第4説 暗愚亭日常 の1
今ここに京都市の地図がある。私の眼は東山二条から百万遍までの距離を測る。学生時代、京都会館第二ホールで観劇した後、この距離を歌いながら歩いて帰った。労演に加入していた私は、その頃毎月一度芝居を観ていたのである。街灯に浮きあがる道、市電のレールの光、橋下の川面に映る灯。孤独は無論あった。しかし心の中では、舞台の残像がちらつく
その頃経過しつつあった片恋の切なさ、他人と融和できない自己というものへの憐憫、そうしたものが相俟って、私は一層甘美な、そして悲壮な気分になった。歌に籠める自らの気持に感激して、私は涙を流しそうだった。
そうだ、学生時代とは自分を待っている世界―それは必ずある輝かしさを持っている―を実感できる時代なのだ。その輝く世界を、頭ではそこに到るまでの困難を認めていても、感覚としてはすぐ手の届く所にあると感じている時代なのだ。
それ以後は下降だ、実生活への。私の下降は五年前から始まった。大学の地を去った帰郷の年から。現在なお下降中であり、これは下降中途からのレポートとも言えるだろう。
帰郷した私を待っていたのは生活のための仕事であり、その仕事が引連れてきた様々な現実だった。
ここに一人の男が居る。私の職場で働いている人間だ。彼はK県の、旅館を経営している富裕な家に生まれた。彼の結婚式には市長を始め、二百人が出席し、本人の話によると新聞にもその記事が載ったという。ところが彼は「旅館は嫌だ」と、親にスナックを開いてもらい、四軒のスナックを持つマスターになった。その彼が今は郷里を飛び出して北九州くんだりで板前として働いている。原因は放蕩である。店の売上金を持ち出して飲みに行き、金が足りなくなると店に電話して持って来させる。そのうち行きつけの店の女と関係が出來、妻と離婚。彼の内面に深い挫折があるのは確かだ。仕事が終ると毎晩それだけが楽しみのように酒を飲む。休みの日には競輪に行く。「離婚して、家を出て来てよかった。あのまま居たら俺はダメになっていた」―強がりはあるにしても彼の述懐である。一人息子。父親は既に居ない。母親は病気で入院中。店の使われていない一室で彼は寝起きしている。「三十過ぎの男が…」は彼には禁句だ。
つまり彼は気が弱かったのだ。一つの店を背負って客の前に立ち、従業員を統率する。これが彼には苦痛だったのだ。それよりも人に使われる方が楽と考えたのだろう。盆、正月に帰郷しても、板前の居る調理場には決して行かないという。そこに行けば彼はやはり経営側の一員であり、そういう目で見られることを彼は避けたいのだ。自身板前として、板前たちの心裡が分るが故になおさら苦痛なのだろう。旅館は叔父夫婦が預かっているとのこと。
こうした人物も帰郷した私を取り巻いた現実の一部である。言い遅れたが、私の職場は料亭だ。創業者の息子として、私も経営側の一員なのだ。私の職場には彼に類する人物が少なくない。
父母に早く死に分れ、四人の兄弟姉妹を戦争で失い、遠縁の叔父の他、身寄りが一人も居なくなった仲居が居る。神戸で生まれ、北九州まで流れてきた。若い頃は税関に勤めており、教会の牧師に習ったというその英語は、今も酒場で外人に会った時など立派に役立つようだが、どういう経緯で水商売に入ってきたのか。スナックの雇われママにもなったらしいが、客のツケが嵩んで左前となり、借金を背負って元の仲居に逆戻り。ヤクザと内縁関係にあったが、近頃ようやく手を切ることができたらしい。彼女の夢は一人息子の将来だ。母親思いの、学校の成績もいい息子のようだ。「大学は理科系に進みたいと言うんやけど」―息子の話をする時、彼女の声には弾みがある。私は店が終ると彼女を自宅まで送るのだが、いつもアパートの一番端の彼女の部屋だけ明りがついている。息子が勉強しながら待っているという。
こうした人々の居る世界が急に私の現実となった。そこはどのような観念でもない、生きる=食べるという事実が至高の価値として人間を支配する世界だった。人々はその価値を軸として、互いに張り合いながら協働していた。
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