幕間 昔々あるところの話

「お母さん……」

「あらあら、お熱はどうかしら。具合はどう?」

「まだ、ちょっと気持ち悪い」

「そっか。じゃあお薬飲んでもうちょっと寝てよっか」

 幼子は母親の腕に引かれ、またベッドへと戻る。よく熱を出す、病弱な子どもだった。


 子どもの母親はベッドで寝込む彼のために薬を作る。彼女の薬は非常によく効くもので、幼子は口に苦いそれを我慢して飲んだ。雨が屋根にあたる音を聞きながら、幼子は言う。


「ねえ、お母さん」

「なあに?」

「お父さん、次に帰ってくるのはいつかなぁ」

「そうねえ……」

 母親は優しく一定のリズムで子どもをとんとんと叩く。雨音とあいまった心地よいリズムに幼い瞼が閉じていく。


「早く眠ったらそれだけ早く朝が来るわ。だから眠ってしまえば帰るまでの間なんてきっと一瞬よ」

「……ほんと? すぐ帰ってくる?」

「ええ。だからほら、もう眠ってしまいなさい」

「………うん、分かった」

 大人しく瞼を閉じた我が子を母親はそっと撫でる。

「いい子……。父さんと母さんの自慢の宝物」

 けれど健やかに眠る子に慈しみの眼差しを向けながら、母親はこう願わずにはいられなかった。

 

「――――――お願いだから、無事でいて」

 人ならざる彼女の伴侶。彼が彼女と子を逃がしてから一か月が立とうとしていた。


※※※


 昔むかし、ある所に。人ではない者たちが居ました。それは血を吸う鬼。日の光と銀に弱く、それでもなお恐ろしい生き物がいました。


 彼らは自らの血族を誇りに思っていました。鬼として、純血種であることはこれ以上なく立派な事だったからです。


 過去に数度、人間と過ちを犯した鬼たちもいました。人間との間に生まれた子どもは吸血鬼の居場所が分かる特異体質として生まれることも、長い歴史の中で十分に知っていました。

 

 人間の血で一族の血を穢すことなどはあってはならないことです。鬼たちは穢れた血を一滴も一族に残さないよう、念入りに契った彼らを始末します。これらも血を絶やさないため。穢れた血を混じらせないために。


 もし、吸血鬼と人間の間の子を逃したらどうなるか。


 彼らはきっと両親を殺した自分たちを見つけて殺しにくるだろうと鬼たちは恐れていました。だからこそ人間との間に生まれた子は、絶対に殺さなければならない掟がありました。

 

 長く生きる彼らは絶対にそれだけはあってはならないと決めていました。けれど長い長い歴史の中、たった一度間違いが起こってしまったのです。


 一人の若い吸血鬼と娘の、溺れるような恋の前では掟も血族も無意味な物でした。しかもその吸血鬼は、それがばれないように娘を匿いました。その上囮として追いかけてくる一族を娘と子どものところから遠く引き離してしまいました。


 こうして長い長い歴史の中で、もっとも恐れていたことが起こってしまいました。


※※※


「お母さん!」

「あら。薬草を取ってきてくれたの?」

「うん! ねえ、お薬作るとこ見ててもいい?」

「ふふっ。いいわよ。今日はお薬のお勉強もしましょうか」

 人も獣も、どちらも通らぬ山深く。母親と息子が二人で暮らしている。人ならざる者と交わって生まれた子どもはそれはそれは利発な子だった。


 彼女は彼の持ってきた薬草で傷に効く薬をこしらえる。薬を買いに行くわけにもいかない彼女は病気がちな息子のために薬を作って蓄えなければならなかった。

「いい? この薬草と薬草は混ぜては駄目よ」

「どうして?」

「これは麻酔のための薬草で、こっちは頭がぼんやりしちゃう薬草なの。混ぜて飲むととっても危険なのよ」

 子どもは薬草から漂う特有の甘い匂いに鼻をひくつかせながら、母親が手に持った薬草を交互に見る。

 

 子どもの成長は早いものだと、母親は思う。ぐんぐん知識を吸収する我が子を前に、彼女は早く自分の持つすべての知識を教えようと考えていた。


 薬草の見分け方に調合、生きていく上での知識。そして父親のことと彼から教わった秘術。

 

 帰ってこない夫の期間が一つ伸びるたびに、彼女の胸には確信めいた予感が膨らんでいった。きっともう、私も彼も長くは生きられない。けれどこの子だけは。


 母親に似て心優しく穏やかな少年だった。人間の体の血が濃いせいか、夫が話すダンピールの特徴はまるで見られない。


 けれど母親はそんなことどうでもよかった。彼のこれからが奪われさえしなければ、彼女自身はどうなっても構わないとさえ思っていた。自分たちの罪は、自分たちだけで、終わらせたいと願っていた。



 そして月も見えない夜。吸血鬼たちはようやく見つけた彼らを追いかける。ああ、時間が足りない。まだ秘術だって一つしか教えられていない。


 母親は驚き、泣く我が子の頭を撫でた。夫と同じように、大切な者を守るために。


「さあ、先に行きなさい。ガレナ、私たちの愛しい子」


 そう言って国へと送り出した息子ちは反対方向へと走りだす。こっちだ。こっちを見ろ。お前たちの獲物はここにいるぞ。血を吐くようにそう叫びながら。


※※※


 吸血鬼たちは結局、娘が逃がした子どもを捕らえることはできませんでした。しかし誰かが言います。


「あんなに弱い人間の子どもだ。きっとどこかでくたばっているにちがいない」


 吸血鬼たちはそれに頷き、また静かに暮らし始めました。ほんの数百年に一度、森に迷い込んだ人間の血をすすりながら。そうして皆の頭から取り逃したダンピールなどいなくなってしまった頃。

 

 あの子どもは現れました。ずっと昔より大きくなって、部下をたくさん従えながら、驚く吸血鬼たちに向ってこう言ったのです。


 「やっと見つけた」と。


 逃げのびた子どもは教会に駆け込み、そこで時間をかけてのし上がっていきました。異端者である彼を蔑む者もいました。それでも彼は必死に食らいつき、そしてとうとう頂点へとたどり着いたのです。


 大きくなった子どもは新しい宗教を作りました。長く生きているうちに、前の宗派を知っている人はようやくいなくなったので新しい神話と神様を作りました。


 教えてもらった秘術を使いながら、神の力を信じさせました。


 偉くなった子どもは、日の光で身動きの取れない吸血鬼たちに言いました。

「まずは貴方たちから、復讐することにしました」


 自分の中に流れる吸血鬼という種族が純血を重んじる種族だと彼は知っていました。そのせいで父も母も、殺されたのだと知っていました。彼は、そんな勝手で大切な家族を殺した吸血鬼が憎くて憎くて憎くて憎くて仕方がなかったので―――。


 彼らが大事に大事にしている血筋を、全部絶やしてやろうと思ったのです。


 こうしてまず初めに、ダンピールを殺す掟に忠実な吸血鬼たちが宝石になりました。けれど、まだ吸血鬼は残っています。


 彼は吸血鬼が憎くて憎くてしかたがなかったのです。

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