「02」終わりへ向かって

 死して息絶えた俺は──すぐに目を覚した。

 本当に死んでいたら、そんなことは出来ないはずである。

 でも、俺は確かに死んだ。

 そして、それには大勢の証人がいる。


──はずである。


 ところが妙だ。

 先程まで病室の床に横たわっていた俺は、大勢の親族に囲まれていたはずである。

 それなのに静かだ。病院どころか、見覚えのないソファーの上に寝転んでいた。一般家庭にあるようなテレビやテーブルが用途通りに設置されている此処は──どこかの家の居間であろうか。


「……何処だ、此処は……?」

 少しでも周囲の情報を探ろうと視線を動かす。


『電車とバスが正面衝突をし、多くの犠牲を出しました……』

──テレビからそんな音声が流れて来て、自然と俺の注目はそちらに向いた。

 数十年前の事故特集として当時の映像が流れていた。

 芸能人らしき出演者たちが『あれは凄惨な事故でしたよね……』と神妙な面持ちで頷き合う。

『多くの死傷者を出して、他の交通や路線に影響を与える程の大事故でしたからね』

 余程有名な事故であるらしく、出演者たちの中には当時を思い返して目に涙を浮かべるものまで居る。


──いや。

 と言っても、俺にはそんな涙の意味も理解出来なかった。そもそもそんな事件など俺の記憶にはない。

 過去よりも今だ。

 今がどんな状況にあるのか──。

 それを知るために俺は体を動かそうとして手を止めた。

 なんせ、これまで病室で危篤状態にあったのだ。簡単に起き上がれるはずがないだろう。


「……あ?」

 だが、指先に不思議な感覚があった。

 ソファーに手をついて、体を起こすことができた。

 肩や首を回し、自由に全身を動かすことも──。


「どうなってるんだ?」

 さき程迄は指先一つ動かすのも困難であったのに、今は容易にグーパーと手を握ることも出来た。


 何気なく、テーブルの上に置かれたクリアファイルを手に取ってみる。何か手掛かりを得られるかもしれないと、手に取ったファイルのページをパラパラと捲ってみる。

 黄ばんだ新聞記事の切り抜きが貼られ、スクラップされていた。


『……遺体は、津奈木松太郎君であることが判明した。殺人容疑で逮捕された植松は、道で偶然出会った松太郎君を食事に誘って犯行現場まで拉致したらしい。当時、松太郎君は家出中で空腹状態にあったらしく警戒心や判断力も失われており、植松容疑者の誘いを受けたと見られている……』

 ざっと目を通し、首を傾げる。

「これが、何だっていうんだ?」

 知らない記事だった。

 大層な事件ではあるが、今の俺には役立たないであろう。


 俺はクリアファイルを放るようにテーブルの上に戻した。


「……むぅ……」

 不意に胸が痛み出し、俺は思わず顔を顰めた。

 喉の奥底から込み上げて来るものがあり、我慢出来ずにゴホゴホと大きな咳をした。

──ペチャッ!

 何かが口から出た。


 口に当てた手を離し──それ気が目に入った。

 手に血がついていた。


「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ!」

 咳が止まらず、ソファーに倒れ込んでしまう。


「お父さん! 大丈夫ですか!?」

 慌てたような声が聞こえ、年老いた女性が奥の部屋から飛び込んできた。

 年老いた女性は俺の体を擦り、宥めようと必死だった。


「ゴホッ、ゴホッ!」

 お父さん──?

 咳込みながらも、俺の目はその年老いた女性に向いていた。どことなく見覚えがあった。


 俺の臨終を病室で看取り、死を悲しんでくれた親族の一人──。

 ベッドの隣りに座り、一番近くで俺のことを見守ってくれていた女性──であるような気がする。


「……ああ、大丈夫だ……」

 年老いた女性が余りにもオロオロとして気が気でない様子なので、心配かけまいと少し強がってみせる。

 俺はテーブルの上のティッシュを取って、手や口についた血を拭った。

 これで、この年老いた女性も安心してくれるだろう──。


「……うっ!」

──が、胸の苦しさは増すばかりである。

 強がっては見せたが──堪え切れなくなってしまい、俺は苦悶の表情を浮かべたものだ。


「今、救急車を呼びますから!」

 年老いた女性は慌てて立ち上がった。

「いや、ちょっと待ってくれ……」

 そんな女性の手を掴んで、俺は制した。

「大丈夫だから。こうしていれば、すぐおさまるだろう……」

 大事にしたくなかったので、俺は平静を装った。


「でも……」

 年老いた女性は困ったような顔になっている。

 尚も俺は「平気だよ」と念を押す。


「そうですか。なら……」

 年老いた女性は俺の意思を尊重してくれたらしい。

「お水を持ってきますね」

「あぁ……」

 俺が頷くと、年老いた女性は台所へ向かって歩き始めた。


 胸の苦しさは増すばかりであったが、俺はなんとか体を起き上がらせる。

 少しでも気を紛らわせようと、手帳を手に取った。

 表紙を開くと、ポロリと写真が一枚床に落ちた。

──何処かの遊園地であろうか。花壇の石に『尼崎遊園地』などと書かれてあった。

 咲いているのはアネモネの花か──。花壇を背景に、幼い少女が笑みを浮かべている。手には土のついたアネモネの苗を持っていた。


「アネモネ……?」

 最近、何処かで聞いたような花の名前だ。

──でも、頭が上手く働かない。


 呆然としていると、年老いた女性がコップに水を汲んで持って来てくれた。

「良かった。少し落ち着いたみたいね」

「あぁ……、ありがとう……」

 年老いた女性から手渡されたコップを受け取り、俺は口をつけた。冷たい水が喉を通るのを感じる。

 少し、調子が戻って来た。

「だから、大丈夫だって言っただろう?」

「でも、またいつ倒れるか、分かったものじゃないんですもの。お医者さんからも、何かあったらすぐに連れていくように言われていますから」

「心配し過ぎなんだよ……。君は……」

──『君』。

 彼女を呼ぶ名が分からず、俺は年老いた女性のことをそう呼んだ。本当は名前で呼んであげたいところだけれど、思い当たる言葉はなかった。

「はいはい、すみませんね。本当に大丈夫ですか? 救急車を呼ばなくて?」

「あぁ……」

「そうですか……。それでは、夕飯の続きを作って来ますね」

 年老いた女性は頷き、立ち上がった。

 俺はそんな年老いた女性の背中を見送りながら──その選択が誤りであったということをすぐに思い知らされる。

 声を上げることも出来ず、俺の意識はそこでプツリと途切れた。


 自分自身の病状の悪さを知らぬ俺はこの咳を──自分の体調を楽観的にみてしまっていた。安静にしていれば治るだろう。すぐにおさまる──。

 しかし、俺の病状は後戻り出来ない状態にまで進行してしまっていたらしい。


 意識を失った俺に、この後に待ち構えているのは恐らく──『死』であろう。倒れた俺は自ずとそのことを悟っていた。

 助けを呼ぶことも出来ない俺は、年老いた女性が次に気が付くまで放っておかれることになるだろう。


 病室で臨終の瞬間を娘や孫──親族に看取られることなく、俺はここで最期を迎えるのだ。


 頭の中に、病室で涙を流す娘の姿が頭に浮かんだ。

 此処で死んだのだから、あの情景が再現されることはないだろう。娘はただ俺が死んだことを人伝に聞くだけである。

 どれ程、ショックを受けるのだろう。


 そう考えると、キチンと最期のお別れの場を設けられなかったことに申し訳ない気持ちを抱いてしまう。


 もしも、あそこで救急車を呼ぶ選択をしていたら、もう少し長く生きられたであろう。

 ところが俺の誤った選択によって未来はどうやら改変されてしまったらしい。臨終の場は設けられず、ひっそりと自宅で息を引き取ることとなった。


 これで、俺は学んだ。

 次があるかは分からないが、未来が変わるような行動は避けた方が良いかもしれない。それによって、悲しむ人が増えてしまうことになるかもしれない。

 掻き乱さぬよう平穏に、人生を歩むことを俺は胸に誓ったものである。


 そう──次があれば──の話であるが──。


 俺の意識は、深い闇の中に落ちていった。

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