第4話 お互いの事情
「ねぇ、チャツネ。あんたはいつもどこで寝てるの?」
私と母は店を20時に閉めて片付けをしたら車で15分ほどの自宅へと帰る。チャツネは私たちが帰るまで相原食堂の前や近くにいて、その後はきっと安心できる寝床へと戻っていくんだろうけど。
そこが一体どこだか私は知らない。
一度だけ遠くから見かけたチャツネの後をこっそりとつけたことがあるんだけど、途中で気づかれ嬉しそうに駆け寄ってきたので怒涛のなでなでタイムに突入してしまった。
だって尻尾をピンッと立ててちょこちょこと走ってくる姿を見たらきゅんきゅんしちゃって止まらなくなっちゃうんだよ。
猫って本当に魅力の塊だと思う。
丸みのあるフォルム。くるっとした愛らしい目。ぷにぷにっとした肉球や、爪を隠しているクリームパンみたいな前足。感情豊かな尻尾に、太陽に透けて光る毛並み。
長いひげの生え際を指先で撫でるとむにゅっと上がる口元とか、湿った鼻先に時々しまい忘れて舌の先がちらりと覗いているのとか。
もぉおお!可愛いしかない。
「しかも鳴き声が”にゃん”だなんて確実に殺しに来てるよね?」
「んにゃぁん」
「くぅ。その鳴き方もかわいんだよぉ」
右へ左へごろんごろんしながらチャツネは喉をゴロゴロ鳴らしている。撫でている私の手が離れないように上手に転がり、細めた目の向こうからキラキラした視線を向けてくる。
「一緒に住めたらいいんだけど、ウチ借家だからなぁ」
「ん、なああ」
ペット禁止なことを嘆いた私に当のチャツネは「そんなのごめんだわ」と言いたげに鳴いて。くるりとうつぶせになるとぐんっと伸びをした。
そのまま毛づくろいをしようと右手を上げた瞬間にぴたりと止まる。
全身に緊張感を漲らせたチャツネに様子に「おや?」と首を傾げた私の背後でカラカラと引き戸が開く音がした。
振り返ると最近よく来てくれる大学生の男の子がぺこりと頭を下げる。
私も慌てて座ったままぺこりとお辞儀をした。
「いつもありがとうございます」
「あ、すみません。猫が」
よっこらしょっと立ち上がった時にはチャツネの姿は無く、壁を曲がっていくしっぽの先がちらっと見えた。
「いいんですよ。あの子、男の人が苦手なんで。別にお兄さんが特別嫌いだとかそんなんじゃないので気にしないでくださいね」
長い前髪と眼鏡のせいで表情はよく見えないけど、申し訳なさそうに背中を丸めているからそう声をかけたんだけど。
どうしてだか「男が、苦手」と呟いてさらにしょんぼりしてしまった。
「え?お兄さんもしかして猫好きなんですか?
もしそうなのだとしたらちょっと難しいかもしれない。
チャツネは元々警戒心が強いけれど、慣れてくれば女の人には時々触らせてくれたりはするんだよね。
でも男の人と子どもは近づくことも許さずさっと逃げちゃう。
子どもを避けるのはなにをされるのか分からないし、動きも予想できないから怖いのかなと思う。
男の人がだめなのはきっと。
「多分あの子、男の人にすごく怖いことされたんじゃないかなと思うんです」
だから申し訳ないけど仲良くしたいなら他の猫をあたって欲しい。
すごく怖くて痛い思いをしたチャツネにこれ以上嫌な思いをさせたくないから。
「三歩ちゃん。彼はチャツネ嬢と仲良くなりに来てるんじゃないと思うよ?」
大学生のお兄さんが視線をウロウロさせながら「いえ、あの」となにか言いたげにしていたんだけど、にゅっと現れた木村さんに驚いて口を閉じてしまう。
「もちろん相原食堂のご飯も楽しみに来てくれてるって半分くらいは信じてるけど、チャツネの可愛さはそこら辺の猫ちゃんより上なので」
「ぶはっ!三歩ちゃん、ほんとにさ、なんで、そうかなぁ」
笑いながら途中で喋ろうとするから途切れに途切れになってるよ。
どっちかにした方がいいと思いますけどね?
木村さんは目尻に溜まった涙を拭って大学生のお兄さんに同情の眼差しを向ける。
「報われないって辛いよネ」
「あの、そんな」
反応に困っている大学生の肩を軽く抱いて「相談ならいつでも乗るからさ」なんて木村さん何気に楽しんでない?
悪ふざけもほどほどにしてくれないと、貴重なお客さんが減っちゃうじゃないの。
まったくもう。
「お兄さんが困ってるじゃないですか。木村さん馴れ馴れしすぎなんですよ。ほら、離れて離れて!」
「えー?なに?三歩ちゃん。嫉妬?」
「は?誰が誰に嫉妬するっていうんですか。さっさと仕事に戻らないと社長さんに怒られちゃいますよ」
「ヒドイ!三歩ちゃん冷たい!」
「冷たくて結構ですー」
軽口を叩きながら木村さんはすぐに大学生の彼を開放する。その隙を逃さずぴゃっと逃げ出し、ペコペコ頭を下げながら帰っていくお兄さんに苦笑いで手を振っておいた。
忙しい時間帯を避けて来てくれる貴重なお客様だったのに。
もう来てくれないかもしれない。
「まあ冗談はさておき。彼もしかしたら三歩ちゃんの大切なお友だちの関係者かもしれないよ」
「え?」
チャツネの関係者ってどういうこと?
「もしかして」
頭に浮かんだのは不穏な予想。
できれば外れてほしいと思ったし、もし彼がそうなのだとしたら言ってやりたいこともたくさんあったけど。
頭の芯の方がきゅっと冷えてそれが手足にまであっという間に伝わっていく。
「あー違う違う」
青くなった私を見て木村さんは慌てて否定した。
「俺さ。割と彼と一緒になったり入れ替わりで来たりすること多いじゃん?」
「……かもしれません」
木村さんもお昼のピーク前とか時間遅くに来ることが多い。
言われてみれば木村さんに食後のデザートの果物を出す時、彼にお裾分けすることも結構ある。
「でね。彼がチャツネ嬢へ熱い視線を送っているのを見たことあるわけよ」
「……つまり?」
回りくどい。
ちょっとイライラする。
「もしかしたら前の飼い主さんだったりとかするかも?なんて」
あはっと首を傾げた木村さんの言葉は私の一番弱いところにズバンっと重い一撃を加えてきた。
「っでも!そんなの、もしそうならなんで捨てちゃったの!?それに、チャツネだって飼い主だった人ならもう少し嬉しそうにしたりしませんか!?」
「ちょっ、ちょっと。落ち着いて」
「だって!」
そんなこと。
言われても。
「あのね。捨てたくて捨てたわけじゃないかもしれないでしょ。三歩ちゃんだってチャツネ嬢と一緒に暮らせない理由があるんだから一方的に責めるのはよくないと思うけど」
お互いに事情があることを忘れないでね――とは耳が痛いし、深く反省するとこだ。
「そもそも俺の勝手な憶測だからさ。そんなに怒らないで。それにもしかしたら彼もチャツネ嬢が怪我している時に見かけてずっと心配してくれてたのかもしれないし」
「なるほど」
でも、もしあのお兄さんの事情が変わって。
チャツネを迎えに来たんだとしたら。
「最低だ」
喜ばなきゃいけないのに、喜べない自分がいる。
野良でいるより安心で安全な家でお腹いっぱいご飯が食べれて、可愛がってもらえるほうが幸せなことなのに。
「お兄さん、なにか言いたそうだった」
「だねぇ」
大きくため息を吐く。
「あーあ。心の準備しとかなきゃですね」
「三歩ちゃんならチャツネ嬢の幸せを一番に考えて行動できるよ」
きっとね。
「みほー!わたしらもご飯にしようか」
「はーい!」
入り口を閉めたまま中から大声で呼ばれ、顔を向けるとガラスの向こうで母が手を振っている。
「んじゃあね」
笑顔で背を向けた木村さんに色んな意味を込めて「ありがとうございました」と声をかけた。
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