第335話 おやすみのキス
ローズウィルは不思議な気分だった。
横たわりながら視線を空に向ければ、冷血魔の追撃に向かうため巨大な推進炎を噴きながら飛翔するアウラの姿が見える。視線を少しずらすと、アンジェロが悲しみを表情に浮かべながら、どうして助けたのだと、ぬぐいきれない疑問をぶつけてきた。
「お前が……いったのでしょう?」
「え?」
「わたしが……冷たいと」
ローズウィルにとってはアンジェロの言葉は羞恥と怒りにも似た激情を呼び起こした。
相手の事をまるで考えていない、冷酷な愛。アンジェロを歌うためだけの機械に貶めても、レイジ様が喜んでくれると思った無慈悲な魂。
そんな自分がレイジ様に愛されるはずがないと……そう指摘されて腹を立てたが、同時にそうかもしれないと思っていた。
久しくレイジ様の笑顔を見ていない。
けっきょく贈り物ではあの人の笑顔を得ることはできなかった。
ローズウィルは誰かを笑顔にするやり方など知らなかった。周りにいたのは自分に媚びへつらいの笑顔を浮かべる大人ぐらいで、まごころを尽くして喜ばせようとする人なんかはいなかった。学ぶ機会はなかったのだ。
『お嬢様。
金銭で買えるものはこの世の大半を占めますが、決して金で贖えないものもあります。あなたはそこが良くお分かりでなかった』
今になって冷血魔の言葉が、実感できる。
「ほんとに欲しかったレイジ様の笑顔は、どれだけお金をつんでも得られなかった。
もし誰かに優しくなって……相手の事を考えるようになったら、少しはレイジ様がわたしに微笑んでくれるのかしら」
「そんな……」
「……言葉でどれだけ『優しくする』なんて言っても……行動が伴わなければただの絵空事。
……だから誰かに優しくしようと心に決めて、まず……わたしの
ちょっと失敗したかもしれないけど……」
アンジェロは言葉に詰まった。
思いのままにお嬢様に向けた怒りと悲しみ。その言葉を受けて、あの『上』の人間以外のすべての人間を虫けら程度にしか考えて居なかった彼女が、誰かに優しくしようと一歩を踏み出したのだ。
「お……お嬢様……!」
けれど、こんなのは違う、とアンジェロは思った。
ここまでしてくれなんて思っていない、自分の身代わりになって欲しいとか考えたこともない。こんな風に他者を慈しむ努力をしてみようと思い始めたその瞬間に、命を落とすなんて、残酷に過ぎる。
「脈拍が弱まってる?! なんでや?!」
「止血もした、造血剤も入れた。けれど……なにこれ、どうなってるの? なんで悪くなる?!」
応急処置をしていたアズサとマコの呻きが聞こえた。
切断されたローズウィルの片腕、傷口部分を手早く処置して包帯を巻き、回復剤を注射する。
けれどもローズウィルのバイタルデータは低下する一方だ。死に近づいているとわかったが対処法が分からない。この時代でもポロニウムは希少で、こんな毒物を受けた患者をどうやって治療すればいいのか誰も知らなかった。唯一そういう方面に強そうなのはサモンジ博士だが、肝心要のタイミングで不在だった。
「ユイト……なんだか眠いの……」
ローズウィルが言う。表示されるバイタルデータが意味するのは、彼女の体温が低下し続けていることだった。
ユイトの顔は青ざめてもう幽鬼のような顔と足取りで、応急処置を受けているローズウィルに近づいた。
彼の頭の中には強烈な後悔が渦巻いている。冷血魔の叩き付けてきたポロニウムの矢。生存本能のまま避けたそれが、巡り巡って彼女を殺す。己が捌いた流れ矢が……幼い頃の思い出の君を殺す。己自身への失望と後悔で、むしろユイトのほうが今にも死にそうな顔色をしている。
カレンに縋るような目を向けた。無言のまま首を横に振り、だめだと告げられた。
二人は秘匿回線で会話を始める。患者の症例などを当人に聞かせる位置で話した結果、容体が急激に悪化する事態があるのは彼女たちも知っているからだ。
『どうなってるんだ』
『ポロニウムの矢を受けたの。即、腕ごと除去したけど急激に容体が悪化してる。ネットワークに接続できれば診断できたかもだけど』
ユイトは無言のまま近寄る。
ローズウィルは両手を広げて、おいでと招くようなしぐさを見せた。包帯を巻かれた手が痛々しい。
「どうして……」
ユイトは言葉に詰まった。
アンジェロを助けたことは感謝するべきだろう。ユイトもアンジェロも殺そうとしたにっくき敵なのだから、ありがとうの一言でも添えて、敵の死を見送ればいい。
けれど……ユイトも、横で言葉に詰まるアンジェロも分かっている。
『上』以外の人間には冷淡な彼女だが、その性根は善良なのだ。生まれが、教育が、彼女を冷血な君主に育ててしまっただけで……他者を慈しむ心が無いわけではなかったのだ。
「だって……ユイト。アンジェロが死んだら泣くでしょう?
わたしはお前に散々迷惑をかけたし、本気の罠を張って殺そうとしたわ……どっちかというと、わたしが死んだほうが辛くないんじゃないかしら」
「そんな事ありません、お嬢様、ぼく、ぼくはそんなつもりで言ったんじゃ」
アンジェロは涙をこぼしながら、かつて仕えた主人に言葉をかけ続ける。話しかけ続けなければ、このまま永遠の午睡に堕ちていきそうで恐ろしくて仕方なかったのだ。そんなアンジェロを見上げながら、彼女は言う。
「ねぇ、ユイト……眠る前に」
これが最後の会話かもしれない。ユイトの体に震えが走る。
「おやすみのキスをして……」
一瞬、困ったような顔になってしまった。恋人であるカレンが目の前にいる。
だが、普通の時なら一も二もなく拒絶するだろう頼み事だったけれども……それが今にも身罷ろうという相手からの望みと思えば無碍にもできなかった。
死ぬ? こんなにもあっさりと? あまりにも事態が急変して頭が混乱する。
カレンに視線を向ければ、彼女は無言のまま小さく頷いた。
異様な生体反応にもう打つ手がないというのだろう。ユイトはそのまま彼女をアンジェロの代わりに支える。
唇をかすかに合わせるだけの軽い接吻を交わす。
体温差のせいだろうか、彼女の唇はまるで氷のようで。これが生者の肉体なのかと悲しみが涙になって溢れてくる。
そんなユイトを見上げながら……ローズウィルは視線を、横にいたカレンに向けた。
「下品乳……」
「……なによ」
「彼はお前のものだけど……。
だけど……この一瞬は、この口づけと涙だけは……わたしだけの……宝物よ」
その言葉を最後に。
バイタルデータの表示する心臓の鼓動音が消失。力を失った肉体がユイトの両腕にのしかかる。
ユイトは己の五体に吹きすさぶ悲しみに打たれながら、ゆっくりとその体を抱えて立ち上がる。
薔薇の花束の作り方を教えてくれた……幼い思い出の君はその心臓を止めた。
冷血魔の姿や気配は遠ざかり、窮地は去った。
だが兄の魂と、幼い思い出の君を失い、全身を悲しみに震わせる。
彼女だけは自分がこの手で、弔ってやらねばならない。
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