「01」おわりのはじまり
七十八歳の誕生日を迎えた十二月二十七日──俺はその生涯に幕を下ろした。
死因はありきたりなものだ。
──肺癌だった。
病床で、俺は妻や孫達に看取られながら息を引き取った。
恐らく、死の間際の人間にとっては家族と最期を迎えられるということは、とても幸せなことなのであろう。
──ところが、俺には何のことか分からなかった。
過去の記憶を持たない俺は、ここがスタート地点であった。生まれたての赤子のようなもので、俺からすれば周りを取り囲む彼らは見ず知らずの人間たちなのである。
そんな人間たちにジロジロと見られて──正直、余り良い気はしなかった。
それどころか嫌悪感や恐怖すら感じたものである。臨終間際で身動きを取ることすらできなかったので、そこから逃げ出すことができないのも不気味に感じた原因かもしれない。
妻や子どもたちの顔も分からなければ、孫の名前だって俺には知る由もないのである。彼らは全員、俺にとっては他人なのだ。
これまでの彼らとの思い出を何も持ち合わせていないのだから、例え俺を見詰める人々の表情が悲しげであったとしても何も思い入れることはなかった。
呆然と彼らを見詰め返していると、一人から声が上がった。
「しっかりしてよ! お父さん……!」
顔に皺のある女性が、ハンカチで目元を押さえながら震える声で呼び掛けてきた。
胸にアネモネを象ったブローチをつけており、俺の視線は女性の顔よりも自然とそちらに向いた。
俺の目線に気付いたらしく、女性はブローチを指差した。
「お父さん、覚えてる? アネモネの花はね、今でも私の宝物なのよ。お父さんに居場所を教えるヒントにもなっていたんだから……」
声を震わせながら何かを訴えようとする女性の言葉が理解できず、俺は呆然と彼女の顔を見詰めた。
「お父さんは私のヒーローなんだから……。遊園地でも助けてくれたじゃない! 今でも、あの日の恐怖が夢に出てくるけど……この花をこうして肌見放さずにつけていたら安心するの……。全部、お父さんのお陰なんだからね!」
何が何だか分からないが、女性は熱っぽく語るとそれっきり項垂れて泣きじゃくってしまう。
隣りにいた老齢の女性が宥めるように抱き締めて体を擦る。
「そうですよ、貴方はヒーローなんですから。森での貴方もカッコよかったですよ……」
そんなことを口にした老齢の女性も同じ様に声を震わせ、泣き出してしまった。
──俺が冷酷非道な人間なのだろうか?
女性がいくら涙を浮かべても、俺の胸に響くことはなかった。
何の思い入れもない連中が目の前で哀しんでいるので、まるで他人事だった。
どんなに涙を見せられても、ただ困惑するばかりである。気の利いた一言も、返してやることは出来なかった。
「 お父さん頑張って! 悲しいよ、ここでお別れだなんて!」
──それでも、彼らにとって俺は唯一無二の存在であるらしい。物言わぬ俺との別れをこんなにも悲しんでくれている。
色々な感情で頭がグチャグチャになる。
──考えるだけで疲れてきてしまう。
フゥーッと、俺は深く溜め息を吐いたものだ。
「大丈夫!?」
直ぐ様、親族たちに大袈裟に反応されてしまい、俺は呼吸を飲み込んだものだ。一挙手一投足が注目されて、どうにもやり難い──。
──ふと、男の子と目があった。
男の子はジーッと真っ直ぐに俺のことを見詰めてきた。
名前も分からないその男の子はまだ幼いことから俺が今どういう状態にあるのか、他の連中とは違って分かっていないらしい。
俺は人工呼吸器のガラス越しにニヤリと笑い掛けてやった。
──だが男の子は無反応。
愛想を振りまいてやったつもりなのに──何だか虚しくなった。
◇◇◇
人目に晒されたことで自分にも分からないような気疲れでもあったらしい。
段々と瞼が重くなるのを感じた。
「……お父さん……?」
娘に呼び掛けられるが、閉じ掛けた目を開くことはできなかった。
──少し眠ろう。少しだけ……。
睡魔に抗う事が出来ず、俺は目を瞑った。
そう。少しだけだ──。
瞼を閉じると、不思議と周りの音は聞こえなくなっていた。親族の泣き叫ぶ声や身体を揺さぶられる振動──徐々に何も感じなくなっていく。
自分の発する音だけが僅かに感じられる。
しかし、気付けば呼吸も穏やかになっていく。
心臓の鼓動も、心なしか弱々くなっていた。
意識が──薄れていく。
こうして俺は──親族に見送られながらあの世へと旅立ったのだった。
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