塩原電鉄ロマンス物語
ナトリウム
第503列車 特急しおばら3号 電鉄宇都宮→塩原温泉
「おおー!すごいね~」
茶髪のショートを揺らしながら嬉しそうにパシャパシャとシャッターを切る彼女に、こちらも微笑ましくなる。
ここは栃木県宇都宮市。さっき東京から新幹線のやまびこ号で着いたところだ。彼女に引き連れられるようにJRの駅を出て、歩行者デッキの右端を降りたところにあった別の宇都宮駅(電鉄宇都宮駅?と書いてあった)にやって来た。なんでもここからは私鉄に乗り換えるそうだ。彼女は僕を後目に窓口でテキパキと2人分の切符を購入すると、改札を通って停まっていた特急電車に乗り込んだ。そして一番先頭にあるこの「特別個室」に意気揚々と足を踏み入れたのだった。
「10時打ちして取れてよかったよー、あたし前1人で来たときは埋まってて乗れなかったんだよね」
「子どもの頃ロマンスカーの展望席の2列目くらいに乗せてもらったことあるけど、こんな個室になってる電車あるんだね。僕もわくわくしてきた」
「そう!前面展望席が個室になってる車両は日本でこの塩電800形だけなんだよ」
目を光らせながら子どものようにはしゃぐ彼女、名前は由里という。去年ゼミの飲み会で仲良くなり、ひと月ほどして付き合うようになった。勇気を振り絞って告白した僕に「いいよ!よろしくね!」と拍子抜けするほど軽く返事されたことが今でも思い出される。要領と面倒見がよく大雑把な性格が、彼女いない歴=年齢だった僕にも一緒に居て居心地が良いと思え、そのまま告白した。今思えば友情と恋愛を履き違えていたのではないかとも感じるが、まあ結果的に上手く行っているのでいいとしよう。
そんな彼女だが、一言で言い表すなら「鉄道オタク」だ。付き合う前から薄々感じてはいたが、恋人になってみると想像以上に“ガチ”だった。以前はバイト代のほぼ全てを鉄道旅行につぎ込んでいたらしい。僕という恋人ができて色々とセーブするつもりだったみたいだが、僕のために自分の好きなことを我慢してもらうのは何か違う気がしたし、何より趣味に楽しそうにしている彼女が僕も好きだったので、そういう遠慮はしなくていいと伝えた。結果、今日みたいにデートにはほぼ乗り鉄が組み込まれるようになったが、色々な場所に行くことは僕も楽しいので特に不満は無かった。それにやっぱり、子どもみたいに心の底から楽しそうにしている彼女を見れるのは嬉しい。
そんなふうに個室内の写真を撮りまくる由里を微笑ましく見守っていると、一通り満足したらしく彼女は一旦カメラの電源を切った。
「ごめんね待たせちゃって。座ろっか」
それぞれのリュックを入口すぐ右の荷物台に置き、ソファに腰を下ろした。個室内には2人掛けのソファがL字に2つ置かれており、僕は横向きの、由里は前向きの方に座った。
「おお、ちゃんとソファだ。ふかふか」
「だねえ!バブルの香りですなあ」
由里の言葉的にこの電車はバブルの頃に造られたらしい。確かに言われてみると、めちゃくちゃでかい展望窓、濃い色の絨毯敷きや緑のガラステーブルといった調度品は一昔前の雰囲気だ。そんな室内を見渡していると、窓の外からかすかに発車ベルの音が聞こえてきた。
由里もその音に気付きスマホの時計に視線を落とす。「お、10時になるね。いよいよ発車だ」
個室だから物音があまり聞こえないが、ベルが終わりドアの閉まった気配がすると、ファン!と警笛を一吹きして車窓が動き出した。
「うおー、すごい迫力…!」
ほぼガラス張りとまで言える個室の大きな窓から、先頭を突き進む車窓が広がる。すぐ目の前まで線路が迫ってきて、さながら運転士気分だ。始発駅を出た電車はしばらくゆっくり走っていたが、やがて加速し始めた。
「すごいねこれ。普通にめっちゃ楽しいな」
「でしょ!キミにも絶対楽しんでもらえると思って」
ふいなはにかみにどきっとする。電車しか見ていないようでいてちゃんと僕の方も向いてくれていることにくすぐったいような嬉しさを感じた。
二つ目の駅を通過するところで、上り電車とすれ違った。見慣れないシルバーの2両編成で、あっという間に右後ろに去っていく。
「今の車両キミも乗ったことあるかもしれないよ」
「え?そうなの、初めて見る電車だと思ったけど」
「ちょっと前まで東横線で走ってたやつなんだ。改造されてるから見た目だいぶ変わってるけど」
「へえー!別の会社に行くことなんてあるんだ」
「そう、電車は高いからね。中古車ってこと」
由里は確かにオタクではあるが、僕があまり置いてけぼりにならないように平易な言葉で説明してくれるのがありがたい。
電車は住宅地の中を走っている。右に威圧感のある高架橋がずっと並行しているが、これは新幹線だろうか。と、ちょうど線路が右にカーブしてその新幹線をくぐった。
この電車は特急なのでほとんどの駅を飛ばす。もう次の通過駅が見えてきたな―と突然由里が声をあげた。
「えっ!まじ!?」
彼女は慌ててカメラを手に取ると、通過駅で行き違い待ちをしている電車を連写で撮りまくった。
何が起きたのかよく分かっていない僕をよそに、写真を確かめながら満足そうに頷く由里。「500形今日動いてるんだ…いやーいいもん見たなあ」
「今の電車そんなに珍しかったの」
「そんなに珍しかったの!ガチャで言うならSSレアって感じ」
なるほどそれならテンションが上がるのも頷ける。突然オタクになったのとガチャに喩えたのがどこかおかしくてくすっと笑ってしまった。
発車してから10分ほど経ち、住宅地と田んぼが続く車窓にも少し慣れてきてほっと一息つく。由里もソファでくつろぎながら展望を楽しんでいる。
「高いところを走るんだね。眺めいいねえ」
呟くと由里が応える。「この辺は盛土なんだよね。昔は鬼怒川からの洪水が多かったからこういう造りにしたってウィキペディアに書いてあった」
「へえー…」
由里は結構何でも知っていると思う。鉄道オタクと言っても色々いると思うが、その中でも割と知識を溜め込んでいる方な気がする。少し前に大宮の鉄道博物館に行ったときは、専属学芸員のようになってくれていた。
「そうだ、さっき買ったお菓子食べようよ」
ふいに思い出し、言いながら僕はリュックからポッキーやじゃがりこの入ったレジ袋を取り出す。ガラステーブルに置くと、由里がポッキーに手を伸ばした。
「なんかこうしてると『旅行』って感じでいいね。あたし1人で乗り鉄してるときはお菓子とか食べないし」
「確かにポッキーとかは1人で買って食べるイメージ無いなあ」
箱を開け袋を開けると、由里はポッキーを1本取り出し僕に差し向けた。「はいどーぞ」
よく臆面もなくそんなムーブができるな…と思いつつ、確かに個室なら誰も見ていないしなと彼女の指からポッキーを頂いた。
馴染み深いチョコとクッキーの味に、確かに由里の言う通り旅行気分が盛り上がってきた。展望電車で既に楽しいが、僕らはこれから塩原温泉の豪勢なホテルに泊まりに行くのだ。泊まりがけの旅行なんて二年振りくらいだろうか。ましてや由里とは初めてだった。
温泉旅行、和室、浴衣…そんなイメージがふいに脳裏をよぎり、何だか緊張してきた。小柄で控えめな彼女の体型なら浴衣が似合うだろうな、とか、夕食から帰ってきたら部屋に布団が並べて敷かれているのだろうか、と照れ臭い想像ばかり頭の中に思い浮かぶ。
そんな妄想を振り切るように僕は口を開く。「そういえばさっき切符立て替えてくれたんだよね。いま精算してもいい?」
じゃがりこをくわえながら頷く由里。「いいよ。んっと、フリーきっぷが4460円、特急券が330円の個室が2人で2200円だから…」
「6000円か」
財布からその額を手渡す。由里が小銭を探り始めたのでかぶりを振る。「いいよいいよ細かいお釣りは」
「じゃあお言葉に甘えて」
財布をしまうと電車の走行音が変わった。車窓に目を向けると橋を渡り始めている。由里がさっき言っていた鬼怒川だろうか、左手には川上の山々が連なっている。遠くに来たなあと改めて実感する。
お菓子を食べながら車窓を眺めながら、しばし無言が続く。でも、それが苦にならないのが彼女との関係で好きなところだった。友達であってもふいに沈黙してしまうと何か話さなければと焦ってしまいがちだが、由里と2人のときはそういうことが無い。互いに黙っていても気まずくならず、ただそばにいてぼうっとしているだけで良いと思えるような関係がすごく居心地が良かった。
何本目かのポッキーを食べ終えた由里がふいに立ち上がった。「トイレ行ってくる」
この電車にトイレが付いていること自体僕は知らなかったのだが、以前もこの路線に乗りに来たという彼女にとっては勝手知ったるというところなのだろう。個室を出ていく彼女を見送ると、ガタンゴトンと走行音が響くだけの静かな室内に1人になった。
―惚気だという自覚はあるが、ことあるごとに由里が彼女になってくれて幸せだと感じる一方で、彼女の方はどうなんだろうという一抹の不安が掠めることがあった。鉄道の話ができるわけでもない、ただの陰キャな僕が彼氏で本当に良いのだろうか、と。もちろん彼女を手放したくはないが、彼女にとって僕がどう見えているのか自信がなくなるときがあることを否めなかった。
右側から別の線路が近づいてきて並走し始めた。由里がいないのでグーグルマップで確かめてみると、しばらく宇都宮線とくっついて走るらしい。
「あ、おかえり」
個室に戻って来た由里は、突然僕の座る横向きソファのすぐ隣に腰を下ろした。
「どうしたの」
ふわりとただよう甘い香りにどきりとしつつ尋ねるが、由里は何も言わない。心なし耳が赤いような気がする。身体の中にじんわりと幸福感が広がっていくのを感じる。
ギギー、とブレーキの音を残して特急電車は最初の停車駅に停まった。矢板、と書いてある。人気の少ないホームを眺めながら、僕も彼女も何も言わない。しばらくして電車は動き出す。と、ふいに由里が口を開く。
「…楽しい?」
一瞬戸惑いながらもすぐに応える。「楽しいよ、すごく。今日は連れてきてくれてありがとう」
彼女は何も言わない。今度は僕が切り出す。
「由里の方こそ、…僕と一緒で良かった?」
彼女は驚いた表情でこちらを向いた。「良いに決まってるじゃん!」
女々しいとは思いつつ、僕は不安を口にした。
「…僕は鉄道は詳しくないし、特に取り柄もないと思ってて。由里が良い彼女過ぎて、なんか僕にはもったいないんじゃないかって思っちゃってさ」
電車はトンネルに入る。暗闇に窓ガラスが鏡となって、ソファに並ぶ2人の姿が写し出される。しかし数秒でトンネルを抜け、視界が開けた。
「…あたしさ、嬉しかったんだ。キミがあたしのこと…特にこの趣味のことを受け入れてくれて」
確かに、女の子で電車好きはあまり聞かない。女子グループの中ではもちろん、仲良くしたい人にはむしろ言い出しづらかったのかもしれない。
「いつも連れ回しちゃってるけど、嫌な顔ひとつせずに楽しんでくれることもすごく嬉しいし」
「嫌な顔も何も、嫌だと思ったことなんてないよ」
彼女は微笑む。「周りの目が気にならないって言ったら嘘になるけど、でもやっぱり好きなことを追いかけてるときが一番ありのままのあたしって感じなんだ。だから、ありのままでそばに居られるキミが、彼氏でいてくれて良かったって思ってる」
電車は再び橋を渡る。大きな展望窓に広がる晴れ渡った青空。さっきまでのちっぽけな悩みが嘘のように、隣に座る彼女の温もりを自然に受け入れることができた。
「ね、キミもあっちのソファ行こうよ」
由里が僕の手を取って立ち上がる。さっきまで彼女が座っていた前向きの方のソファに、並んで腰掛ける。田畑の広がる中を塩原温泉がある山に向かって特急電車は真っ直ぐ走っていく。そんな旅先の車窓を彼女と並んで眺めている今が、言いようもなく嬉しかった。
ふいに、こてん、と彼女が頭を僕の左肩に載せた。彼女の髪が頬に触れる。
「…この電車、“ロマンスカー”って言われることもあるんだよね」
「え?小田急線の?」
「ううん、それとは別に、…説明するのが難しいんだけど、そういう型式というか。2人掛けの座席に間の肘掛が無くて、2人が並んで座るタイプを“ロマンスシート”、そういう車両のことを“ロマンスカー”って言うんだ」
「へえ…」
小田急のロマンスカーも言われてみれば確かに変わったネーミングだが、そんな由来があったとは。
「そんな名前の車両だから、いつか恋人と並んで乗るのが昔からちょっと憧れだったのよね」
そう言うと由里はそのままこちらを向いた。目の前で彼女の鼻筋の通った顔が悪戯っぽい笑みに破顔する。「叶っちゃった」
―思わず抱き寄せてしまいそうになるが、ちょうどすれ違った上りの特急の展望窓から見えてしまいそうだったので思いとどまった。
細かい能書きなんてどうでもいいことを僕は悟った。ただ僕が彼女を好きで、彼女もまた僕を好きでいてくれる、結局のところそれだけが必要十分なのだ。そしてそれが叶っている今、僕の彼女は世界一かわいくて、僕は世界一の幸せ者だと胸を張って思えるのだった…。
今までよりずっと近い距離で並びながら、僕たちは残りの乗車時間を過ごした。関谷という駅を出ると電車は森のジェットコースターのような急カーブを車輪を軋ませながら登り、やがて塩原ハイランド牧場の観覧車を横目に過ぎると、しばらくして長いトンネルに入った。さっきまでとは打って変わって緩やかな線形の線路を飛ばしながら、壁に等間隔に設置された蛍光灯が流れていくのはどこかの遊園地で乗った近未来的なアトラクションを思い出す。
「ここの区間はバブルのときに開通した新しい区間なんだ。だから線形が良い」
薄々感じていた疑問を訊く前に由里が答えてくれた。
5,6分して目の前が明るくなり、福渡という駅に着いた。そこを出てもう一つ尾根をトンネルで抜けると、いよいよ特急電車は終点の塩原温泉駅にたどり着く。そろそろとホームに滑り込み、ギギ、と軽い衝撃を残して停車した。
「ちょっと名残惜しいね」
ちょうど由里も同じ感想を抱いていた。「でもすごく楽しかった」
2人で立ち上がり、荷物置きのリュックを背負う。個室を出ようとしたところで、由里が右手を伸ばしてきた。ぶっきらぼうな仕草は照れ隠しだろう。
僕は口元を緩め、彼女の右手を左手で握り返し、僕たちは特別個室を後にした。
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