エッセー拾遺 ― 文芸誌のコラムから

坂本梧朗

1970年代

第1説 白いギター の1

  

 私の部屋に弦が一つ切れてしまった白いギターがある。いつもは本棚と箪笥の間に押し込められていて目につかないのだが、正月の四日、部屋の炬燵に座って辺りを眺めていると、それが本棚のガラス戸に立てかけられているのが目についた。正月の家族旅行の間、留守を預かってくれた親戚の家の子供達が出してきて遊んだのだろう。

 このギターを買ったのは四年前だったか、三年前だったか、意外なことにはっきりしない。しかしそれを買った日は寒い日だったという記憶がある。買いに行く途中のショウウインドに映った自分のオーバーと襟巻姿を覚えている。確か雪もチラチラ降るような日だった。

 当時、私は学生で、かなり熱心に学生運動をしていた。下宿でゆっくりすることは殆どなく、いつも外を飛び廻っていた。オルグのために、いわゆるノンポリ学生の下宿を廻るのも、その活動の一つだった。名簿で当っていくのだから、下宿で会う時が初対面というのが大部分だった。しかも会話を楽しむのではなく、相手を説得しようというのだから、打ち解けた話にもならず、私としては苦痛な場合が多かった。しかし使命感が私を衝き動かしていて、そんな事を考える前に体の方が動いていた。

 “ノンポリ”学生の部屋は概して綺麗に整理されていた。学生の部屋の調度と言えば、本棚、机、ちょっとした水屋、冬ならそれに電気炬燵と大道具の相場は決っているのだが、例えば机の上がスッキリ片づけられているとか、本棚の本が種類別にきちんとまとめられているという具合だった。水屋からスッと綺麗に洗われたカップとスプーンが取り出され、手際よくコーヒーなどを進められると、私はそれだけでその学生を見直すような気持になった。それらは皆、私の部屋にはない整理と落着きだったからだ。私はコーヒーやお茶を飲んだら、次に飲む時必要となるまで器を洗わなかった。急須を使ってそのままにしていて、お茶の葉に黴を生やしたこともしばしばだった。机の上には辞書や読みかけの本が転がっていた。そうかと思えば本棚には政治文書で膨らんだ紙袋がぶち込んであるという始末だった。時折私にも部屋を整理したい衝動が起きたが、それは年に二、三回程で、しかも畳に落ちている本などをちょっと他に移すと治まってしまうという代物だった。とにかく忙しかったのだ。たまに部屋に居る時は、大抵やらなければならない仕事を抱えていた。それまで手付かずだった試験の準備や、レポートの作成、或いは差し迫ったビラの原稿書き、その時でなければまとまった時間が取れない読書等。そして多くの場合それらは私の睡眠時間を削った。だから実際に部屋の整理を始めてみると、時間が惜しいという観念が急に頭を擡げてきて、私の手の動きを鈍らせた。片付けてもどうせ同じだという諦めも気持を挫くのに一役買った。朝一旦部屋を出ると深夜まで帰ってこない私だった。そんな慌ただしい生活が続く以上、部屋の中の混乱は避けられないという感じだった。土台、部屋は自分の生活の場という感覚が私には育たなかった。無論室内の装飾など考え及ぶ所ではなかった。その頃の私は始終何かを思いつめて暮していたが、それは部屋とは何の関係もない事だった。

 だからこそ却って小奇麗に整理された部屋は不意に私の心を揺すぶるのだろう。訪ねた先の学生と話をしながら、私の心は当人から離れて部屋の有様の方に流れている時がよくあった。下宿廻りで行われる会話が結局どこでも同様だった事も一つの原因だろう。学生の言う事は決っていたし、従って私の対応も反復的なものになった。半ば定式化されたような受け答えをしながら、私の眼は学生の背後の水屋や本棚を眺めていた。話の内容よりむしろ部屋の有様が与える印象の方が、私には鮮やかな時があった。彼等の部屋の落着きが確かに私には羨ましかった。

 よく整理されているというだけではなかった。一般に彼等の部屋は、入口の戸にも壁にも、そして天井にも、女の子のヌードや、大きく引き伸ばした黒人ミュージシャンの写真や、映画、展覧会、演劇などの様々なポスターが張られ、色彩が豊富で、部屋の主人の嗜好をよく表していた。中にはどうして持ち込んだのか、ウイスキーの宣伝用に店頭に置く等身大のマスコットガールを部屋に据えている者もいた。資本主義的だ、通俗だ、と批判を加える一方で、私にはそれらが面白かった。そこには片意地を張らない素直な青春に触れるような快さがあった。そんな時私はふと、もっと楽しみたいと呟いている自分のなかの青春に気づくのだった。

 盆地特有の冷え込みの中で下宿廻りをしていて、彼等のよく整理され、しかも賑やかな部屋に入ると、人間の部屋が持つ暖かさというものを感じさせられた。そんな時は寒い中をほっつき歩いて活動している自分にある無理を感じた。ベトナムの地図が一枚押しピンで留めてあるだけの、寒々とした我が部屋を思うと、自分の生活が含んでいる人間としての不自然さがそこから浮き立ってくるようで私は苦しくなった。重くなった口を開いて、それでも私はオルグを始めた。

 部屋の整理については一定の諦めを持っていた私だったが、彼等の部屋から感じられるとそれなりの豊かさは自分も持ちたいと思った。俺は自分の欲求についてもう少し素直になってもいいと私は思った。

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