第7話 佐々木さん
箒と塵取りを手に外へ出ると空はどんよりと曇っていて、べたつくような湿気が空気を重くしていた。
本格的な梅雨入りが近いって天気予報で言っていたのを思い出してふうっと息を吐きだす。
「おはようこんにちは」
「あ、どうも」
近所のおばちゃんが派手なウォーキング用のウェアを着て満面の笑顔で挨拶をしてくれる。
お店を開ける前のちょっと微妙な時間帯だから、おはようとこんにちはをくっつけて挨拶してくれるんだよね。
ぽっちゃりとした体に真ん丸のかわいらしい顔をしたおばちゃんは腕をしっかり振りながら足早に去って行く。
「いつも元気だなぁ」
ちょっと憂鬱な気分になりかけてたけどおばちゃんのお陰で上向きになってきた。
ふんふんっと鼻歌を歌いながら店の前を掃いて、アスファルトの隙間から雑草魂で顔を出している草をちょいちょいっと抜いていると馴染みの猫が通りがかった。
目を上げるとあちらもこちらをチラリと見た。
グレーのふわふわの毛は長くて顔立ち気品があるし体も大きい。ペルシャとかチンチラとかの血が入っているんだろうその猫は実はチャツネの彼氏でもある。
「こんにちはボス」
声をかけるけど「お前と慣れ合うつもりはない」って感じで鼻先を上向けてそっぽを向く。
チャツネを奪い合うライバル同士だからね。
まあ、しょうがない。
それに彼はこの辺りのボスだから人間と仲良くしている姿なんて見られたら他の猫たちに舐められちゃう。
「よし、お掃除終わりっと」
立ち上がり腰を伸ばしていると実にゆったりとした様子でボスが歩いて行く。それを見送っていると彼の左後ろ足がひょこっと変な動きをしたのに気づいた。
じっと注視していると足を交わす瞬間に違和感がある。
足を完全に地に着けてない。
ボスである以上縄張りを守るためや立場を示すため喧嘩はしょっちゅうだし、引っ搔かれて血を流しているのを見たことだってある。
それに過酷な外で生活している野良猫たちには危険なことが多い。
「ボス、その足どうしたの?」
近づいたわたしの影にびくりと反応して毛を膨らませたボスは低い唸り声を響かせて拒絶を示す。
それ以上は踏み込んじゃいけない。
分かってる。
だけど気になる。
「誰かになにかされたの?」
猫同士のもめ事だったり、事故だったならいいけど。
もし誰かが――チャツネの時のようにボスを傷つけたのだとしたら。
胸がどきどきして苦しい。
「ねえ、ボス」
「あのっ!」
「ひょわっ!?」
手負いの猫に詰め寄ろうとしていたわたしは急に背後から声をかけられて飛び上がった。さっきとは違う速さで跳ねている胸を押さえて慌てて振り返ると。
長い前髪と眼鏡の若い男の人。
あの大学生のお兄さんが立っていた。
「えと、あの、お久しぶりですね」
こんにちはってへらっと笑って動揺を誤魔化そうとしたけど多分ムリだな。
だって声が上擦っちゃってたもん。
大学生のお兄さんはきゅっと唇を結んでから視線をちょっとだけ外して。もう一回こっちを見た。
ドクリと心臓が大きく血を吐き出しほんの一瞬だけ意識が濁る。
「お話があります」
ああ。
木村さん。
「わたしに、ですか?」
「……はい」
彼は小さく頷いて「ここにいつもいる猫について」と続けた。
* * * * *
開店してすぐにお客さんがくることはほぼないから彼を店内へと案内して自分の分も一緒にお茶を用意して奥のテーブルに向かい合って座る。
小鉢用の肉じゃがの匂いが神妙な空気の邪魔をしているのですごく気まずい。
お兄さん。
できれば早く喋ってわたしを楽にしてください。
その願いが届いたのかは分からないけど彼は居住まいを正してからまずは自己紹介から始めた。
「僕は
「あ、相原三歩です」
なんとなく流れでこちらも名乗ると佐々木さんはふわっと笑みを浮かべた。
たった一片の雪が肌の熱に触れて消えるかのようなその笑顔の後で「すみません」と頭を下げる。
長い前髪は全てを覆い隠してしまったのでわたしはため息をつく。
「佐々木さんがチャツネを傷つけた犯人なんですか?それとも飼えなくなって捨てちゃった前の飼い主さんなんですか?」
「いいえ」
返事にほっとしながらじゃあなんで謝る必要があるんだろうかと考えるけど分かるわけがない。
正直それ以外の可能性なんて想像してなかったからなぁ。
「僕のゼミの先輩が」
佐々木さんは一旦止めてゆっくりと息を吸い込んだ。
のろのろと上げた顔が見つめる先は湯呑の中の緑茶。
「四年前に猫を殺したと」
猫を
殺した?
「野良猫がよく通る場所に罠を仕掛けて時々様子を見に行っていたそうです。野良猫は警戒心が強いからそう簡単にかからない。そろそろ確認に行くのも面倒だと思い始めたころに」
一匹の猫が罠にかかった。
「罠に使ったのはテニスのラケット用のガットだったそうです。そのガットが胴体に食い込んだ状態でひどく暴れている猫が徐々に弱っていく様子を一晩中眺めていたと」
「…………ひどい」
なぜ黙って見ていられるのか理解できない。
ぶるぶると震える拳を抑えようと腕に力を籠めるけど全然効果はなかった。
そんな頭のおかしい人間が彼の先輩として大学に通っているのだ。
すぐ近くに。
怖くて、むかついて、泣きたくなる。
「動かなくなったので満足して帰ったそうなので本当に死んだのかどうかは確認していないと思います」
佐々木さんが湯呑をきゅっと両手で包んで持ち上げ一口飲んだ。
ことりと音を立てて戻された湯呑が揺れている。
「僕がその話を聞いたのは半年くらい前なんですが、この店の前であなたの、お友だちを見かけた時にもしかしたら先輩が殺したと言っていた猫なんじゃないかと思って」
「……ここへ通ってきてくれてたんですか?」
「そうであって欲しいなという僕の希望というか我儘というか」
確かめるために佐々木さんはここへチャツネに会いに来ていたのか。
「相原さん。あなたの友だちがあの猫であることは間違いないです」
「でも、ただの偶然かもしれないし」
四年前という時期も状況もとても似ているけど、死にかかっていた猫とチャツネが同じ猫だなんて。
だけど佐々木さんは「間違いない」って断言する。
「その先輩が『あの猫生きてやがった』と悔しそうに僕に言ったんです。捕まえて確かめようとしたら変な男に声をかけられて邪魔されたと」
わたしの頭の中に一週間前の出来事が思い出された。
怯えるチャツネに乱暴に伸ばされた手。
ぎらぎらとした恐ろしい目。
異様な雰囲気。
「あの、人が」
チャツネを――目の前が真っ白になる。
「相原さん。気をつけてください。あの人はまたお友だちになにかをするかもしれません」
「……また、チャツネを?」
そんなこと、させてたまるか。
しっかりしろ!
「させない。チャツネだけじゃない、他の猫だって――」
「はい、ストップ!あんたひとりになにができるっていうの」
「いたぁっ!」
頭にお母さんの容赦ないチョップがドスッと打ち下ろされて脳とお団子にした髪が揺れる。
痛む場所を押さえて睨んだけど、華麗にスルーされた。
ちくしょう。
「佐々木さんだったね。よかったら相原さんじゃなくて三歩って呼んでやって。私も相原さんだからさ。どっちが呼ばれてるか分からないでしょ?」
「え、でも」
いいのだろうかと困惑している佐々木さんに「三歩でも三歩ちゃんでもサンちゃんでもみほみほでもなんでもいいよ」と言うとぷっと吹き出された。
「他のは分かるけどサンちゃんって」
「あだ名ってそんなもんじゃん。気に入ったんならサンちゃんって呼んでください」
「分かった」
三歩の三を音読みしてサンっていうのは中学の時のあだ名なんだけど。佐々木さんの興味を引けたのならよかった。
あの雪のような笑顔も見れたしね。
「佐々木さんの証言だけじゃできることは限られてるし、そもそもそんなやばい相手にできることなんてわたしらにはないんだよ」
「……そうですね。できれば刺激しないほうがいいと思います」
「そんなぁ」
最近は物騒な事件も増えたし、簡単に刃物を出すような人も多いってニュースでよく耳にする。
正義感で注意して刺されたくはない。
「派出所に行ってパトロールしてもらえるようにお願いしとこうね」
今はそれくらいしかできることはないって言われてわたしは頷いた。
それで諦めてくれるならいいけど。
「もっと早く、お話しできればよかったんですがどうにも切っ掛けがつかめなくて」
申し訳なさそうにしているけど、佐々木さんが謝ることじゃない気もする。
この人はきっとこうやって気に病まないでいいことでも勝手に抱えて苦しんできたんだろうな。
「生き辛そうだね」
「うっ」
背中を丸めてしょんぼりとする佐々木さんを見て苦笑い。
まあ生き辛いのはわたしも同じか。
「でも話してくれてありがとう」
「うっ、あの」
佐々木さんがあわあわとしている間に入り口が開く。わたしは「いらっしゃいませ」と言いながら湯呑を手に立ち上がり作業着姿のおじさん二人組を笑顔で出迎える。
さあ看板娘のお仕事だ。
別の問題はあるけどとりあえずチャツネとお別れすることにならなくてよかった。
愛を運ぶ猫 いちご @151A
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