第2説 風呂屋の記憶 の1

 

 下宿の近くに風呂屋があった。学生時代のことだった。

 その頃私は月に五、六回位しか風呂に入らなかった。時折自分の不潔さが気になると、風呂に入ることを思いつくという感じだった。

 別にその風呂屋が気に入っていたわけではない。ただ近くにあったので私はそこに通っていた。いつだったか友人と一緒に、彼の行きつけの銭湯に行った時、光線の関係か、貼ってあるタイルの関係か、その銭湯の水が非常に澄んで見え、友人を羨ましく感じたことがある。私の通っていた風呂屋の水にはそんな澄明感はなかった。だから時には足を延ばして他の銭湯に行くこともあった。しかし歩くには距離があったので大した回数ではない。

 十一時がその風呂屋の門限で、私が入浴するのは大抵門限が迫った時刻だった。ある青年組織の活動家だった私は下宿に帰るのがいつも遅かったし、たまに早く帰っても、読みたかった本を読んだり、遅れている学校の勉強をしたり、又はボンヤリしたりしていて、風呂に入ろうと思いつく頃にはそんな時刻になっていた。慌てて風呂屋に駆けつけると、もうノレンが降りていたり、ちょうど降ろしかかっていたりしたことが何度かあった。しかしそんな時も脱衣場に明りがつき、人々の影がガラス戸に映って見えると、私は遠慮勝ちに入口に近づいた。風呂屋は快く迎え入れてくれた。

 ある日、午後にポッカリ暇ができて、今しか時間はないし、昼風呂に入るのも面白いと出かけていくと、風呂屋はまだ閉っていた。昼の光の中に見る風呂屋は白々としていて、いつもの大きなノレンが掛かってない入口はみすぼらしく見えた。私は暫く涼み台に腰をおろしていた。風に吹かれて転がる紙クズを眺めながら、妙に気が滅入っていった。

 表通りから入っていく二つの路地に挟まれた、周りから五十センチ程高い平地の上に風呂屋は建っていた。風呂場の前はちょっとした広場になっていて、それぞれの路地から玄関へ続く二列の踏み石が並べられていた。その踏み石の上で近所の子供達が遊んでいた。住居が建てこんでいる中で、そこはエアポケットのような空地だった。表通りからは遮断されていたから子供達にはいい遊び場だった。

 風呂屋は玄関の構えも立派な木造建築で、かなり大きかった。その造作と大きさが一種の風格を感じさせた。しかし細部に目をやれば、建物としての盛期を過ぎてしまったたるみがそこここに感じられた。

 中に入ると浴場も脱衣場も広かった。浴場はタイル張りで、脱衣場は黒光りする板張りだった。柱はどれも太かった。湯に浸かって、頭を浴槽の縁に預けて天井を見上げると、湯気のあがっていく彼方に、剝き出しになった屋根裏が見えた。そこには一抱えもある太い梁が幾本かがっしり交叉していた。外から見るよりもかなり高い位置に見え、伽藍を仰ぐような趣もして、思ったより古い風呂屋の歴史を感じさせた。

 風呂屋に行く時の私の持ち物は、プラスチックの洗面器、花の絵のついた石けん箱、シャンプー、タオル、そして着替えの下着だった。他に一度か二度靴下を持っていって洗濯したことがある。前の三つは用が済むと洗面器にまとめて、押入れの中の電気コンロの上に置いていた。電気コンロにはラーメンなどをこぼして焦がした煤が付いていて、洗面器の底は煤で黒くなっていた。目につけば気になったが不精な私はそのままにしていた。タオルは私の部屋の戸口に三本ほど吊るしてあり、その中で一番汚れが目立つのを風呂屋に持っていった。タオルに石けんをつけて体をこすれば、体もタオルも同時にきれいになるという一石二鳥を狙ったのだが大した効果はなかった。下着の着替えは、入浴と入浴との間隔が大体四、五日はあったので、ほぼ入浴の度に行っていた。冬などは洗面器からズボン下などを溢れさせて私は風呂屋に通った。

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