幕間 それは恋と言うには幼すぎた

 王族の女は皆短命だ。それは女神が美しい娘に嫉妬して彼女たちの魂を弱らせてしまうから、らしい。だから王族は代々男性的ともいえる名前を女性につけて来た。それは彼女らが生きながらえるための、一種の呪いのようなものだ。


※※※

 

 王の子どもと言うだけで、彼女は大人たちの視線から逃れることはできなかった。

 

「自分の息子と婚約をさせれば王族の仲間入りだ」

「まだ幼いから何も分からないだろう。今のうちに取り入ってやろう」

「もしこいつが男を産めば、そいつが次期王になることだって夢じゃない」

 

 それらはいつも善人の皮を被って彼女の前に現れた。手土産を用意する者。遊び相手にと言って息子を紹介する者。欲しいものはないかと声をかけてくる者。


 そのどれもが彼女ではなく、彼女を通した先の「王族」を見ていた。

 

 名前でなく「王のご息女」と呼ばれながら、彼女は城の外に出ることも考えないまま、絵物語をまた一つ開く。それは何度も何度も繰り返し読んだ、お姫様と王子様の美しい夢物語り。


 姫とはこうあるべきと何度も読み聞かされたおとぎ話。


※※※

 

「あ! アダム、こっちだよ」

「………ルネ」

「今日は何して遊ぶ?」

「……おままごと」


 日に照らされて輝く銀の髪。緑の目は穏やかにほほ笑んでいる。真昼は眠っているのだという吸血鬼の集落は、それは静かな午後だった。

 

 起きているのは娘と、人間と吸血鬼の混血児。それから彼女の父親だけ。彼女がやってきたのを見てルネは笑う。もう今日の遊びは決まっていた。


「おや、いらっしゃいアダム。ルネ、あまり無理をさせてはいけないよ」

「はーい! いこ、アダム」

 娘は暇があればここに来て、遊んだ。草を編み、花を摘み冠を作る。草の実をちぎって盛り付ける。


 年の離れた兄たちは勉強に忙しく娘と遊ぶことなどない。父は元より、母は娘を産んだ直後に亡くなった。 使用人は娘が草で遊ぶなど許しはしない。植物の汁に毒でも混じっていたらどうするんだと目を吊り上げて怒るのだ。


 その𠮟責の裏にはいつも怯えがあった。彼らが何より恐れるのは娘の心身でなく、その奥に立つ王の怒りだった。


 ルネと遊ぶことは娘の心を躍らせた。ただ走るだけで、植物や石を別の物に見たてて遊ぶことがここまで楽しいとは彼女も予想外だったのだ。


 その中でもとりわけ彼女が気に入ったのはおままごとというごっこ遊びだった。


「アダムはおままごと好きだよね。今日は誰やる?」

「……お父さんがいい」

 そこではどんな者にでもなれた。王族ではない子どもにも父親にも母親にも。身分に縛られずにどんな役にもなれる。それがなによりの楽しみだった。


 一度だけ、娘は聞いたことがある。それは何回目かの来訪で、王が「貴様に期待するのはもうやめにした」と言い放った時だった。


「ルネは、大きくなるのが怖くないの」

「ううん。アダムは怖い?」

「……怖いよ。なりたくないものに、どんどん近づいていくんだもの」

 娘は膝を抱えながら言った。自分はどんどん大きくなって、目の前の一本の道から降りることは叶わなくなるのだと。


 願われた通り、絵物語の姫のようになっていくのだ。優しく柔らかく従順で、大人しく誰かの助けを待っている彼女に。けれど、ルネは娘に言う。


「え、なりたくないならならなくてもいいじゃん」


 あまりの言葉に娘は目を丸くした。きょとんとした表情で娘は聞き返す。

「……そうなの?」

「そうだよ。だってアダムが決めるんでしょ。ならアダムが嫌だったら駄目だよ」

 目の間に掛けられた幕をさっと取り払われたような心地だった。ルネは日差しを浴びながら続けて言う。


「昔はダンピールってだけで殺されたり追い出されたりしたんだって」

 純血を尊ぶ吸血鬼は人間の血が混ざった雑種を忌み嫌う。ダンピールは吸血鬼の居場所を探知できるからいずれ自分たちを殺しに来るだろうと、生まれて間もないダンピールの命を奪うなんてよくあったことだとルネは言った。


「でも最近はそんなこともなくなって、私はずっとここにいられる。ダンピールは私しかいないけど、でも生きてるってすっごくラッキーだと思うから」

 だから好きなものにならなきゃ損だよ! なんて。そう言って笑う彼女が眩しかった。まるで美しい綺羅星きらぼしが、手の中に落ちてきたようなそんな心地。

 

 その声が弾むように名前を呼ぶのが好きだ。その目がこちらを向いた瞬間ぱっとほころぶように笑うのが好きだ。その目で、その声で永遠に私を捕らえてほしい。

 

 一般的に恋と言えるはずの感情を理解するには、娘はあまりに幼かった。だから彼女は無邪気に永遠を願う。この楽しい時間が明日も明後日もずっと続くのだと。

 

 けれど時間が経てば関係が変わっていくように、いずれの別れがある。

 

 自分を見てくれる誰かがいる喜びを知ってしまったからには、それがなくなることがなにより恐ろしい。


 だから娘は自分の元にずっとずっといてもらおうと思ったのだ。本当に永遠にしてしまおう。そうすればずっとずっと楽しいままに違いないから。


※※※

 

 愛とは、美しくあるべきものだとアダムは思う。ルネが城を去った後、自分にあてがわれた部屋で彼女は懐かしい絵本を手に取っていた。

 

 王子と姫が結ばれる物語。

 

 愛とはこの本のように美しくあるべきだと、そう思っていた。


 けれど彼女にふさわしい自分であれるように身なりを整えても、あの子を幸せにするための王子様になり切っても。


 いくら見た目を繕おうと、どろりとした感情があふれ出る。真綿でくるむような優しいものだけを与えたい。とろけるように甘やかに、ずっとずっと優しくしてあげたい。


 けれどそれと同じくらい傷つけたい。


 泣きわめく彼女に歯形をつけて、痛みを与えて、血が滲むほどの爪痕をつけてやりたい。恨みと憎しみのこもった目で、ずっと僕を見ていてほしい。




 アダムのは、酷く歪だった。それは相手の何もかもを無視する傲慢さ。美しさも柔らかさも恨みも怒りも、血も肉も汚物に至るまで全てひっくるめて抱きしめるかのような勝手さ。

 

 相手のすべてを自分に向けたいという欲深さ。


 それらがごちゃませに煮立ったような感情のスープ。その感情に上手く折り合いをつける方法など、誰も教えはしなかった。


「……君は僕を待ってはくれない、か」


 子どものまま、永遠を手に入れた姫君は閉まった扉の前でそうぽつりとつぶやいた。

「ミメット」

「はっ」

 彼女の呼び声に女は音もなく現れる。きらびやかな金の髪を持った、彼女が死ねと言えば今ここで命を絶つほどに狂信的な眼差しを向けてくる女。


「何か、御用でしょうか」

 お前を拾った理由が、あの子と対の金の髪だったからなんて僕が言ったらきっとこの女は憤死するに違いない。そう思いながらアダムは三日月のように美しい傍付きの暗殺者を見た。


 王の娘に生まれてから、暗殺に誘拐なんて両手で数えきれないほど受けてきた。そのたびに彼女が拾ったこの孤児はそれらを引きちぎり、目も当てられないようなやり方で始末してきた。


 アダムを、仕えるべきお方だとまっすぐな目で見つめながらおざなりな扱いすらも陶酔したように受け入れる。


 彼女を蝕むような、片目を埋め込んだ元凶は目の前にいると言うのに。


「ミメット」

「はい」

「僕が死ねと言ったら死ぬのかい」

 その言葉に片目を失っているにも関わらす、彼女は強い眼差しで彼女を見据える。傍から見ればアダムの試すようにかける言葉はミメットからの信頼を測る行為そのものだった。


 美しい、毒の三日月はその言葉を受けた瞬間に懐のナイフを自身の首筋に突き付けた。先端が肉に食い込み、赤い筋をつうっと垂らす。


「貴方様が私をいらないとおっしゃるのなら、いつでも」

 

 冗談などを言っているわけではない。彼女は死ねと言えば今すぐにでも喉に突き刺して死ぬのだろう。アダムは思う。この世で一番信用できるのは純粋無垢に命を握らせる存在だけだ。


「そうか」

 アダムは手を伸ばす。細い指先がミメットの晒された喉を伝い、真っ赤な雫を指ですくい上げていく。その感触がこそばゆいのか表情の崩れなかった暗殺者の口がはくりと動き、控えめな喘ぎ声を部屋に響かせた。


 赤く濡れた指をアダムは迷うことなく口に含んだ。溢れかえる鉄の味も肉のしょっぱさも、お世辞にも美味しいとは言えない。けれどそれをこくりと飲み干して、アダムは言った。


「片目は、壊れてしまったね」

「も、申し訳ありません。アダム様から頂いたものを壊すなど、一生の不覚を」

「いいよ。そうだな、今度はもっと痛くないやつをつけてあげる」 

 彼女の笑みに冷たい三日月が融けるような顔に変わっていく。今だ口の中に残る血の味を気持ち悪く感じながら、アダムはそんな自分に辟易する。


 ねっとりとまとわりつく嫌な風味は、真似事をしても結局本質は人間なのだとそう突き付けられているようだった。決してあの美しい銀の彼女と同じ時間を生きれるわけがないのだと、そう言い聞かせるようだった。


 すっかり暗くなった窓枠から冷たい風が吹き抜ける。人の道を外れたい姫君と、彼女と交わるようにしなだれかかった三日月を、すっかり暮れた夜だけが見ていた。 

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