同上 の3
番台は時々婆さんから若い女に変った。年は三十前後、顔立ちや小柄な体つきが婆さんに似ていたから娘だったろう。近所を幼い子供を連れて歩いているのに出会ったことがある。私が挨拶しようかしまいか迷っているうちに、向こうから挨拶された。浅黒い顔で眼が大きかった。
この女が番台に出ていると、婆さんの眼さえ気になる私だから、なおさら気になった。脱衣場を平然と前を隠さずに歩く男もいたが、私はそれを見る女の眼を意識した。同時にどんな表情で見ているのかに興味が動いた。私は女の顔を盗み見た。女は平然と他の方向を見ていた。風呂からあがると、私はパンツ姿で体を鏡に映したり、体重計に乗ったりした。そんな時も女の眼が気になった。夏は風呂あがりによくジュースやラムネを飲んだ。番台の前のケースに飲み物が冷えていた。飲み物を出してくれる女の眼が自分に微笑みかけたように見えると、私は意味もなく慌てた。そんな私に構わず女はテキパキと動作した。いつもしっかりした眼で私を見た。よく女湯の方を向いて女客と賑やかに話していた。
婆さんの亭主らしい頑固そうな老人が時折姿を現した。頭髪は短く刈り込まれ、顎には疎らな白い鬚が生えていた。土間で下駄箱の整理をしたり、電動の肩叩き機の具合を調べたりした。無口で静かな老人だったが、一度婆さんと口論するのを見た。客に頭を下げることも滅多になかったが、いつか私が入口の戸を開けるとそこに老人が居て、黙って頭を下げられて驚いたことがある。
寒い日の朝、下宿の近所にビラ入れをしなければならない時があって、人に顔を見られるのが嫌で急ぎ気味に配っていたのだが、風呂屋まで来て戸の隙間に折り畳んだビラがなかなか入らず、今にも婆さんや女が顔を出しそうで焦ったこともあった。
門限を過ぎると浴場は少し暗くなった。灯りの一部を消すのだろう。だが客はまだ四、五人は居た。私もよくその中の一人だった。その時刻になると、番台の女が浴場を洗い始めた。女は黒いショートパンツ姿で入ってきて、捨てられているシャンプーの殻や、石けんの残片、ゴミなどを拾って回った。流しの穴に詰まっている毛髪の塊も除いた。そして入口の方のタイルから洗い始めるのだった。髪などを洗っていると女が近づいてきて、ヒョイと腕を伸ばし、私の前の溝に落ちている小さなシャンプー殻などを拾った。横目に見える剥き出しの太ももがまぶしかった。それは意外に白かった。
ある日の事だ。私は下宿の仲間と酒を飲んだ。ビールと日本酒をかなり飲んだ。そしてそのまま風呂に行った。それほど遅くない時刻だった。
入浴中は何もなかった。あがって服を着ようとロッカーを開けた時、猛烈な不快感が胃のあたりからせり上がった。慌てた私はとにかくパンツだけは穿こうとした。何とか穿き終えた時には不快感は幾分治まっていた。ホッとしてシャツに手を伸ばした時、目の前がスーと暗くなった。私は咄嗟に洗面器を探した。次の瞬間、私は吐いていた。止めることができず、一、二度続けて吐いた。苦しさだけがあった。脱衣場の床に私の吐瀉物が光った。隣の男が調子外れに「ありゃ」と言った。私は苦しさのなかで呆然としていた。番台から女がやって来た。私に何か言った。私は「すみません」と言おうとしたが言葉にならなかった。女は私の背中を撫ぜた。そして椅子に私を座らせ、洗面器を持たせた。それは風呂屋の洗面器だった。私は前屈みになり、喘ぎながら、なお胃の内容物を絞り出していた。汗が鼻先を伝わって落ちた。女は背中を摩り続けていた。
かなりの間私はそこに座っていた。苦痛は徐々に薄らぎ、安堵感が私の中に広がっていった。同時に恥ずかしさと済まなさの感情が私を包んだ。私の前で女が吐瀉物の始末をしていた。私は床を洗っている女に何度か「すみませんね」と言った。女は笑うだけだった。私が椅子から起ち上がった時、「これあんまり汚れていたからついでに洗っといたわ」と女は微笑して私の洗面器を差し出した。煤で汚れていた洗面器がすっかり綺麗になっていた。
その次に番台に居る女に会った時、私は礼を述べたのだが、女はもう忘れているような顔だった。服を脱ぎながら番台の方を見ると、女はいつもの調子で女客と楽し気にしゃべり合っていた。
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