夏休みレクイエム

羅田 灯油

今から十六年前――確かにチョコ、佐藤知世子は死んだ。


 夏休みの思い出。

 それは俺にとって、今は遠きトラウマと、母親の作る全然パラパラしていないチャーハンと、夏をこれでもかと体現している日差し、そして綺麗な藍色で構成されている。


 藍色――そう、藍色だ。


 陽光ほどぎらぎらしておらず、熱帯夜のとばりとは正反対にすっきりしていて、ラムネよりもきんきんに冷えた藍色だ。元は、鴉の濡れ羽色そのものなくらい長い長い黒髪なのだが、太陽の元に晒されると光を吸い込み、一本一本に若干の青色を帯びるのだ。それが鴉の濡れ羽色に溶け込んで、ぼんやりと燐光を放つような藍色となる。


 その時やっと知るのだ。

 ああ、本当は深い深い藍色の髪なのだ、と。


 目の錯覚かもしれない。けれども夏休みのなにもかもがぎらぎらした世界の中で、彼女の髪だけがそれらを俯瞰するように涼やかだった。ソーダバーの人工的な青色よりも、揺らめくプールの底よりも、風鈴のさざ波模様よりも、ずっとずっと。


 夏の暑い風がうねる中、深い深い藍色の髪は一人だけ勝ち誇っている。俺は、それを観察して思うのだ。


 夏だなぁ、と。


 ――それが失われてから、一体何年経っただろう。

 そして十数年目の真実。無機質な蛍光灯の下では、黒髪は藍色の微笑みを見せないらしい。それを知ったのも三日前のことだ。


 ――何しに化けて来たんだ?

 そう問うて片眉を吊り上げ、用心深く疑る俺を、横から眺めるちんまりとした白いワンピース姿の少女が、にっこりと笑った。そうしてこう言った。


『挨拶しに来たの、おシゲちゃん久しぶり』

「――おシゲちゃん!」


 三日前の記憶から現在の状況把握へと思考を切り替え、俺は溜息を深く吐く。

 ……もう二十五にもなった男に向かって、『おシゲちゃん』って呼ぶのヤメロ。


「えーっ! 『おシゲちゃん』は『おシゲちゃん』だよ。第一『たむらしげる』なんて、オジサンくさいもん!」


 冴えない二十五歳なんて、子供の時分には十分オジサンだと思っていたが、どうやら目の前の『チョコ』は、いくら背が伸びてくたびれたスーツを着て顎鬚生やしても、俺が俺である以上、オジサン扱いはしてくれないようだ。そろそろ青二才だと扱われるのは苦笑が零れるだけなので、どうにかやめてもらいたいものだ。


 ……どうしてなのだろう、と俺は思考を胡乱に巡らせる。


 あの時。

 今から十数年前、正しく述べれば十六年前――確かにチョコ、佐藤知世子は死んだ。


 俺の家で夏休みの宿題をやった後、帰り道の途中で自動車に撥ねられ、すぐさま病院に運ばれたが間に合わなかった。忘れもしない夏休み最後の日、八月三十一日のことだった。


 奇しくも現在、お盆真っ只中である。

 迎え火に誘われて黄泉帰って来たのか。これまで溜まった上司への鬱憤やストレスが、トラウマの衣を借りて化けて出たか。それとも夏バテで参った精神が見せる、幻覚症状のたぐいか。……はたまたそれ以外なのか。


 確かに、こうも暑いと色々と蓄積された陰鬱な気持ちが爆発して、この季節と一番親和性の高い記憶と結びつくのかもしれない……と文系脳でエセ科学的なことを考えてみるも、確かな答えは弾き出せない。


 初めこそ、ベタベタな驚き方で震え上がり、みっともないくらい思いの丈をぶちまけた。

 なんで、どうして。泣き喚くことはなかったが、久し振りに目に見えた取り乱し方をしたと思う。こうも冷静に見解できるのは、ひとえに三日の時間を経たからだろう。昔と一ミリたりとも変わらず、こうも気の抜けた話し方・態度・思考が三拍子揃っていると、折角張ったはずの緊張の糸は、三日でだるんだるんにたるみきってしまったし、竹馬の幼馴染の前で緊張し続けるのも、なんだかアホらしくなってしまった。


 幼少期はなんとも思っていなかったが、一人称が自分のニックネームってのは、今更ながらどうかと思わざるを得ない。


「もーっ、チョコの話、マジメに聞いてくれる気あるの?」


 ないと言えば嘘になる。あると言っても嘘になるかもしれない。

 しかしながら、相手は酷暑の夏に負けた己の不甲斐なさから生まれ出たものだ。真面目に話を聞こうと思う方がおかしい。不甲斐なさがトラウマとくっついて現れ出た時点で、元々おかしいのかもしれないが。


 チョコが呑気にへらりと笑う。


「でも、おシゲちゃんが元気そうで安心した」


 ……元気、元気ねぇ。


「じゃあ言い換えるよ。おシゲちゃんが幸せそうで安心した」


 幸せそう、それならば俺自身も認めて頷くことができるだろう……数か月前、結婚したのだから。

 しっかりしていて、そこそこ美人で、けれども太陽の下に晒されても髪は藍色の燐光を放ったりしない。彼女の髪は茶色なのだ。


 チョコとは、違う。


「じゃあさじゃあさ、答えておシゲちゃん。チョコと一緒に遊んだ夏休みより、幸せ?」

「…………」


 夏休みの思い出。

 チョコが突然、交通事故に遭って死ぬなんてトラウマさえなければ、クッキーの缶に保管していたカードゲームのコレクションよりも尊いものだった。尊い、ものだっただろう。

 全然パラパラしていないチャーハン、夏のむせ返るような湿気と鋭利な日差し、そしてチョコの髪がぼんやりと発する藍の燐光。全てが全て、チョコの死と共に消えてしまった。今はもう、俺の記憶の中にしかいない。


 ――『おシゲちゃんっ!』


 そしてその記憶も、十六年の月日によって擦り切れた映画のフィルムのように劣化していっている。きっとあと十数年も経てば、輪郭をなぞることしかできなくなるだろう。チョコの深い深い藍色の髪も。


 日焼けも気にせず、野山を駆け回ってはセミやカブトムシを取って、蚊に刺されまくって肘の裏側を掻き毟っては、風呂で叫んで、うるさいと親に怒鳴られて……夏休み最後の一週間になって、やっと宿題に手を付ける。親に拳骨を食らって、チョコと一緒に冷えた麦茶を飲みながら鉛筆を走らせる。


 そして最終日、必ず読書感想文で詰まるのだ。

 漫画が好きなチョコは『漫画の感想文書いてもいいんじゃない? おもしろいし』とふざけて、でも先生からお冠を食らいたくない俺達は、近くの市立図書館へと自転車を走らせる。自転車で走ると、チョコの藍色の髪が風で流れるのを思い出す。適当な推薦書を借りて、また来た道を帰る。戻ってからまた書いても、なんだか書き終えてしまうと夏休みが突然終わってしまうような気がして、なかなか鉛筆が走らなかった。

 そうして、柱時計が五時を知らせてチョコが帰る時間になっても、俺は読書感想文を書き上げられないのだ。


 ――『じゃあな、チョコ』

 ――『チョコはサヨナラなんてしないんだよ!』

 ――『なんだよそれ』

 ――『だって、また――――』


 その帰り道、チョコは新学期を迎えることはなかった。

 俺が読書感想文を書き終えるのを諦めても、チョコのいる夏休みは永遠に来なかった。


 全て目の前にあって、手で触れていて、抱え込んでいて、決して手放さなかったはずなのに、残っているものは何一つない。


「おシゲちゃん、どうしたの?」


 チョコが神妙な面持ちで顔を覗き込んでくる。


「どっか痛いの?」


 別に?


「じゃあ……なんで泣いてるの?」


 え?


 そう言われて、やっと自分が泣いていることに気が付いた。

 止めようとしてみた。けれども涙はとめどなく流れていき、遂には頬を伝って滴り落ちた。


 ――子供であった時分、夏が楽しかった。

 ――大人になって自分、夏は暑いとしか感じない。


 俺にとって、チョコは夏の眩しさそのものだ。それが一層、自分が遠くまで来てしまったことを如実に感じさせる。


 俺は――チョコのことが、佐藤知世子のことが、好きだった。多分。


 初恋と呼べないほど幼い感情だった。

 それでもチョコと一緒だったからこそ、あの夏はあんなにも輝いていた。チョコの藍色の髪が冷えて見えるほど、暑かった。


「おシゲちゃん」


 チョコが俺を呼ぶ。もう誰も呼んではくれない、昔のあだ名で。


「あのね、おシゲちゃん。チョコね、これから生まれ変わりに行くの。だからね、おシゲちゃんのことも忘れちゃうから、それで最後の挨拶」


 そうか。チョコは俺との夏休みを忘れても、もう一度あんなにキラキラしていた夏を過ごすのだ。


 羨ましいなぁ。

 おれもしたいなぁ。


 けれど無理だ。俺はこれから奥さんを守らないといけないし、大人は無邪気に夏休みを楽しむことができない。そういう世間の決まりなのだ。


「でもねでもね、これだけは覚えておいて、おシゲちゃん」


 耳元で、チョコがこしょこしょと囁く。


「チョコが過ごした夏休みは、おシゲちゃんと過ごしたんだよ? 誰でもない、おシゲちゃんと過ごしたんだよ? それだけは、覚えておいてほしいかなぁ」


 はっとして見返した俺に、チョコはにっこりと優しく微笑む。


「それにね、おシゲちゃんはチョコがしたくでもできなかったことをさせてあげられるんだよ。チョコはね……白いウェディングドレスも着たかったし、お母さんみたいなお母さんにもなりたかった」


 ああ、そうだった。チョコの将来の夢は子供っぽく、お嫁さんになることだったっけ。

 ……すまん。

 その一言が、自然と口から滑り落ちていた。


「なんでおシゲちゃんが謝るの? 変だなぁ、おシゲちゃんったら」


 本当に、すまん。

 その夢は、既に俺が別の人間に叶えてしまっている。


「謝るのはチョコの方だよ」


 寂しさとも悲しさとも取れぬ顔は、十六年前は一度もしたことのなかった類の表情だった。


「おシゲちゃんにも、お母さんにもお父さんにも、他にもいっぱいっぱい、沢山の人にメーワクかけちゃったよね。だめな子だね、チョコは」


 そんなこと言うなよ、だめな子なのは俺の方だったんだから。

 重い空気を払拭するように満面の、ひまわりみたいに輝く笑顔を浮かべて、チョコは笑う。


「でも、今度こそ楽しく新学期を迎えるんだ!」


 ひんやりとした藍色の燐光とは真逆の――そう、十六年前、俺はこの笑顔が好きだった。この笑顔と一緒に、新学期を迎えたかった。


 同時に思う。

 次こそはこの笑顔のまま、新学期を迎えてほしい、と。


「それじゃ、チョコ行くね。おシゲちゃんがチョコのこと忘れても、きっとどっかで、おシゲちゃんの中で生きてるはずだから」


 ……そうか?


「そう! チョコを信じなさーい!」


 ……そっか。


 俺は、やっとはにかむことができた。

 昔のように。十六年前のように。


 んじゃま、さよならさん。


「チョコはサヨナラなんてしないんだよ! だって、また――――」


 最後の言葉は、夏の日差しに晒されたアイスクリームのように、蕩けて聞こえなかった。











 ――その晩。


 お盆休みもそっちのけで短期出張している妻から、電話があった。

 いや、毎晩電話がかかってくるので別段珍しいことではなかったので、特に気にも留めずスマホの通話ボタンを押した。


 もしもし?


『ああ、茂君。今日はなにかあった? 仕事とか、その他のこととか』


 あー、昔死んだ幼馴染が化けて出た。


『え?』


 すまん。俺も焼きが回ったな。

 変なこと言っているとは自覚しているんだ。昔死んだ幼馴染の女の子が、生まれ変わるとかで挨拶しに来たっていう白昼夢を見たんだよ。それか本当に夏バテの悪影響か、仕事の溜まりに溜まったストレスとかかな。


『その女の子、最後になって言ってた?』


 サヨナラじゃない……とかなんとか。


『……そっか』


 どうしたんだよ? いきなり妙にしんみりした声出して。


 妻は、そんなに明るくきゃぴきゃぴした性格ではない。まあ二十五の俺より三歳年上の二十八歳なら、更に落ち着き払った性格をしていても不思議ではないが。

 それでもスマホのスピーカー越しに、こんなにも真面目な声で話すなんてことは、これまで数えるほどしかなかった。いつもなら、俺のだらしのなさを怒る時用の声だ。だが今回は使い方のベクトルが違う。ように思う。


『その女の子なんて名前?』


 聞いてどうするんだ、と不審に思いつつも素直に述べる。

 知世子だよ。佐藤知世子。


『知世子ちゃん……ね。ならチヨね。私はチヨがいいと思うなぁ。チヨちゃん。うん、可愛い名前ね』


 なにが?


『きっとその子、挨拶しに来てくれたのね』


 いや、だからそう言っ、


『妊娠』


 えっ?


『妊娠、してたの』


 ――『チョコはサヨナラなんてしないんだよ! だって、また会えるんだもん!』


 別れの際に発した言葉を反芻する。

 同じ台詞を、十六年前の八月三十一日にも言っていた。


 夏休み最終日。

 チョコが最後に言った今生の別れの挨拶を、今更思い返していた。


 今度は嬉しさのあまり、涙が溢れてきた。



 完

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