「44」未来の約束
正規に面会の手続きを踏んで、今回は病棟に入ることを許された。昨日来た時は全て同級生の男の子に手続きを任せていたので、なかなか手間取った。
なんとか『面会者』のプレートを受け取り、それを首から下げた。
これで、病棟内を大手を振るって歩けるというものである。
ハズィリーの病室は──憶えている。五階だ。
エレベーターに乗り込み、ボタンを押す。
扉が閉まってエレベーターが上昇する中、俺の胸はドキドキと高鳴っていた。
──果たして、ハズィリーは生きているのか。
いや、先のことを考えると生きているずである。しかし、死んでいないとも言い切れない。
眠っているのか、起きているのか──。
俺の苦労は報われたのだろうか。
病室の扉を開いてハズィリーの顔を見るまでは何も分からない。不安ばかりが募っていった。
五階に到着し、エレベーターの扉が開いた。
外に出る。
出てすぐ目の前にナースステーションがあり、例の看護師がデスクで書き物をしているのと目が合った。あの時は出勤前で私服であったが、今はきちんと看護服に身を包んでいた。
看護師は何も言わず、ハズィリーの病室を指した。
何かの合図らしいが、それにどういう意図が込められているのか俺には分からなかった。
兎に角、向かうしかない。
俺は看護師に軽く会釈をすると、ハズィリーが入院している病室へと向かった。
──コンコン!
閉じている病室のドアの前に立ち、ノックをする。
しばらく待ったが──返事ははない。
まだ眠っているのかもしれない。
何にせよ、この扉を開けてみなければ分からないことだ──。
「ハズィリー、入るよ」
少しドアを開け、俺は中に声を掛けた。
相変わらず返事はなく、部屋の中はしぃんと静まり返っていた。
最悪の事態が頭を過ぎったのもあって、俺は思い切ってドアを開けてみた。
はじめに──目に入ったのはサイドテーブルに置かれた花瓶に生けられたヒマワリの花であった。傍らには、ヒマワリ畑の写真も置かれている。
──どうやら、看護師が約束を守ってハズィリーの元にこれを届けてくれたようだ。
そして──。
「……あら? いらっしゃい」
ベッドで上半身を起こしていたハズィリーと目が合う。彼女は文庫本のページを開き、俺が来ていたことにも気付いていなかったようである。
俺の姿を見て、驚いたように目を瞬いている。
「生きてた……」
俺は感動のあまり、その場に立ち尽くしてしまった。
無事にハズィリーが目を覚まし──そして、生きているだなんて──。
自然と、目からぽろりと涙が流れた。
「勝手に殺さないでよね」
呆れたようにハズィリーが言う。
最もな台詞だが、別にハズィリーも怒っていないようである。ホッとしたように息を吐いた。
「……でもね、先生が言うには危ないところだったみたいよ。このまま目を覚まさなかったかもしれないって……。真っ暗闇の中……ずっと、深い闇の奥底に体が引き込まれるような感覚がしていたわ。必死に藻掻いたけれど上がって来れず……それでも抗ったの……」
俺は黙ってハズィリーの言葉に耳を傾けていた。
ハズィリーはそう言いながら、サイドテーブルに置かれた写真を手に取る。
──そういえば、寝たきりの状態であったはずなのにずいぶんと回復したものである。手を動かし、体まで起こしている。
「そうしてたった一度だけ、暗黒色の水面から顔を出して息継ぎすることができたわ。プハァッて大きく息を吸って見上げたら……」
ハズィリーの語りは止まらなかった。
「その花が目に入ったの」
布団の上に写真を置き、ハズィリーは萎れたヒマワリの花びらを撫でた。
「そう言えば、ヒマワリ畑に行こうって約束していたな……って思ったら、一面綺麗なヒマワリ畑に立っていて、それから目が覚めたの。不思議よね……」
クスクスとハズィリーは笑った。
「もしも、あのまま闇の底に引き込まれていたら、私は二度と目を覚まさなかったかもしれないわ。……なぁんてね」
冗談のつもりなのか本気なのか、笑えないことを言ってハズィリーは一人でクスクスと笑っていた。
一緒に笑ってあげたいところであったが、色々な感情が渦巻いて、とても笑顔を浮かべることなど出来なかった。
ポロポロと目から涙が溢れるばかりで、さっきから前が見えない。
ハズィリーの笑顔も、俺の目には水の中に浸かって見えた。
「良かった……」
──本当に良かった。
俺の苦労は無駄ではなかったのだ──。
ハズィリーを救うことに一役買うことができた。
そう自分の頑張りを昇華する。
──いや、正直、何の意味のない行動であったとしても構わない。こうしてハズィリーが目を覚ましてくれたのだから。
「ありがとう。でも、そんな顔をしないでよ。私は生きているのだから」
余りにも俺が泣き過ぎたため、ハズィリーも呆れたような顔になる。
「はは……そうだね……」
気丈に振る舞うハズィリーから指摘を受けて、ようやく俺の顔にも笑みが漏れた。
「ねぇ、太蔵くん。私が元気になったら、今度こそヒマワリ畑に連れて行ってよ。写真や夢の中じゃ見られない、本物のヒマワリ畑に」
「うん。連れて行ってあげるよ、約束する」
俺が頷くと、ハズィリーは心底嬉しそうに笑ってくれた。
「うん! 約束ね。ありがとう!」
◇◇◇
「でも、随分大変だったんじゃないの? ヒマワリ畑、結構遠くなかったっけ?」
「そうだね。自転車で行ったんだけれど、かなり苦労したよ」
「えっ!? 自転車で! なんでよ?」
これにはハズィリーも驚愕した様子だ。驚きを通り越して、引いているようにも見える。
俺は慌てて、言い訳を口にした。
「いや、なんか、そっちの方が良いかなって思って……」
「良いって、どういうことよ……」
ハズィリーが呆れ顔になる。
──何だろう?
疲労のせいか。他愛もない会話をしているだけなのに、目が霞んできた。袖口で擦ると、またハッキリくっきり視界が写った。
「ハズィリーのために、簡単に手に入るより、苦労した方が良いかなぁ……って……」
『えー。それでわざわざ行ってくれたの……?』
目の前に居るハズィリーの声が、遠くから聞こえてきた。
──何が起こっているんだ?
途端に視界が真っ暗闇になって、ハズィリーの姿は掻き消えた。それでも、どこか遠くからハズィリーの温かな声が聞こえてくる。
『そ……て、わた……ありがとう……』
俺は耳を澄ました。
しかし、それっきりハズィリーの声は聞こえなくなってしまった。
「ヒマワリ畑……行けるといいね……」
暗闇の中、一人佇んだ俺は呟いた。
なんだか物悲しくなってきてしまった。
ハズィリーとの約束──ヒマワリ畑に彼女を連れて行くという約束は未来で叶ったのだろうか。
少なくとも、俺はそれを叶えることは出来なかった。
──彼女の本名を忘れ、彼女をヒマワリ畑に連れていけなかった。
「約束を破ってばかりだな……」
もしも、もう一度、時を進むことを許されるのならば今度はハズィリーとの約束をきちんと守ってやりたい。彼女の望みを──願いを、叶えてやるんだ。
「連れて行ってあげてくれ……連れて行って……連れて行ってよ……」
ハズィリーのことを思い、俺は何度も同じ言葉を口にした。
未来の俺が──これからの俺が彼女との約束を果たせるように、何度も心の中で願ったのであった。
そうしている内に、次第に俺の意識も遠のいていったのであった──。
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