1980年代

第3説 祖父追悼

  

 その本屋に寄る時は、義務を果す機会のように、あなたの居る病院まで足を延ばしたものでした。

 入院して間もない頃は、ものは言わないまでも、後の状態に比べると、あなたは生き生きと対応したと思い返されるのです。あなたは待っていたように、起してくれという身振りを示し(あなたの身振りはいつも切迫したものでした)、僕はあなたを車椅子に乗せて、病院の中を回ったのでした。

 あなたが家に居た時も、僕は何度かあなたを車椅子に乗せて、外に連れ出しました。そうしてやりたい気持が俄に生じて。あるいは母に言われて。回数は本当に思い出したようだったけど。あなたは鉛のように重く、坂を下る時は一緒に転げ落ちそうな感じがしたし、坂を上る時は息切れして、途中で休まなければなりませんでした。前を向いたまま、うんともすんとも言わないあなたを恨めしく思ったものです。しかし、それはあなたにとって大きな喜びなのでした。外に連れて行こうと言うと、必死に土間までいざり出てくる姿に、あなたの希求は溢れていました。

 病院の一階、二階と廻り終り、廊下の突当りの閾を越えて、青空の下のテラスにもあなたは出たのでした。向いのビルは建設中で、日射しを浴びて、ブルドーザーや作業服の人が動いていました。ふり向くとあなたは無表情でした。いつものように。あのいら立たしい思いが僕をその時も捉えました。物事に感応する心をあなたは失っていると。何度それを感じたことでしょう。しかしそういう段階では既になかったのです。何と僕の心はあなたから遠かったことでしょう。あなたの死期は迫っていたのです。そうです祖父よ、あの時僕は次のようにも感じていました。飽いたのだと、この世の事にあなたはもう厭いてしまったのだと。

 その時以降、ベッドを離れたあなたを記憶しません。ベッドを離れようという身振りさえ示さなかったと思います。僕が訪ねると大抵あなたは眠っていました。落ち窪んだ眼窩、頬肉、すぼんだ口、喉仏、突き出た鎖骨、褐色の紙のような皮膚、僕はそれらを脇に立って見つめていました。目覚めている時は、近づいて話しかける僕に、あなたは合掌しました。しかしその眼は(白内障を病んでいました)本当に僕を認めているのかどうか、疑いを抱かせるぼんやりしたものでした。飲み物を求める手振りの他は、あなたの意思表示はめっきり少なくなっていました。僕は枕元の椅子に座り、買ってきたばかりの本のページを繰りました。そして本から眼を上げ、眠るあなたの顔を眺めました。看護婦さんが散髪をしたということで、頭髪のほとんどない頭は、頭骨をそのまま感じさせました。あの猿面のような鋭さを表し始めていた顔容は、今思えば死相だったのです。

 しかし、あなたの死はやはり不意でした。一月二十七日未明、あなたは亡くなりました。眠っている僕を母の電話が起しました。あなたに最後に会ってから一ヶ月程が経っていました。なにがよかったのだ、この世に生きてどんないい事があったのだ、僕はそう呟きながら、服を着ていました。僕はあなたと共に、この世を呪っていました。

 焼場の灼熱した窯から、あなたは灰になって出てきました。熱くて近寄れない鋼鉄の床台に、あなたの前頭骨が崩れずに載っていました。ベッドでも見おろした、僕が幼い頃からあなたの特徴だとして聞かされた、あの高い額でした。

 祖父よ、あなたは十年間ほとんど部屋から出ることのない生活を送りました。最後の五年間は寝たきりと言っていい生活でした。酒のためにあなたの晩年は狂ってしまいました。そしてそういう目でしか僕はあなたを見ることができませんでした。あなたは無為でした。脚が動かなくならないように、適度の運動を勧めても、あなたは部屋に座ったきりでした。ただ朽ちていくのを待っているかのようでした。それが僕を苛立たせ、あなたへの態度を棘あるものにしました。

 あなたは見事に朽ちました。十年間、自らの行為の結果を一身に引き取るように、狭い部屋の中の、一人きりの、孫からも白い眼を向けられるような生活に耐えぬきました。黙りぬいた口はついに言葉を失いました。歩行能力を失った脚と共に。

 祖父よ、しかしあなたにも喜びの時があったのですね。それは僕の知らぬ時間、あなたがではなかった頃。たとえそれが一瞬と感じられる間であったとしても、この人生はあなたにもそういう時を与えたのですね。それを支えにして、あなたは十年間を耐えたのですね。今はそれが分るのです。

 何かの折にその方向のバスに乗ります。バスは例の本屋の前を通ります。ふと寄ってみようかという気が起きます。そしてあなたの死に向き合うのです。この気分のままバスを降り、本屋に入って求める本を探し、思いついて足を延ばせば、あなたがベッドに横たわっていたのでした、ひと月ほど前には。鮮やかな悲しみがふき上がります。

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