「35」意外なさようなら

 講義に集中できず、注意力は散漫だった。

 お陰で、教授がマイク越しに何か話していたが、まったく耳に入っていなかった。

 ずっと考えた末──ようやく俺は、その違和感の正体に辿り着くことができた。

 白井とその友人である女学生たちとのやり取りを思い返してみる。


──白井、また太蔵と一緒なわけ?

──もう、やめてよ。明海!

──私、小学校一緒だったけど、太蔵は太蔵で随分と白井にお熱だったみたいだし。


 おかしい──。

 小学校が同じであった──つまり、古くからの友人である。白井の方が絡まれるくらい仲が良く、『明海』と下の名前で呼べる程の距離感の相手だ。


 なのに──どうして、白井だけは『白井』なのか──?

 そこから、俺はとあることが頭に浮かんだ。

 白井は、『白井』などではないのではなく──『シロイ』なのではないか?


 つまり、勝手に脳内で苗字がそれであると『白石』に変換してしまっていたが、本当は下の名前の『シロイ』だったのではないかということである。

 それに気付いていなかった俺は、下の名前の候補ばかりを考えていた。

 だから、いくら答えても程遠いし──そりゃあ、当たるわけもない。


『花園シロイ』など、本来は上の名前を当てなければならなかったのだろう。


 まさか、そんなギミックが隠されていたとは──。


 そんな考えをシロイ本人に突き付け、確認をしようとした時であった──。


「……時間ね」

 口を開きかけた俺を、シロイが手を前に出して制してくる。

「悪いけど、もう帰るわ。今日はもう授業を取っていないから」

 そう言いながらシロイが立ち上がる。

 随分長いこと考え事をしていたようで、何時の間にか講義も終わっていた。


 立ち上がったシロイの顔色は悪くフラフラとよろけている。それでも荷物を持って、教室から出て行こうとしていた。

「あっ、ちょっと待ってよ!」

 これまで一緒に居たのに、意外にもアッサリと帰るのだと俺は唖然としたものだ。

 声を掛けるとシロイは振り返り、机に手を置きながら振り返った。

「……なに?」

「だ、大丈夫? 何だか体調悪そうだけれど……」

「そう思うなら、用もないのに呼び止めないで頂戴」

 シロイはピシャリと言うと、またヨロヨロと歩き出した。俺と長くお喋りをする余裕はないらしい。


「明日には必ず思い出すから!」

「明日は……」

 シロイは足を止め、天井を見上げていた。

 そして、シロイは振り向いた。


──そんな彼女の顔を見て、俺はギョッとしてしまう。


 シロイの目から大粒の涙がポロポロと溢れていた。

「あると良いわね。でも、残念よ。憶えてくれていなかったんですもの……」

 これまでは気丈に振る舞っていたシロイだが、何か思うことでもあるのだろう。

 どういうわけかその表情は悲しみに包まれていた。

「ねぇ、太蔵君。お願いがあるのだけれど……」

「お願い? 何?」

 唐突なシロイの頼みに、俺は首を傾げた。

「何があっても、授業だけはきちんと受けて頂戴。私のために、授業を休むようなことはしないで」

「それが願い……?」

 変なお願い事に思えてならなかった。

「どうなの?」

 シロイに尋ねられる。

──なんと、簡単なお願いなのだろう。

「そんな願い、叶えることなんて容易いさ」

「そう……」

 クスリと、シロイは笑った。

「よろしくね。それじゃあ、さようなら……」

 シロイは一方的に話しを打ち切ると、俺に背を向けて歩き出した。

「あっ、ちょっと!?」

 呼び掛けた俺の声もシロイの耳には届いていないようである。

 彼女はスタスタと教室から出て行ってしまった。


 そんなシロイを見送りながら俺は情熱に燃えていた。 ──明日こそ、必ずやシロイの名前を当ててやる!


 そう息巻いた俺であったが──その決意を実行することは出来なかった。


 何故なら──。


 翌日から、シロイが俺の前に姿を現すことはなくなったからである。

 彼女は大学に来なくなった。


 これまでであれば、そこで無慈悲にも退行が始まったはずである。

──ところが、この時ばかりは勝手が違った。

 不思議と、俺の大学生活はその後も続いたのだ。

 俺は家と大学を行き来して、シロイの姿を探した。

 今の内に、シロイの友人たちに彼女の名前を聞いてしまうという手もあっただろうが、不正に思えてそれはしなかった。

 次にシロイに会った時に、またクイズの続きをしよう──。


 しばらく平穏な日常生活を送ったものだ。何なら、大学生活を謳歌した。

 それにしても、シロイは何処に行ったのだろう。余りにも姿を姿を現さないので、もしや中退でもしたのかと不安になってきたものである。


「ねぇ……」

 せめて、シロイの行方くらいは知りたいものである。

 思い切って、俺はシロイの友人である明海に声を掛けた。

 一応、俺の幼馴染みであるシロイと小学校が同じということだったから俺とも繋がりはあるはずである。他のどの連中よりも話し掛けやすかった。


「何よ、太蔵?」

「あの、シロイさんのことなんだけれど……」

 俺がその名を口にした瞬間、明海の表情に影が差した。どうしてそんな表情になるのか、俺には分からなかった。

「本当に、残念だったわよね……」

 明海の声のトーンが低くなる。

「え、何? どういうこと?」

「どういうことって……」

 食い付く俺に、明海は困惑したようになる。

 そして──「シロイ……死んじゃったじゃない」と顔を伏せながら呟いた。


──死?


 俺の耳に飛び込んできた──突然のシロイの訃報。

 衝撃が走ったものである。

 脳内が混乱し、ただ呆然となった。


 何故、彼女が命を落としたのだろう。

 どうしてこんなことになったのだ。


 最後に見た、シロイの悲しげな表情が頭の中に浮かんだものである──。


「太蔵も知ってるでしょ? シロイ昔からさ……」

 明海は事の経緯を説明してくれていたようである。

 しかし、その言葉は俺の耳には入らなかった。

 こんなタイミングで俺の視界は徐々に暗くなっていき、耳まで聞こえなくなっていった。

 目の前でシロイの死の真相を語る明海の声も遠ざかって行き──やがて、聞こえなくなった。


 事の真相を知ることも、シロイの死を悲しむことも俺には許されなかった。


 次に気が付いた時、俺は──子どもの姿をしていた。

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