「36」彼女の名前
教室の中──俺は椅子に座って前を向いていた。
教卓の前で教師がこちらに背を向け、黒板にチョークを走らせている。授業が行われていた。
「えー、ここの解き方なんだが……」
振り向いた教師が、教科書を手に取りながら説明を始める。
大学時代の講義に比べて今の授業の内容はとても分かりやすく、すんなりと頭に入って来たものだ。
教室の中は静まり返っていて、みんな大人しく黒板の文字を書き写しているようだ。
それにしても──。
俺は驚いてしまった。俺と同じ様に席に座り、授業を受けているのは子どもであった。
自分の手の平を見てみる。──こんなに小さかっただろうか?
思わず、両手で顔を触って造形を確かめたものである。
俺自身もまた周りの子達と同じ様に、子どもに戻っているようであった。
ふと視線が横に行った。他のどの席も埋まっているのに、俺の右隣の席だけは空いていた。
人の姿はないが、机の横のフックにバッグがかけられていた。ピンク地にデフォルメされた動物たちが描かれたものであることから恐らく、席の主は女の子なのかもしれない。
授業が始まっているというのに、唯一もぬけの殻であるその席が俺は気掛かりになった。
◇◇◇
放課後になって続々と生徒達が下校して行く中、俺だけは席に座ったまま途方に暮れていた。
──というのは、そもそも俺は何処に帰れば良いのか分からなかったからである。
当然、家はあるし家族も居るだろう。
未来から突然こんなところに放り出されたので、状況は何も理解していなかった。
取り敢えず、いつまでも此処に居ても仕方ないだろう。教科書類やノートをバッグの中に詰め込んで、机を空にした。
勝手が分からなかった。こういうものは、全部持ち帰るものなのだろうか──?
かなりの重量になったので、許されるなら少しばかりは残していきたいものである。
──でも、誰の許可がいるというのだ?
そんな自問を繰り広げていると、同級生の男の子が声を掛けてきた。
「もうそろそろ行けるかい?」
「行ける? 何処に?」
それ以前に君は誰だとツッコミたくなるが、話しがややこしくなりそうなので口から出かかった質問を飲み込んだ。
同級生の男の子は、顔を顰めた。
「何言ってんだよ。病院だよ! シロイさんのお見舞いにさぁ……。あんまり遅くなると悪いから」
──シロイ!?
同級生の男の子の口から意外な人物の名が出てきたので俺は驚いてしまう。
そう言えば──シロイと俺は幼い頃からの幼馴染みという話だったじゃないか。
同じ学校に通っていたとしても当然といえば当然か。
同級生の男の子は、俺の隣りの席に視線を向けた。例の空いた席である。そして、何処となく悲しげな表情を見せた。
「……でも、可愛そうだよね。後、数年しか生きられないだなんてさ……」
「……え?」
「あれっ?」
俺が驚いて声を上げると、同級生の男の子はキョトンとした顔になる。
「……そうか。太蔵君はまだ聞かされていなかったんだっけ。シロイさんと仲が良いから、ショックを受けるから黙っとけって、そう言われてたんだっけ……」
うっかり大事なことを口にしてしまった同級生の男の子は「いけねっ!」と舌を出して戯けて見せた。
もう俺の耳に入ってしまったのだから、どうこうできるわけがないので開き直ることにしたらしい。
「ごめんね! 僕から聞いたってことは黙ってて貰えるかなー?」
「あぁ、うん、大丈夫。誰にも言わないよ」
俺は頷いた。むしろ、情報を聞かせてくれた方がこちらにとっては有り難い。
それに既に認知している内容である。ショッキングなことではあるが、既に未来でそうなることを知っていた為、ある程度の心構えは出来ていた。
俺が密約を交わすと、同級生の男の子は嬉しそうに笑う。
「難病を患っているらしくてね、あんまり手がほど越せないらしいよ。お医者さんもお手上げだって」
白井が難病だったなんて──。
あんなに、元気そうにしていたではないか。
──いや。もしかしたら、そう振る舞っていただけかもしれない。思い返せば不自然な点もあった。
顔色が悪くフラフラしている姿もあった。翌日からシロイが大学に姿を現さなくなったのは、その難病の病症が悪化したからなのだろう。
その末に、シロイは亡くなってしまった──。
──しかし、今彼女は生きている。
シロイの本名を知るチャンスである。
長い時間を掛けて、頭の中にはシロイの名の候補をいくつか考えてきていた。
それを、生きているシロイにぶつけてみよう。
彼女は何と言うだろう──。
当然、困惑するに違いない。
それでも、俺と未来のシロイで交したルールの期限は、無期限だ。それは前にだって適応されるに違いない──。
おかしなことを考えているのは俺自身も重々承知だが、シロイの名を当てることが未来の彼女への弔いになるのではないかと俺は考えたものだ。
「よし。それじゃあ、行けるかい?」
「シロイのお見舞いにね……」
「うん。クラスで二名ずつ、順番にプリントなんかを届けたりしているからさ」
そう言って、同級生の男の子は自身の鞄をパンッと叩いた。どうやら俺の分まで、色々と準備をしてくれていたらしい。
「行こうか」
「うん! じゃあ、白井ハズィリーさんのお見舞いに、出発ー!」
拳を高く突き上げる同級生の男の子──。
「……え?」
まるで、時が止まったかのようであった。
その一瞬、ピタリと全ての音が止まったように感じられた。
人の話し声も鳥の囀りも車のエンジン音も──その時ばかりは静まり返り、お陰で同級生の男の子の言葉がハッキリと鮮明に俺の耳に入って来た。
──白井ハズィリー。
それが彼女の、本当の名前であった。
外見では気が付くことは出来なかったが、どうやら彼女はハーフの娘であるらしい。
どうりで当たらないわけだ。──分かるか!
自分の基準で考えて和名ばかり答えていたが、どうやら見当違いであったらしい。
ハズィリーが「まだまだ全然遠い」と言っていたのは、本当だったようだ。
まともに答えていたら数十年以上は掛かり、下手したら迷宮入りになっていたかもしれない。
「じゃー。いくぞー!」
自分がうっかり重要なことを口にしていたとも知らない同級生の男の子が教室を出て行ったので、俺もその後に続いて歩みを進めた。
生きているハズリィーに会うんだ。少し前に会ったはずなのに──なんだか俺は緊張してしまっていた。
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