第2話

 次の日の朝、目を覚ますと髭おじちゃんが朝ご飯の準備をしている音が台所から聞こえた。僕は布団をたとんで、縁側のカーテンを開けた。今日は梅雨の合間の清々しいほどのいい天気だった。髭おじちゃんは味噌汁とご飯を載せたお盆を持って来て「寝れたか?」と僕に訊いた。僕が「まぁ」と言うと、髭おじちゃんは「一日寝れないくらい大丈夫だよな、まだ若いから」と言って笑った。


 「ナオキは敦子姉さん、自分の母親のこと、恨んでるだろう?」

 髭おじちゃんは箸でつまんだ沢庵を口に入れながら、突然核心をつく質問をした。ドキッとした。聞きたかったけどなかなか言い出せなくて、ご飯を食べながらさりげなく聞こうと思っていたのかもしれない。僕はそういう髭おじちゃんらしいところが可笑しくて、少し笑いながら答えた。

「昔は殺してやりたいくらい恨んだけど、もう、恨んでないよ。」

「正直だな。」

「だから実は、あんまり悲しくもない」

 髭おじちゃんは少し寂しそうに沢庵を噛みながら「そうか」とつぶやいた。

僕は冗談めかして「悲しくないことが悲しい、なんてね。」と言った。

髭おじちゃんは箸を置き、何かを思い出したように突然立ち上がった。そして何も言わずトイレの隣にある奥の部屋に行った。奥の部屋は今は物置として使っているようだった。そしてしばらくして、両手でダンボールを抱えて戻って来た。


 髭おじちゃんはダンボールを畳の上に置くと、僕にこう言った。

「敦子姉さんの物、俺が預かってたんだ。預かるって言っても、こんだけしかないんだけどな」

「うん」

「見ていいよ。ナオキのもあるし」

「僕の物?」

僕も箸を置き、ダンボールを開けてみた。手についたほこりを振り払った。ダンボールの中にはアクセサリーや服に混じって写真が入っていた。色褪せた母の写真があった。母はセーラー服を着て高校の門の前にいた。

「美人だろ?」

気がつくと髭おじちゃんが、僕の後ろから箱の中を覗き込んでいた。髭おじちゃんは笑って言った。

 僕は1つずつ段ボール箱にあるものを取り出して、畳の上に並べた。段ボール箱の中に古ぼけた小さな正方形の缶があった。色褪せた缶には『ペコちゃん』の絵が描いてあった。

それを開けると、四つ折りになっている写真が一枚あった。それを開くと、それは小学校の校門の前で嬉しそうに僕の手を握る母の写真だった。

「それ折り目がついてるだろ?敦子姉さんがずっと財布に入れて持ち歩いてたんだよ」

 髭おじちゃんの言葉にショックを受けていた。

 母は僕の事などすっかり忘れていると思っていたからだ。僕は火がついたように無我夢中でダンボールの中の物を取り出して行った。まるで母が僕を愛してくれていた痕跡を探すように。ダンボールの縁に張り付くように、一枚の画用紙があるのを見つけた。取り出すとそれは恐らく幼い僕が描いたものだ。クレヨンで乱暴に描き殴ったようなお世辞にも上手とは言えない絵だ。3人が手をつないで立っている。おそらく僕と父と母を描いたのだろう。そんな汚い絵を母は大事に取っていた。僕の心が突然居場所を失い、右往左往し始めた。

 その画用紙を両手で握りしめたまま動かない僕に、髭おじちゃんは言った。

「姉さんが入院してた病院に、行ってみるか。もう誰も来ないだろうし、火葬は昼からだから、まだ時間がある」

 僕はうん、と小さく頷いた。母が亡くなった場所を確認しないと、散らかったままの気持ちが整理できない気がしたからだ。


 僕は髭おじちゃんの古い軽自動車に乗って、母が入院していた病院に向かった。車はサスペンションが傷んでいるのか、小さな段差で大きくバウンドした。車で30分くらいのところにあるらしい。車はどんどん人気のない山道に入って行った。ガタガタ揺れながら、車は走った。僕は無口になっていた。カーラジオのAM放送の割れた音に紛れて、髭おじちゃんが言った。

「敦子姉さんはバイト先の男と駆け落ちした後な、すぐ別れたんだと。バカだよなぁ」

初めて聞く話だった。

 「姉さんな」

 「うん」

 「ナオキに、会いたがってたよ」

髭おじちゃんの言葉が胸を締めつけた。

「でも、ナオキにはひどい事をしたから、合わせる顔がないって」

 僕は髭おじちゃんの話を黙って聞いていた。


 

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