年明けこそ鬼笑う ―東寺合戦始末記― ~足利尊氏、その最後の戦い~
四谷軒
01 准后(じゅごう)・北畠親房の死
一三五四年四月。
大和国
一人の老人が死んだ。
老人は若き日に後醍醐という帝に仕え、以来、息子を死なすような破目になってなお、後醍醐の皇統――南朝を支え戦い、一時は京、鎌倉、神器、そして北朝の治天の君となるべき皇族をほぼ抑えて、南朝をこれまでにないほど隆起せしめた功臣である。
老人の名は、北畠親房。
その功により、後醍醐の後継たる後村上帝より、
少なくとも、南朝においては。
そしてその親房が死に際して遺した言葉が――
*
「――年明けこそ鬼笑う、か」
同年、武蔵。
入間川。
入間川御陣と称される、関東公方・足利基氏の政庁にて、その基氏は自身を補佐する関東執事(後の関東管領職)である畠山国清より、報告を受けていた。
基氏は北朝の征夷大将軍・足利尊氏の次男であり、嫡男であり兄である
その関東公方になった時、南朝方の大攻勢、すなわち新田義興(新田義貞の子)らの鎌倉攻めにより鎌倉を攻め取られるという破目に遭う。
この時は、基氏の父である尊氏が、南朝方を相手に奮戦し(武蔵野合戦)、その勢いに乗って、基氏は鎌倉を奪還した。
しかし基氏という男の非凡なところは、取り戻した鎌倉に拘泥せず、今後の関東の防衛と安定を見すえて、関東公方府を鎌倉から入間川に移したところにある。
つまり、新田家の勢力が色濃く残る
これが入間川御陣であり、以後、基氏は六年間にわたり、そこに居を構え、彼はこう呼ばれることなる。
「入間川殿」
そして今、基氏をそう呼んでくる目の前の男は、関東執事・
元々、基氏の補佐というか執事には、
「何か」
国清はしたり顔で基氏に言上する。
「何か、ではござらぬ。准后の死に様について問うたは、入間川殿ではないではござらぬか」
「
聞きたいことは聞いたから、もう良いという意味で黙っていたのだが、国清は納得のいかない顔をしている。
もっと
もっと
……そういう顔をしている。
そしてまた、観応の擾乱においては、足利直義の方についていたが、足利尊氏が関東へ兵を進めてきたときに、あっさりと尊氏に鞍替えしたという経緯を持つ。
そのため、こうして何かの功績があると、
今回も、その直義
「大儀」
かろうじて、腹の底からその声を絞り出して、基氏は国清を退出させた。
気に入らない。
やはり、上杉憲顕の方が。
――そこまで考えた基氏に、
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