同上   の2

 私と同じ下宿にTという学生が居た。法学部の学生で一年私より下だったが、“ノンポリ”学生だった。温和な男で、いつも眼鏡の奥の眼は微笑を含んでいるようで、この男が怒ったり、悲しんだり、とにかく感情を激しく動かすところを私は見たことがなかった。髪などもきちんと分けていて、いつも良家のお坊っちゃん然とした小奇麗な服装をしていた。

 彼の部屋を初めて訪ねたのも確か活動のためだった。その下宿には八人ほど学生が居たのだが、私と彼等との往き来はあまりなかった。私が下宿に居る時間自体が少なく、おまけに一人だけ別棟の二階に居たせいもある。それだけでなく、変に打ち解けないところがある私の性格も関係していただろう。これはという用事がなければ私は彼等を訪ねなかった。人を訪ねる時はそれなりの理由を必要とし、その用件が終ると早くひきあげねばと気を廻すのがその頃の私だった。また活動家は私一人で、他は皆一般学生だった事もある。朝から晩まで外を飛び回っている私の日常は、彼等のそれとかなりかけ離れていて、話をするにもなかなか取っ掛りが見つからなかった。そんなわけで、私は至って固い態度でTの部屋に入り、固い話を始めたのだ。Tは最初かすかに迷惑そうな表情を見せたが、すぐにそれは消えて、普段の柔和さが彼を包んでしまった。彼は意見らしい事は殆ど言わず、専ら聞き手になっていた。活動家としてよりも下宿の先輩として私を遇しているようで、私が勧める政党機関誌をあっさり購読してくれたのもその辺からだったような気がする。

 私はそれがきっかけでちょくちょく彼の部屋を訪れるようになった。彼の部屋は四畳半だったが、家具類は壁に沿ってぴっちり嵌め込まれていて、中央に座れば、部屋の割には広く感じられた。黄色のカーペットが隙間なく敷かれていて、部屋の印象を明るく暖かいものにしていた。入口の戸のガラスの部分に、裸にタオル地のガウンを着けたマリリン‐モンローが、両手を頬に当てて、波打ち際で何か叫んでいる写真が張ってあった。それはガラスを透かして外からも見え、Tの部屋の標識ともなっていた。モンローにしては刺激的でなく、むしろ清楚な感じのその写真を、私は温和なTに似合っていると思った。彼はアマチュア無線をやっていて、そのための機械が確か机の上と下にあり、その横にミキシング装置の付いたステレオの本体が置かれていた。これらの機械類のため、彼の部屋にはぴっちりした宇宙船の司令室という感じがあった。

 ちょくちょくと言っても私の事だから、思い出したような訪ね方だったし、時間も短かった。実は彼の部屋に行っても、私の考えていた用事が済めば、大して話す事はないのだった。趣味の方向が彼と私とは違っていて、一つの話題で会話が続くということはなかった。それでも私は彼の部屋に居るとある寛ぎを感じたので、例の気持を抑えて、用事が終ってもすぐ席を立たなかった。彼も気のいい男で、私を追い出そうとするようなところはなく、むしろ寛がせようと気を配る風情だった。彼は今頃はオリオンが綺麗に見えるとか、短波、中波、長波の波長がどうこうとか、日頃私が考えもしない事を話した。私はただ珍しくその話を聞いていた。彼の話を聞きながら、こんな学生時代の過ごし方もあるのだという思いが私の内に沈んでいった。

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