えていきそうな雰囲気で、俺の手を掴んで離さない。

「神様じゃなくていいから、どんなあなたでもいいから、だから」

 まん丸の濡れた目が俺を射抜いた。

「こんな世界に私を置いていかないで」

 涙が雨のように頬に降りかかる。

 手の甲を濡らして、そこからしんわりと熱が広がっていく。ビー玉にもそれが届いて、心臓が動いたような温かさが掌に乗った。

 その言葉を待っていた。暗い部屋で一人、光の射す方を見つめながら、自分以外の誰かにそう言ってほしかった。

俺は俺のままでいいと。

枯れていた海に水が戻っていく。

こんな世界。

無意識に誰かを傷つけ、救うことができる世界。

大切な人に傷つけられ、思わぬ誰かに救われる世界。

惨めで無様で情けない自分が存在する世界。

こんな世界で、俺は生きていかなくてはならない。

それでもいいのかもしれない。大丈夫なのかもしれない。穴が開いて汚れた俺でも、認めてくれる人がここにいるから。

ビー玉は俺の手の中にある。

木が風にさあっと揺れる音が聞こえた。桜の花が散ったら、新しい季節が来る。

 俺はもう、傷だらけで完璧にはほど遠いけれど、それでも夏を迎える。

 太陽はすっかり沈んでいた。

 俺がうなずくと、彼女は笑った。


 先を急いで足を踏み出すたびに、手の中で小気味よい音がする。

 ついさっき飲み干した液体が甘く口の中に残って、どことなく懐かしさを運んでくる。

「あ、いたいた」

 人混みの先で、俺に向かって一つの手が左右に揺れている。

「ごめん、迷ってた」

 俺がその手に駆け寄って謝ると、からからと笑い声が返ってくる。

「急にいなくなんだもん。びっくりしたわ」

 顔の前で軽く手を合わせて、もう一度謝罪する。

「あ、ラムネ飲み終わった?」

 目線が俺の手の中に移って、どうやら俺の失態は許してもらえたようだ。

「うん」

「ゴミ箱どっかにないかな。ビンってこのまま捨てていいんだっけ」

「これ、取り出せるよ」

 ビンを少し振って、前に差し出す。その中に収まったビー玉が、濡れて柔らかく光る。

「え、そうだっけ?お前ちょっとぼーっとしてるとこあっからなぁ。ほんとかよ?」

 いたずらっぽく笑った表情が提灯に照らされて、心臓がとくんと鼓動する。

「ほんとだよ」

 どちらからともなく一歩目を踏み出すと、しっとりとした風が髪を揺らした。

「もう夏も終わりだなぁ」

 肩を並べて歩く道は、いつもより少しだけ明るかった。

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アイム・ノット・パーフェクト 瀬尾 三葉 @seosanpa

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