同上   の2

 風呂屋の戸を開けると、番台の婆さんが「おいでやす」と声を掛ける。私はそそくさと靴を脱ぎ、百円玉を番台に差し出す。この時早く出そうと焦ると却ってポケットからなかなか百円玉が出てこなくて困った。またポケットを探る段になって金を持って来なかった事に気づいた時もあった。慌てる私に「次の時でよろしおま」と婆さんはあっさり言った。番台の上には釣り銭用の十円玉が山にして並べてあって、金を出すと「おおきに」という言葉とともにその一山を滑らせて寄こす。それは確か最後には一枚になった。

 脱衣場に上がるとロッカーを探す。ロッカーといっても漢数字を打った木製の箱で、それが脱衣場の右端に縦五列横十列ほどに並んでいる。錠はかなりくたびれていて、施錠の後も扉を引っ張るとガクガクした。ゴム輪のついた鍵を手首にはめて浴場に入っていく。

 浴場には中央と二隅に浴槽があった。中央の浴槽は二つに仕切られていて、一つは浅く、尻を着けることができ、もう一つは深かった。湯も深い方が熱かった。私は最初浅い方に入り、あがる前に深い方に入った。大体そうしていた。深い方に肩まで沈んで、どれ位堪えられか数を数えたりした。二隅にある浴槽は一つは水風呂で、浴場の出入口の脇にあり、もう一つは黒っぽい岩で作られた岩風呂だった。岩風呂の湯はぬるかった。水風呂にはあがるまえに浸っていく人もいたが、私は終に入らなかった。

 客は学生や近所の人々だった。女湯の方からは賑やかな話し声や子供の声が聞こえてきたが、男湯は静かだった。体を洗いながら口笛を吹くと、離れた所にいる男がその曲を口遊んだりした。

 近くの古本屋の白髪の店主や、近所を和服姿で歩いているのを見かける立派な白髭を生やした老人も来ていた。裸になった彼等の筋肉は意外に若々しかった。白髭の老人の膚は湯からあがると健康そうな桜色になった。彼等は洗い場で手足を屈伸させたり、水風呂に入ったりした。体を鍛える彼等になお衰えぬ性への執着のような者を感じ、私は妙に興奮した。

 私の入浴は短かった。友人にのんびりする時は一時間も入っているという男がいたが、それは彼の性格からも頷けたが、私はゆっくりしたと思った時も三十分を越えなかった。いつも何かに追われている感じで、そんな自分が嫌だった。

 風呂からあがると水で顔を洗った。浴場を出た所に洗面場があり、裸の男達が顔やタオルを洗っていた。いつか私もそれをまねるようになっていた。夏場などは脱衣場に扇風機に当る男達の列ができた。脱衣場の正面上方の壁に直径一メートル程の扇風機が斜め下向きに取り付けられていた。私も男達の列に並んで涼んだ。前にタオルを当てただけの姿は気になったが、これは気持が良かった。

 客が出ていく度に、番台の婆さんは「おおきに、さいなら」と言った。客が土間に降り履物を履くまでは頭を下げるだけで黙っている。戸を開けると同時に、「おおきに、さいなら」と婆さんは言った。その独特な京なまりの抑揚は今も頭に残っている。

 ある日、戸を開けて外に出ようとすると、かなり強い雨が降り出していた。私は怯んだが、「よし、走っていこう」と心を決めた時、後ろから婆さんが「あんた傘がないんか」と声をかけた。私が下宿が近いから走っていくと言うと、婆さんは少しきつい顔になって「かまへんから傘持ってお行き」と言い、土間に降りて傘を出してくれた。握りの太い、大きな蝙蝠傘だった。婆さんの顔にはいつも穏やかな笑みがあったが、それが時々泣き顔に見えたり、諦めの表情に見えたりした。

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