第32話 名前呼びと変化


 香澄ちゃんのことを呼び捨てで、香澄と呼ぶことになった。


 月曜日になり、香澄ちゃ……香澄と一緒に学校へ行くために、いつもの待ち合わせ場所へと向かう。


 今日は優香も一緒に行く日だった。


「お兄ちゃん、昨日の夜からなんか様子が変だけど、香澄お義姉ちゃんと何かあった?」

「何かあったと言えば、あったと言えるけど……」

「まあお兄ちゃんのことだから特に何もなかっ……えっ? あったの?」


 途中まで流すように喋っていた優香が、目を見開いて驚いた。


「な、何があったの!? 結婚したの!? キスしたの!? もしかしてそれ以上!?」

「いや、どれもしてないけど。というかそれ以上ってなんだよ」

「じゃあ何があったの!?」

「別に、話すほどの変化じゃないというか……」


 本当に、全然大きな変化じゃないはずだ。


 ただいつも「ちゃん」付けで呼んでいたのを、それを付けないで呼ぶだけ。


 うん、大きな変化じゃない、だから特に気にすることはないと思う。


 だけど、なぜか「ちゃん」と付けないだけで、ここまで心が乱されるのはなぜだろうか。


「えー、絶対に何かあったと思うけど……あっ、香澄お義姉ちゃーん!」


 待ち合わせ場所に着くと、すでに香澄ちゃ……香澄がそこにいた。


「お義姉ちゃん、おはよう!」

「優香ちゃん、おはよう。朝から元気ね。昨日、しっかり勉強の復習はしたの?」

「えっ……いや、もう問題集は三周したし、全部覚えたから……」

「一日で全部覚えられるわけないでしょ。今日はしっかり復習しなさいよ」

「えー! 香澄お義姉ちゃんの鬼だぁ!」


 いつも通り優香と香澄……は、普通に話している。


「おはよう、誠也」

「お、おはよう……」


 いつもなら香澄……に会えた喜びで、元気よく挨拶をしているんだけど、今日は静かな挨拶となってしまった。


 いや、もちろん朝から会えたことは嬉しいし、香澄……は朝からとても可愛いし綺麗だ。


 だけど、いつもの名前呼びが変わるだけで、なんか……!


「? お兄ちゃん、本当にどうしたの? いつもだったら『香澄ちゃん、今日も可愛いね! 勉強会では私服も可愛かったけど、制服もやっぱり可愛い! 結婚しよう!』『むり』『がはっ!?』までやってるのに」

「優香ちゃん、それを再現するのに私まで入れないでくれる?」


 やはり優香には怪しまれている。


 確かにいつもの俺だったら、そこまでは朝の挨拶でセットだ。


 いや、『むり』まではセットではないな、だってもしかしたら「はい」って言ってくれるかもしれないんだから。


 だけど名前の呼び方を変えただけで、ここまで躊躇いが出るなんて。


 このままじゃダメだ。

 呼び方を変えただけなんだから、特別意識することはないはず。


 いつも通りにすれば、何の問題もない。


「か……香澄」

「な、何? 誠也」

「おはよう、今日もすごく可愛いね、香澄」

「っ……! あ、ありがとう……」


 ……無理じゃね?

 意識するなっていう方が、無理じゃないか?


 いや、俺だけだったらまだしも、香澄ちゃ……香澄も俺が呼び捨てで呼ぶと、どう見ても意識している感じで俺のことを見上げてくるから、余計に無理だ。


「え、えっ……? お兄ちゃんが、お義姉ちゃんを呼び捨てで……?」


 俺と香澄のことを一番近くで見ている優香は、すぐにそれに気づいたようだ。


 優香は目をまん丸にして、俺と香澄を交互に見てくる。


「き、昨日の夜、一体何が……!?」

「べ、別に何もないわよ、優香ちゃん。ただ私が、名前だけで呼んでって言っただけだから」

「そ、そうだね。これからは香澄……って呼ぶから」

「う、うん、お願いね、誠也……」


 なんだか俺と香澄は恥ずかしくなって、お互いの顔が見れなくなっていた。


「……これは進んだって言えるの? どっちなの?」


 優香がそんなことを呟いているが、俺もよくわからない。

 ただ何か変化があったというのは確かだろう。


 その後、俺達は学校へと向かうが、その間にも俺と香澄のぎこちない雰囲気は解消されなかった。



「誠也、どうしたんだ?」


 学校の昼休み、一緒に飯を食っていた健吾に、そんなことを言われた。


「……どうしたって、何が?」

「わかるだろ? 今市さんとのことだよ」


 健吾にそう言われて、俺はやっぱりそうかと思いため息をつく。


「なんか喧嘩でもしたのか?」

「いや、全くしてないよ。俺と香澄ちゃ……香澄は多分、一回も喧嘩なんてしたことないし」

「だろうな、そんな気がしてたが。じゃあ今日はなんで、昼飯を誘わなかったんだ?」


 高校二年生に上がってからは、いつも昼休みは香澄に「一緒にご飯を食べよう!」と声をかけていた。


 教室のど真ん中でいつも誘っていたから、俺が誘うことはみんな知っている。


 別に誘っても毎回一緒に食べるわけじゃないし、香澄が「今日は友達と食べる」と言えば泣く泣く引き下がる。


 だけど今日、いつも昼休みになった瞬間に俺が誘っているのに、俺は誘わなかった。


 それをクラスのみんなが気づいて、俺のことを凝視してきた。


 それでも俺はなぜか動けず、最終的に香澄の方から、


「今日は食堂で奈央と優香ちゃんと食べてくる」


 と言われたので、「うん、いってらっしゃい」と言った。

 高校生になってクラスが別の時も毎日俺から誘っていたのに、誘わなかったのは初めてだった。


「なんか悪いもんでも食べたのか?」

「普通の食事しか食べてないから。なあ健吾、聞きたいことがあるんだ」

「なんだ?」

「健吾は、汐見さんのことを名前で呼ぶだろ?」

「ま、まああいつのことなら、普通に奈央って呼んでるな」


 なんでちょっと照れたんだろう、よくわからな……いや、俺も香澄のことを名前で呼ぶと照れてしまうから、同じか。


「いつから呼んでるんだ?」

「あいつと初めて話したのは中二だったから、その頃だな」

「初めて会った時から呼び捨てなのか?」

「呼び捨てだったが、最初は苗字で呼び捨てだったな」

「そうなのか。いつから下の名前で呼び捨てになったんだ?」

「……俺がバスケの一対一で初めて負けた時かな」


 健吾はなんだか恥ずかしそうにそう言った。

 これは本当になんで恥ずかしそうにしてるのかわからないな。


「そうなのか……名前呼ぶときってさ、なんか注意点とかある?」

「はっ? 注意点?」

「気をつけることとか、スムーズに名前を呼ぶためにはどうするか、とか」

「よくわからん。特にないな、俺は普通に奈央って呼んでるだけだし」

「そう、だよな……」

「お前も今市さんのこと、普通に下の名前で呼んでるだろ?」

「いや、下の名前で呼んでるが、呼び捨てじゃなかったから。これから呼び捨てで呼ぶことになったんだけど、どうすればいいか迷ってて」


 今度は健吾が首を傾げていた。


「どういうこと? 普通に呼べばいいじゃん」

「それが出来たら苦労しないんだよ……」

「……よくわからん」


 健吾に相談しても、どうにもならないみたいだ。


 はぁ、これから俺は香澄ちゃ……香澄にどうやって話しかければいいのか。


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