第68話 学長先生も人の子です

 壁に手を当て、ゆっくり奥へと進んでいく。

 しかし、暗闇では足元が見えなくて不安だ。

 案の定、大きな石につまずいて転んでしまった。


「あらあら、大丈夫?」


 すると女性の声が聞こえ、冷たい手が斧使いの腕を取り、引き起こしてくれた。


「ああ……すまねぇ」


 反射的に礼を言ってしまったが、おかしい。

 こいつは誰だ。なぜここにいる。

 そして、この威圧感は何事だ。

 斧使いは反射的に拳を突き出した。

 目は見えないが、声が聞こえた方向へ、当てずっぽうで殴りかかる。

 だが、それは止められてしまった。

 そのまま握り潰された。


「ぐおおっ……!」


 ミシリと音を立て、指の骨が全て砕けた。

 次の瞬間、洞窟全体が明るくなり、自分の拳の惨状が目に飛び込んできた。

 皮膚を突き破って、骨が飛び出している。

 これはもう、もとに戻らないかも知れない。


「テメェ……何しやがるッ!」


「あなたこそ、こんなところで何をしているの? 神獣ハクの御前よ。静かになさいよ」


 斧使いが吐き捨てた言葉に対し、冷水のような声が返ってきた。

 その声の主は、銀髪の女性だった。

 年齢は二十歳前後。

 文句なしに美人の部類で、町で見かけたら間違いなく声をかける。

 しかし斧使いはそれ以上、声を出せなかった。

 別に口を塞がれたわけではない。

 金縛りにあったかのように、体が動かないのだ。

 魔法? いや、単純に、恐怖のせい。


「だ……」


 やっと唾を飲み込み、かろうじて口だけを動かす。


「大、賢者……ッ!?」


 百三十年前にハクとともに魔神を倒した英雄。

 生きる伝説カルロッテ・ギルドレアが眼前にいるのだ。

 無論、斧使いが彼女を直に見るのはこれが始めてである。

 だが、伝え聞いた風貌と一致しているし、何より、こんな化物じみた気配を放つ存在が大賢者でなければ何だというのだ。


「随分と騒がしかったわね。全部聞こえてたわよ。神獣を捕まえて売ろうなんて、身の程知らずにも程があるでしょ。小物なら小物らしく小さい獲物を相手にしていればいいのに、図に乗ってこんな場所に来るから私と出会ったりするのよ。けど、悪運が強いのね。ハクが死んでから来たんだから。そこは褒めてあげるわ。空気が読めてるわよ。これでもし、あと五分早く来て、私とハクの時間を邪魔していたら……今頃ミンチよ、あなた」


 そう言って、大賢者は横たわるハクの頭を撫で上げた。

 ハクはもう動かない。

 卵を産んだ以上、こうなるのは確定していた。

 別に灰色の夜が殺したのではない。

 しかしそれでも、神獣の最後の刻を穢すということの意味を、斧使いは全身で味わっていた。

 大賢者の瞳が、怒りに燃えている。

 その炎が自分にも燃え移ってくるような錯覚を感じる。

 息が苦しい。

 実際には何もされているないのに、痛くて痛くて仕方がない。


「安心なさい。この場所を汚したくないから、命だけは助けてあげる」


 大賢者が呟くと、斧使いの体が沈み始めた。


「っ!?」


 地面に穴が開いたのか。

 いや、違う。

 上手く説明できないが、地面というより、空間そのものに穴が開いたような印象。

 そうだ。さっき少女が斧を消したときも、こんな感じだった。


「この……化物どもが!」


 あまりの恐怖に、あまりの隔絶に、斧使いは逆に開き直って叫んだ。


「お前らのような化物が人間に混ざっているから、俺らは正道を行けないんだ! 化物は化物だけで生きてろよ、なんで俺らと同じ土俵にいるんだよ、ふざけんなよっ!」


 自分たちが活躍できなかったのは、自分より才能ある者がいるから。

 つまりはそういう話であり、それが恥知らずな主張だと分かる程度の分別は持っている。

 なのに、言わずにはいられなかった。

 自分に才能があったらいいのに。そう思って何が悪い。才能ある者には、持たざる者の気持ちは分からないだろう。


「そんなことを言われたって、同じ世界に生まれたんだから仕方ないじゃない。それにしてもまあ、随分と情けないわね。いつどこで挫折を味わったのか知らないし、挫折を知らない私にはあなたの気持ちなんて分からないけど。シャーロットちゃんやアンナちゃんに比べたら、あなたは駄々をこねているだけね。絶望的な差を知っても絶望しない人は、ちゃんといる。甘えないで」


 大賢者の嘲笑うような言葉を聞きながら、斧使いの体は穴に飲み込まれていった。

 甘えないで、と言われたところで怒りしか湧いてこない。

 絶望的な差を知っても絶望しない?

 そんな奴は結局のところ、強いということじゃないか。


「テメェらには、弱い奴の気持ちなんて一生分からねぇだろうな……!」


「そうね。けど、それを言うなら、蟻を踏みつぶさないように気を使っている私の気持ちだって、あなたには分からないでしょ?」


 蟻。

 大賢者はそう言い切った。

 まさかそこまでハッキリと見下されるとは思ってもいなかった。

 ああ、なるほど分からない。分かるわけがない。

 生物としての種が違う。

 少なくともこの大賢者は、生まれてからただの一度も、一般人の目線に立ったことがないのだろう。

 目線を合わせたくても、きっと無理なのだ。

 だからせめて、踏みつぶさないように気を使っている。

 そんな私の気持ちが分かるか――と、大賢者は問いかけてきた。


「くそったれが」


 それが斧使いの返答だ。


「あらそう。ま、いいけど。ハクがいなくなっても、私にはローラちゃんがいるしね」


 そして斧使いは完全に闇に取り込まれた。


        ※


 斧使いに逃亡されても、ローラたちは慌てることなくゆっくりと追いかけた。

 なぜなら、斧使いが向かった方向は、先代ハクがいる洞窟。

 つまり大賢者が待ち受ける場所だったからだ。


「学長先生。ここに誰か来ませんでしたか?」


 洞窟の中は魔法で明るくなっている。

 横たわる先代ハクと大賢者の姿だけが照らし出され、さっき逃げた斧使いはいなかった。


「来たわよ。邪魔だから次元倉庫に閉じ込めておいたわ」


「おお、流石は学長先生。次元倉庫にはそういう使い方があるんですね。参考になります!」


「あなたたちこそ、盗賊を五人もやっつけて凄いじゃない。シャーロットちゃんとアンナちゃんも大活躍だったわね」


「あれ? 学長先生、見てたんですか?」


「その気になれば、見なくても周りの様子が分かるのよ」


「ほへぇ……凄いですねぇ」


 ローラは素直に感心して呟く。

 今のところ、大賢者には逆立ちしても勝てる気がしない。

 こうして身近に強い大人がいるから、ローラは天狗にならずに済んでいる。

 もし大賢者がいなければ……いや、この仮定は無意味だ。

 入学初日、大賢者が保健室で話しかけてこなければ、魔法使いになることはなかったであろうから。

 しかし憧れてばかりいては成長しないので、いつか必ず追いついてみせる。

 そして戦って勝つのだ。


「わ、わたくしだって、集中すれば目を閉じても周囲の様子を感じ取ることが……」


 シャーロットは悔しそうにブツブツ言っている。

 どうやらローラとは違い『いつか』ではなく『すぐ』追いつきたいらしい。

 実に彼女らしい贅沢だ。

 そのはち切れんばかりの向上心が、シャーロット・ガザードという少女を形成しているのだ。


「眠くなってきた。早く寝たい」


 そしてアンナはマイペースなことを言う。

 大賢者の強さに対し、思うところがないようだ。

 とはいえ、彼女の向上心が足りないということにはならない。

 アンナの場合は、『誰か』ではなく『今の自分』より強くなることが大切なのだ。

 まだ数ヶ月の付き合いだが、ローラはそのことが分かり始めてきた。


「ところで学長先生。先代ハクがさっきから動かないんですけど、寝ちゃったんですか?」


「……そうね。ついさっき眠りについたわ。もう起きないの」


 大賢者は眠る先代ハクの鼻先を優しく撫で上げた。

 そのとき、彼女の表情が影になって、ローラからはよく見えなかった。


「え、もう起きないって……もしかして……」


「そう。洞窟に入ってくるとき分からなかった? 神獣のオーラがなかったでしょ。最期を看取れてよかったわ」


 最期。

 ああ、こうなることは分かっていた。

 だがローラにとって、言葉を交わした者が死ぬという経験は初めてだった。

 ついさっきローラは、この先代ハクから子を託されたのだ。

 しっかりと会話をしたのだ。

 なのに、彼はもう喋らない。

 死ぬということはとても悲しいことなのだと、ローラは実感として知った。


「学長先生……大丈夫ですか?」


 そして大賢者の悲しみは、ローラの比ではないだろう。

 百三十年前からの友人の死。

 何も思わないわけがない。

 ローラなど、シャーロットやアンナが死ぬところを想像するだけで泣きそうになるのだ。

 大賢者だって、泣きたいはずだ。


「大丈夫よ。この歳になるとね、友達との別れなんて慣れっこだから」


「そう、ですか……」


 本当に? 三百年近くも生きると、本当にそうなるのか?

 それは慣れてもいいものなのか?


「ぴぃぃ」


 ローラがうつむくと、腕に抱いていたハクが悲しげに鳴いた。

 周りの雰囲気を察して、ハクまで気持ちが落ち込んだのかもしれない――と、ローラは最初そう思った。

 しかし、違った。

 ハクは腕から飛び出し、パタパタと羽ばたいて、先代ハクの額に抱きついたのだ。


「ぴぃ……ぴぃぃ……」


 鳴いて――いや、泣いている。


「ハク……あなた、それが自分の親だって、分かっていたんですか?」


「ぴー……」


 言葉が分からない。だから真偽も分からない。

 けれどハクは確かに、自分の親にすがりついて泣いているのだ。


「……死んだとき、自分の子供に泣いてもらえるなんて、幸せ者じゃないの……」


 大賢者は呟いて、先代ハクの頭を腕で包み込んだ。

 そのとき、彼女の頬に一滴の涙が伝わって落ちるのを、ローラは確かに見た。


「シャーロットさん、アンナさん。私たちは少し、外しましょう」


 ローラが小声で呟くと、二人とも頷いた。

 そして静かに洞窟を出る。

 いつの間にか小雨が降っていた。

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