13話 相対速度0方程式
13話 相対速度0方程式
僕は萌衣と連絡を取り合うのを止めていた。
数日前、僕は萌衣と初めてお出かけをした。当然僕たちはお互いのために関係式を立式させているだけであって、彼氏彼女の関係ではない。
僕が小さい頃によく行った鴨川の水族館に萌衣を連れてきた。鴨川ツーワールドは昔も今もほとんど変わらない。海から届く潮風が夏の暑さを飛ばしていく。
「うわぁぁぁやめてってば」
「ほれほれ」
僕はナマコを萌衣の手に乗せる。ナマコが萌衣に弾かれてちゃぽんと音を立てて水槽に落ちる。ナマコはうねりながらゆっくり離れていく。
「ナマコ可哀想だろ」
「人間に触られる方が嫌だと思うけど。ナマコの気持ちになってみなよ。私とナマコの立場逆だったらナマコに触られるのは絶対嫌だ」
口喧嘩をする僕たちの横で、女の子がナマコを触っていた。女の子は初めて触ったナマコの感触に嬉しそうだった。怯える萌衣にナマコを差し出す。
「お姉ちゃん、ナマコ嬉しそうだよ」
「ほら、こんな小さな女の子も触ってるんだよ」
萌衣はナマコに人差し指で触れた。
「やっぱり無理ぃぃぃ!」
萌衣は走って逃げていく。女の子はナマコを右の手や左の手にピチピチと投げて遊んでいる。
…確かになんかナマコが可哀想だ。
「ナマコ可愛いのにね」
「そうだよね。ごめんね」
「大丈夫!お兄さん、彼女を大切にね!」
僕は苦笑いして萌衣の後を追いかける。ナマコ、頑張れ。
・・・・・・・
続いて僕らはシャチのショーに来た。シャチのショーを見ることが出来るのは、ここを含め2箇所しかない。鴨川ツーワールドのメインイベントと言っても過言では無い。カッパを着る子どもたちに混ざる。
シャチが水中から飛び跳ね、空中のボールをしっぽで叩く。観客席から拍手が聞こえる。そして飼育員とのキャッチボール。僕でもできそうだ。シャチは餌を貰って嬉しそうに泳ぎ回る。
「おぉすごい、すごいね、奏斗」
「まだまだ、これからが本番だよ」
楽しそうな萌衣の横顔を見て安心した。萌衣から話したいことがあると誘われたが、行き先は僕が決めた。本当は鴨川ツーワールドの近くにある心霊スポット「行川ビーランド」に行きたかったが、僕が怖かったので辞めた。
「では最後にシャチからの挨拶があるそうです!」
「奏斗、嫌な予感するんだけど」
「なんの事?」
ザワザワする周囲の温度感。その変化に萌衣は辺りを見渡す。僕はニコりと笑う。トレーナーの合図とともにシャチがこちらにやってくる。尻尾をこちらに向ける。
「ではお別れの挨拶です」
そしてシャチはその尻尾を振り下ろした。大量の水が客席にかかる。子どもたちの嬉しそうな悲鳴。僕の楽しい叫び声。萌衣の心からの悲鳴。
…僕はこの後散々怒られた。
・・・・・・
「特盛カレーで」
「そんなにお腹入る?」
「私を騙した罰だからね。奢ってもらうよ」
「分かったよ」
萌衣と付き合い始めてから2ヶ月。それまで、お互いに進展はなかった。これでもよいという感情と、進まなければならないという感情が入り交じっていた。
「本当は玲と来たかったとか思ってる?というか今日も玲を私に重ねて見てる?」
萌衣は、特盛カツカレーを口いっぱいに頬張りながら聞いてきた。僕は素直に答えることにした。
「いや。萌衣がここなら楽しめそうかなって考えて連れてきた」
萌衣と方程式を立式した際、僕が玲を重ねていたのは事実だ。それは萌衣も同じだろう。萌衣と関わる度に「玲だったら…」と想像を張り巡らせていた。
しかし、最近では萌衣を1人の人間として見ている。ここに連れてきたのも、玲と来たかったからではなく、萌衣が楽しめそうだったから連れてきた。
萌衣は口の動きを止めて目を丸くする。その感情が分からずに探ろうとするも、その解が出る前に萌衣が自身の感情をかき消した。萌衣は、カレーを大量に含み、むせて水を飲む。
「何それ。じゃ今日の私は私で居ていいってこと?」
「今までだってこれからだって萌衣は萌衣だよ。玲は玲。玲とだったらあんなにびしょ濡れになる席に座らせない」
「むー。何それ」
カツカレーは、昔食べた味から何も変わっていない。サクサクのカツとトロトロのカレーのミックスがたまらなく美味しかった。
「でも嬉しかったかも。奏斗が私を私として捉えてくれているのが」
僕はその想いに気づいてはいけないと思って萌衣を直接見れなかった。お互いのルールの相対速度が0になってはいけない。僕は玲と付き合うために萌衣を利用して、萌衣は徹と付き合うために僕を利用する。そういう約束だ。
僕は丁寧に言葉を選ぶ。
「僕の方こそありがとう。自分の想いを伝えるために頑張ろう」
萌衣から貰った食べかけのカレーは、同じ辛さのはずなのに、少しだけ、ほんの少しだけ、甘く感じた。
・・・・・・・・・
帰りの高速バスの中、身体が触れるか触れないかぐらいのギリギリの距離を取って座る。バスが揺れると互いの身体が触れるが、僕は遠慮してか必死に身体を離す。
「ねぇ、奏斗」
萌衣が僕を呼んだ。萌衣の方を見ると、萌衣は目を閉じていた。
「私ね、徹に正直な気持ちを言おうと思うんだ。体育祭、同じ組になれたしチャンスかなって思って」
萌衣は前進しようとしていた。僕は少し複雑な気持ちになるが決意を固める。恐らくこれを言うために僕と会ったのだろう。
「うん。何も手伝えなくてごめん」
「ううん。そんなことないよ。奏斗にはすごい勇気を貰った。奏斗と一緒にいると迷うときがあるんだよね。このまま奏斗と一緒にいた方が楽しいなって。でも必死にそれは違うって心に言い続けてきた。だって奏斗の好きな人は…」
萌衣は小さな寝息を立ててよりかかってきた。僕は拒みもせずに萌衣を受け入れた。深い眠りに入る前に萌衣は口にした。
「ごめんね。奏斗…」
萌衣の言葉の意味が分からなかった。なんで萌衣は僕に謝ったのだろう。僕は窓から外を見つめる。
(僕も勇気を出さないとなぁ)
僕は萌衣の身体の重みを受け止めて、背もたれに僕自身の身体を授け、目を閉じた。
・・・・・・・
だから僕らは、互いに連絡を取ることを辞めることにした。
「徹に気持ち伝えられたら報告するね」
「うまくいったら連絡しなくてもいいからね。本当に何も手伝えなくてごめん」
萌衣は首を横に振った。覚悟を決めた萌衣の顔は清々しい表情をしていた。
「充分だよ。奏斗には感謝している。これは私にとって区切りでもあるんだよ。もし失敗したら…」
その先の言葉に詰まった萌衣。僕は笑顔で返す。
「大丈夫。道を外れたら僕が元に戻すから」
「ありがとう。それじゃ。奏斗も頑張って」
僕らは別れた。
・・・・・・
かき氷の表面を先に食べてしまい、味の無い中間ゾーンを食べる僕。それに対して上手くソースを残しながら食べる雄大。常にマンゴーの甘味を満喫している隼也。
「最近、萌衣忙しいらしいんだよな。会えてない」
「まぁ夏休みなのに体育祭練習てんこ盛りだからな。雄大は?」
「俺もだよ。それよりもマンゴーソース少しくれ」
僕の心の中では、今の関係でいたいと想う自分がいる。純粋に萌衣と過ごした時間も楽しいものだった。でもそれはお互いに、他人であると仮定していたから楽しさを感じることが出来たのだろう。
僕の想いは萌衣も同じだと感じていたが、そうではなかった。萌衣は僕と関わりながらも徹を追い続けた。僕だけが卑怯者になろうとしていた。
玲に手が届かないから萌衣と付き合う。僕は萌衣と玲は違うとしながらも、萌衣に逃げてしまっている。
萌衣と付き合い始めてから、僕が行動に移せなかったのは、間違いなく安心していたからだ。恋立方程式を描かなかったのは方程式を解くのを辞めていたからだ。解く必要性を感じなかったからだ。
「あれ、あの子、俺たちと同じ学年じゃね?」
入口から一人の女の子が入ってきた。制服から同じ学校の生徒だと分かる。
「あ〜、あの子は僕と雄大の1年生の頃の同級生だった子だよ」
「あまり話すことは無かったよな。物静かな子って感じだった」
僕も話すことは少なかったが、1年生では男女別番号順に並ぶと隣になる人だったので、男子の中ではまだ話した方だと思う。何度かペアで活動することもあった。
「あ、思い出した!よく考えたら今日の練習いたわ!めっちゃダンス下手だった人だ!!」
女の子が口からコーヒーを吹き出した。慌てて紙でノートを拭く。顔を真っ赤にして隼也を睨みつける。
「隼也、声が大きい」
「ごめんて。でもみんなとダンス2テンポもズレてたんだぜ」
「でもすごい優秀だよ。聞いた話によると2年一学期定期テスト順位1位だよ」
「へー、でも勉強できたところでな」
「いや、隼也、お前は勉強しろ。次赤点とると学年マジで上がれないって言われてるんだろ」
「大丈夫だって、1年のとき全部赤点だったけど2年生なれたんだし」
呑気に話す隼也が羨ましい。
「隼也って悩みとかないの?」
「あるよ。文香から逃げたい」
僕と雄大は先程まで黙っていたが、道路を挟んだ向こうの木陰から巨体がこちらをじっと見つめている。
「文香痩せたらめっちゃ可愛いと思うぜ。それ条件にしてみたらどうだ?」
「太ってる痩せてるの問題ではない。怖いんだ」
「そもそも文香はなんで隼也のことが好きなんだ」
「よくぞ聞いてくれた。聞くか?」
僕らはその後、隼也の恋愛話に付き合わされることとなる。これは物語とズレるので、いずれ外伝で話そうと思う。
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