「54」知らず知らず

「ねぇ……」

 パタパタと鳩が羽ばたいて飛んでいくのを見送ると、ようやく男の子の方から口を開いた。

「ついでだし、遊んで行こうよ」

 そう言いながら、男の子はブランコを指差した。


──断る理由もなかった。

 乗る理由もないのだが──。

「あ、うん。いいよ」

 俺は頷き、ベンチからブランコへと移動した。


──ギィッ……ギィッ!

 ブランコの鎖が錆び付いているようで、前後に揺らすたびに軋んだ音が鳴っていた。

 意外と、ブランコを漕ぐのは難しかった。全身を動かして、何とかブランコの振り子を大きくしていく。


「ねぇ、倉松君……」

──ギィッ……ギィッ!

「……え? あ、ごめん……」


 唐突に『倉松君』と呼ばれ、俺はすぐさま反応することが出来なかった。下の名前の『太蔵』と呼ばれることばかり多く、苗字を聞くのは初耳であった。

 それが本当に俺の苗字かは分からないが、この場には俺しか居ないのだからそうなのだろう。

 男の子の発した『倉松』は俺のことを指しているらしい。


 倉松太蔵──それが俺の本名なのか──。


「どうしたの? 倉松君じゃ……」

 返事に戸惑い遅れてしまうと、何故だか男の子の方が不安そうになっていた。

「あ、うん。ごめん。ちょっと考え事をしていたから……。そっちこそ、どうしたのさ?」

「あ、いや。なんでもないよ……倉松君」


 男の子はそれ以上、次に言葉を繋げることもなくまた俯いてしまった。

 再び、気まずい沈黙が流れそうになる──。


「太蔵でいいよ」

「えっ?」

「俺、太蔵っていうから。それでいいよ」

 きょとんとしている男の子に、俺は言ってやった。

 初耳の『倉松』よりかは聞き慣れた『太蔵』の方が俺自身も安心できる。

 それに、俺と男の子の距離間がどれ程のものなのか分からないが、別に友人であるのなら下の呼び名でも構わないだろう。


「太蔵君ね……分かったよ。じゃあ、ぼくのことも松太郎って呼んでよ」


──松太郎。

 ようやく男の子の名前が判明したわけだ。

 少し男の子──松太郎との距離が縮まったような気がした。


──キィッ!

──キィッ!


 でも、相変わらず会話は続かない。

 ひたすらにブランコを漕ぐことに集中したものだ。

──というか、いつまでもここに居て良いものなのだろうか。段々と日が落ちて来て、とうとう夜になってしまった。

 何やら用事があって俺は連れ出されたはずだったが──ここで終わってしまいそうな雰囲気である。


「ねぇ、松太郎君……」

 思い切って、俺は隣りの松太郎に声を掛けた。

「そろそろ行かないかな? いつまでもここに居ても、仕方ないし……」

「えー、そうかなぁ……」

 何故か、松太郎は不満気であった。まるで此処から動きたくないとでも言うように渋った様子であった。


「え、でも……」

 途中まで口を開いたが、そこで言葉を止めた。

 そもそも、男の子とどんな約束をしていたのか分からないのだ。下手に喋ってもボロが出るだけだろう。


──う〜ん……。

 難しい話である。


 俺は地面に足を付けてブランコを止めると、腕組みして唸った。


 果たして、本当に遠慮などする必要があるのだろうか。ただ何処に行くのか聞くだけである。

 下手に松太郎に話を合わせるよりも直接なにをするか聞いた方がいいんじゃないだろうか──。

 余りにも話が進まないので、そんな考え方に変わってきていた。


「あの……」

「ねぇ、太蔵君……」

 俺が直接質問をぶつけようとしたその声は、松太郎の声に掻き消された。

──というか、松太郎の声を聞くために俺が口を噤んだ。

「どうしたの?」

「ありがとうね、太蔵君。ぼくに話を合わせてくれて……」

 松太郎はそれだけ言うとまた口を噤んでしまう。

「話しを合わせてって、どういう……?」

「だって、ぼく達、さっき初めて会ったじゃない。ありがとう。親切にしてくれて」

「初めて会った……って……」

 そんな重大な告白をされ、俺は目を見開いた。

「あれ……? もしかして、誰かと勘違いでもしたの?」

「い、いや。そんなわけがないじゃないか!」

 俺は動揺を隠すようにプイッとソッポを向いた。

──完全なる赤っ恥である。

 まさか、知り合いですらなかったとは──。

 知る由もなかったのだが、知らなくて正解である。


「何やってんだ、俺は……」

 頭を抱えたものだ。

 こんなことなら、さっさと松太郎の正体について尋ねておけば良かった。いらぬ気を使ったせいで、余計に話が拗れてしまったようだ。


「どういうことさ? どうして家に来たの? 用事って言うのは?」

 あれこれ質問をぶつけると、松太郎は俯いてしまう。

 俺は肩を竦めたものだ。

「そこまで打ち明けておいて、今更隠し事もないだろう?」

「そ、そうだね……」

 松太郎は頷いた。

 どうやら口数が少なく彼が黙っていることが多かったのは、言葉を選んでいたかららしい。俺がそうであったように、松太郎も墓穴を掘らないように口数が減らしていたようだ。

「君の家に行ったのはたまたまだよ。居場所がなくて、インターホンを押したら……たまたま君の家のおばさんが出てくれて、君が付き合ってくれたんだ」

──そして、ここまで付き合わされてしまったということである。


「……で? なんで見ず知らずの家に来たの?」

「ぼくね……、家出をしてたんだ。それで、三日三晩なにも食べないで町を歩いてて……もう限界だったんだ。お金もないし……ピンポンを押して、何か食べさせて貰おうと思ったんだ……」

「それで、たまたま家に……?」

「うん……」

「でも、そんなこと一言も言ってなかったじゃないか?」

 確か、初めは──俺に会いに来たと言っていたはずである。

「ご飯を恵んで下さいなんて言えなくて……それでつい……」

「でも、俺の名前を知っていたじゃないか?」

『太蔵君に会いに来たって』──いや、それを言っていたのはおばさんだ。思い返せば、松太郎が直接俺に『太蔵君』と呼び掛けたわけではない。

「『倉松君』って言うのは表札を見たからだよ。『太蔵君』っていうのは、おばさんが言っていたのが何となく耳に入っていたのもあるし……」

 どうやらそうして上手い具合に、針の穴を縫うように話が進んでしまったらしい。実際、松太郎自身も驚いたことであろう。勇気を持って声を掛けたら、トントン拍子にこんなところまで来てしまったのだから──。

 なかなか打ち明けるタイミングもなかったようだ。


「ごめんね。騙すつもりはなかったんだ。太蔵君の家に行ったらおばさんが、ぼくを友達と勘違いしていて……君もだけど……なかなか言い出せなかったら、ご馳走までしてくれて……」

 ハァと、俺は溜め息を吐いた。

──だったら、初めから打ち明けていてくれればどんなに楽であったことか。

 別にご飯くらいいくらでもご馳走したのに──作るのはおばさんであるが──。

 こんなに神経をすり減らすこともなかったであろう。


「ありがとう太蔵君。ぼく、なんだか元気が出たよ。お腹も膨れたら、頭も働いてきた気がする。……やっぱり、家に帰ることにするよ」

 松太郎は一人でスッキリした顔になっていた。

 全てを打ち明けて、心の靄が晴れた感じになっているのだろう。

 一方、俺はモヤモヤであった。


「そっか……。何があったか分からないけど、頑張ってね……」

 それ以外に言いようがないだろう。

 何だ、この時間は──。

 心なしか、松太郎の顔が初めに会った時よりも凛々しくなっているように見えた。

 松太郎の成長物語を見させられた感じか──。


 手を振り、公園から出て行く松太郎の背中を見送りながら俺は溜め息をついた。

 そして、視界が徐々にぼやけていくのを感じた。


 また、時間の逆行が始まったらしい。

 今回は何だったんだ? 何も起こらなかったじゃないか。

 何も起こらない──?


 いや、必ずしも何も起こらないことが良くないことであるとは限らない。


 松太郎──ふと、彼の名が頭の中に浮かんだ。


 俺はその名に、何処かで触れた記憶があった。

 あれは──。


 一枚の新聞記事のスクラップが頭に浮かんだ。


『……遺体は、津奈木松太郎君であることが判明した。殺人容疑で逮捕された植松は、道で偶然出会った松太郎君を食事に誘って犯行現場まで拉致したらしい。当時、松太郎君は家出中で空腹状態にあったらしく警戒心や判断力も失われており、植松容疑者の誘いを受けたと見られている……』


──ゾッと寒気がした。

 あれは、いつの記憶だ──?


 いつ見たのかは、もう憶えていない。


 それでももし、当時の俺だったら訪問して来た松太郎を「知らない」と気味悪がって門前払いしていたはずである。


 何も起こらなかった──だから、もしかしたら俺は知らずに一人の生命を救うことが出来たのかもしれない。


 視界がぼやけ、ぼやけ、ぼやけ──。


 俺は自分の全身が縮んでいくのを感じた。

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