第十話 その空間は

 目の前いっぱいに広がる沼の水は僅かに濁っており、伸びてきた足の先を鮮明に確認することはできない。


「さっきまで沼なんてなかったはずなのに……」


 満輝は呆然と沼を眺める。

 勝由も突然広がった光景に唖然としていたが、肌に触れる空気は、以前別のとある場所で感じたものと似ていることを思い出していた。


「なあ、ここってもしかして……」


 それは明李も同じで、いち早くこの場所が何であるかを理解し、いまだのたうつタコの足のようなものを睨み付け警戒を解かない。


「ああ。『神域』だ」


 神域。文字通り神の領域だ。

 滅多に足を踏み入れてはならないこの場所に、明李たちは引きずり込まれてしまったのだ。あのタコの足のようなものによって。


 あの時とよく似ている状況だと明李は思った。

 勝由と二人で旅を始めて間もないあの時、神域に入った明李と勝由が何をやらされたかと言えば、そう。

 カイイ退治だ。


 ザバアッ、と一際大きな波の音がした。

 明李が睨み付け、勝由と満輝が凝視する中、沼の底から上がって来たのは、ドロドロした体の人間よりも遥かに大きな真っ黒な山だった。

 水面に上がるやいなや中心部分が口のように上下に開く。水面から複数飛び出ていた足のうちの一本が、山の口元へ運ばれていく。その足には先程のカイイが捕らわれていた。

 食う気か。明李が警戒を強める。

 カイイは抵抗していたもののあっさりと山に食われた。

 カイイを養分にしたのかは定かではないが、山の千切れた足の先がボコボコと泡立ち、新しい足先が生える。

 勝由は「うへぇ」とげんなりする。


「オレ、前も同じようなこと経験した気がすんだけど」

「だったらやる事はわかってるよな?」

「わかってるけど……はあー、しょーがねえ! やるか!」


 明李と勝由は一歩前に踏み出す。

 その後ろで満輝は一人、目を白黒させる。今目の前で起きていることが、なんとなく危険な状況だということ以外理解できない。その危険なところへ勝由たちが向かおうとしている。


「逃げなくていいの……?」


 声にした後で、我ながら随分間抜けなことを聞いている気がすると満輝は思った。

 明李は視線だけを満輝に遣る。


「お前は後ろに下がってろ。勝由、こっちは任せたからな」

「りょーかい!」


 真っ黒な山がこちらを捉えた気がした。

 明李が大地を蹴り、直進に飛ぶ。遅れて黒い足が二本、明李目掛けてぎゅんと伸びる。

 真っ直ぐ向かってきた一本を殴って反らし、二本目は蹴り飛ばす。続いて水面下から黒い足が二本、三本と飛び出してくる。それらを巧みにかわしながら時折足場にし、黒い足に打撃を加えていく。


 その様子を地上から見上げていた満輝はポツリと溢す。


「すごい……」


 沼の上で五本もの黒い足を翻弄する明李に目が釘付けになってしまう。空中を自由自在に舞う姿は鳥のようだ。


「ああいう戦い方は明李じゃなきゃできねーなあ。……けど」


 同じく空中戦を見上げていた勝由が感心したように呟き、おもむろに背に右手を回す。


「ぶん殴るだけじゃあんまり効果はねえらしいな!」


 途端満輝と勝由のいる近くの水面から激しい水飛沫が上がり、一本の黒い足が飛び出してきた。それは真っ直ぐ二人の所へ伸びていく。

 勝由が、背に差していた短刀を鞘から瞬時に抜き、眼前に縦に構える。ちょうどその真ん中に伸びた足は、綺麗に磨がれた刃に触れ、真っ二つに割かれた。

 山から悲鳴が迸る。


「……勝くん、あれはいったいなに……?」


 勝由の背中を呆然と見、恐る恐る訊ねる。

 二人を襲うつもりだった黒い足は刃に触れても勢いを殺せず、満輝を庇うように立った勝由によって満輝の身長程の長さを割かれた。勢いが止まったところで勝由は短刀を左右に振り、切断された足は満輝の左右にだらりと転がっている。


「あれは……あれもカイイだぜ。神様に取り憑いた、な」


 黒い足が沼の方へ引いていく。地面には擦れた赤黒い跡が残った。

 グルグルと唸る黒い山——カイイは、標的を勝由に変えたようだ。それまで明李を狙っていた黒い足が勝由の方を向く。勝由は短刀を構える。が、予想に反して足が襲いかかってくることはなかった。

 明李が一本の足の上を駆け本体へ近づき、口より上の部分に強烈な一撃を叩き込んだ。体に直接受けた痛みにカイイが怯む。


「神様に取り憑くって、そんなことできるのか?」


 満輝はカイイの動向に注意しながら訊ねる。明李の一撃が余程聞いたのだろう、カイイの標的は明李に戻りしばらくはこちらを襲うことはなさそうだ。


「できるぜ。滅多には起きねーことなんだけどな……。条件が揃うとできちゃうっつーか」

「条件?」

「んー、例えばカイイの格がその神より上だったとか」

「神様よりカイイの方が強いってこと?」

「神にもいろんなのがいて全てが強いわけじゃない。元々大きな力を持ってない神や信仰が薄れて弱体化してしまった神は取り憑かれやすいかもな。あとは、なんらかの要因で神がうっかり闇堕ちしちまった場合とか」


 勝由は満輝に説明する間、しきりに辺りを見回す。まるで何かを探しているようだと満輝は思った。


「ここは神域だけ次元が切り離されていたしこれだけの広さも形も保ててるから、力はある神だと思う。ま、取り憑かれた理由がなんでも神からカイイを払えば良いだけなんだけどな」

「あの黒い山は神様じゃないってこと?」

「あれはカイイの部分だけだな。だからたぶん、前と一緒でどっかに御神体があると思うんだ」


 勝由は御神体を探して辺りを見回していたのかと合点がいった満輝。そういうことであれば自分も探そうと立ち上がる。そのくらいは出来るはずだ。


「御神体か……」


 村の外へ出たことのない満輝は当然神社へ参拝に行ったことはない。そのため、両親や村の人から聞いた話を知識とし、自身の想像と合わせて認識している。

 確か神体は神社の本殿の奥に祀られその形は鏡が多いと、そんな話を聞いた記憶がある。

 満輝は建物を探してざっと周囲を見回す。しかし建物らしきものは一つも見当たらなかった。これは早々に認識が崩れたか。

 それでも何かないかと探す満輝の横で、勝由は明李とカイイの戦闘の様子を伺いながら満輝に訊ねる。


「動けるか?」


 同じ場所にいれば視認できる範囲は決まっている。いくら探してもそれらしき物が見つからないなら場所を移るしかないが、戦いどころか外に出たことのない満輝を一人置いていくのは心配だった。

 満輝は勝由の意図を汲み取り頷く。


「もちろん」

「よし、行くぜ」


 明李がカイイの気を引いているうちに沼の外周を駆ける。そろそろ神体を見つけなければ明李の体力が持たないだろう。勝由に僅かな焦りが生じる。

 しかしカイイもすんなり探させてくれるほど優しくはない。

 人影が動いたことに気付いたのだろう、足が一本勝由たちを目掛けて突き出される。いつの間に再生したのかダメージの痕がどこにも見られない。

 勝由は舌打ちすると、短刀で足をざっくりと斬る。呆気なく切断された足は、しかし引き下がることはなくぶるぶると小刻みに震えると切断面から新たな足が生える。しかも枝分かれし二本になって。


「ここにきて進化とか有りか!?」


 その二本も切れば切った所から新たな足が生える。断面から枝分かれして生えている分細くはなっているがこれでは無駄に数を増やすだけだ。

 思わぬ事態に苦戦する勝由に、後ろで見ていることしかできない満輝は歯噛みする。せめて自分にも武器があれば。

 小刀は所持しているが斬った所から再生されるのではあまり意味がないように感じる。斬るではなく打つか突くか……。

 満輝ははっと目を見開く。動かした腕がたまたま腰の後ろ辺りで硬い物に触れた。

 そういえば村に置いてくるのを忘れていた。こんなにわかりやすい物を今まで忘れていたのはなかなか鈍感だと思うがそこはご愛嬌、満輝は迷いなくソレを帯から引き抜き、勝由の後ろから飛び出すと大本の足へ向かっていく。


「満輝!」


 叫ぶ勝由の手足には足が絡み付いている。

 満輝は止まらず大本の足に、斬るような刃を持たないソレ——金槌を振り下ろした。

 金槌は足を地面に打ち付けゴンとくぐもった鈍い音を鳴らす。

 まったく予期していなかった痛みに足が大きく跳ね、水飛沫をあげる。その時、満輝の視界の端で何かがきらりと光った。満輝はその光りを追って沼へ顔を向ける。


「満輝! ケガは!?」


 そこへ、先程の満輝の一撃で足の拘束が解け、抜け出してきた勝由が並ぶ。

 満輝が「大丈夫だよ」と首を横に振ると勝由はほっと息を吐いた。


「ありがとな。満輝のおかげで助かったぜ」


 そう言って笑う勝由だが、手足のあちこちに小さな擦り傷を幾つも作っており、満輝は「無事で良かった」と出かかった言葉を飲み込み、笑顔を浮かべて応える。

 早くこの戦いを終わらせて手当てをしよう。

 満輝は再び沼へ顔の向きを戻す。先の光はまるで満輝へ場所を教えるかのように、微かな輝きを放っていた。

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